日本列島の奥深い歴史がありました
2023/10/26 09:30
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投稿者:トマト - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本列島人の考え方の根源に近づける本でした。この本の内容に世間では批判があるのも知っていますが、一つの考えとして読むと、ところどころ思い当たるところが。
このように日本列島内を分けてみることができるのですね。「縁」があるないで大きな違いが出る。境目(山から平地の境目、虹が立つ場所は天と地の境目など)には意味がある。そんなふうにも考える事が出来るのかと「へぇ~」となりました。
できれば読みたい
2024/03/15 14:23
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投稿者:sinoazumi - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前読んだ網野善彦の本は、なるほど目から鱗だった。
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今年(2004年)2月27日に亡くなった網野善彦の代表作。縁切寺や子どもたちの「エーンガチョ!」に見られるような「無縁」の原理は、原始のかなたから生きつづけているものだという、人類学的な拡がりを見せる日本中世史の本。普通は「縁」こそが日本独自の共同体の論理だと思われているが、「無縁」もまた「公界」という公共の領域を作り、「楽」と言われるように一種の自由を享受していた。しかし、その自由は近世になるにつれて「縁」の論理のうちに取り込まれていき、差別として固定化されていく(つまりエタ・ヒニン)。網野善彦がこの「無縁」の論理に一種の「希望」を見出し「自由」と形容したことに、抵抗と共感の両方を感じる。つまり、「楽観的すぎる」「もっと社会構造の観点から攻めるべきだ」という批判と、その論理が現に生きられたものであったからには、それはあくまで一種の「自由」であり、ひとつの生き生きとした社会的現実ではないかということだ。どちらにしても、この本にさまざまな可能性を感じるし、単なる日本史の専門書としてだけでなく、ひとつの読み物として魅力的だ。
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私が卒論を書く上で、凄く影響を受けた本。現代の闇の部分、アウトサイダー、差別問題をこの本に書かれている中世を通じて見ることが出来る。
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「公権力もしくは社会的関係が及ばない世界」でいいのだろうか。無縁の話で引き合いにだされるのが「縁切寺」で、ここに入ると夫婦関係(社会的関係)はナシになるし、「楽市楽座」の制は<座>の縁を無くした場所と説明できる。
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都市が村落との差異を持ちうる要因、市・盛り場などの都市のハレの場となりえた要因、これらは近世以降の概念では説明しえない、無縁の原理によって規定されている。
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網野善彦は、間違いなく歴史学の天才でした。
この本は寺院と俗世、僧侶とその他の人々などの「縁切り状態」、つまり無縁を中心に、それが権力に取り込まれながらも形を変えて生き延びていく姿を文献資料を使って明らかにしています。
寺院に寄進された荘園もまた公権力の手の及ばないものになり、遍歴の芸能民も、一方では差別されながら、もう一方では力強く自由を持って生きていたことが分かります。
そして「無縁」は仏教的に肯定された語であることも網野氏によって証明されていく、歴史学の様々な前提を覆した名著です。
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冒頭で筆者は、子供時代のエンガチョの遊びや、江戸時代の縁切寺などの「縁切り」の例を挙げ、縁切り=自由、縁切り寺=アジール(避難所)という捉え方を提示する。そしてそのような「自由」の原理が以前にはもっと生き生きと活動していたのではないか、という問題意識の下で、中世、古代、さらには未開社会における「自由」のあり方を探っていく。
その結果明らかにされるのが、本書の表題でもある無縁・公界・楽と呼ばれる原理である。それは無主・無所有の思想が貫徹されているという意味でアジール、さらには一種の理想郷であり、未開・文明を問わず、世界の諸民族に共通して見られる。そのようなアジールの形態には3段階の変遷があるという。
未開社会では、王などの特別な人間や寺院、神殿、あるいは森林などの場はそれ自体がアジールとされ、世俗の権限の及ばない神聖な領域であった。これが第一の「聖的・呪術的アジール」であり、この段階では無縁の原理もすでに見られるものの、まだ後の時代のように具体的な内容を伴ったものではない。いわば「原無縁」とも呼ばれる状態にある。
しかし人類が自然の開発を進める中で「所有」を基礎とする有主・有縁の原理が分化し、無主・無縁の原理を「国家」として取り込んでいく動きが顕在化する。無主・無縁の原理の衰弱はここに始まるが、同時にそれは、それらの原理が有主・有縁と対立するものとして自覚化し、明確な意識化を遂げていく段階でもあった。これによって現れるのが、第2段階としての「実利的アジール」であり、日本ではその勃興期が古代から中世前期までに相当する。ここにおいては、遍歴民、勧進聖、一揆や惣、非人などの人々や、都市、山林、関渡津泊、市や宿、寺社などの場は、世俗的な権利の働かない無縁の存在であるとされ、「無縁所」「公界」「楽市楽座」などの名称の下に様々な特権、具体的には不入権、地子・諸役免除、自由通行権、平和領域、指摘隷属からの解放、貸借関係の消滅・徳政の免除、連座制の否定、自然的な年齢階梯による組織などが与えられることになる。
これらの原理がもっとも完成させた姿を現すのが室町~戦国期にかけてのことであるが、同時にそれはアジールが第3段階の「終末」へと向かっていく過程でもあった。有主・有縁の関係を固めた戦国大名たちは、無縁の原理の取り込みを一層進行させていく。それまで潜在的に無縁の場所として認められていた寺社は、戦国大名の菩提所とされ、大名からの文書を受けることで無縁所としての形態を認められることになる。これは「無縁所」としての完全な自覚化であると同時に、大名の統制下に組み込まれていく動きであると見てよいだろう。その結果最終的に現れるのが、織豊政権、さらには近世幕府のような統一的な国家権力である。この段階では、無縁の原理は縁切り寺(鎌倉東慶寺、上野国満徳寺など)、遊郭などのごく限定された領域にのみ認められることになる。
一方のヨーロッパでは、これらの段階を経た後、宗教改革や市民革命などの王権との闘争を通じて、近代的な自由、平等、平和の思想を生み出したと思われる。その点日本における無縁の原理は、近世以降特にその歩みを遅めたよう��も思われる。しかし、無縁の原理とその世界は、決して滅びることはない。その「無縁」の自覚化こそが、現代における日本人にとって重要であると最後に述べられている。
現在、エンガチョ遊びを知らない子供が増えている。これが「自由」「平和」の消滅と連携していることなのかは分からないが、いま末期症状を呈しているこの概念を、著者自身の経験から直観で捉えられるうちに形成期に遡って調べ上げた本書は、今後の歴史学研究に重用される文献となるだろう。
また、「末期症状」とは言いながらも、再生への展望が最後に示されている。ただ研究のみ行い、それを提示するだけの論文と違ってこの著者は、それを研究した者にしか為しえない、「確実に文脈に則った展望の提示」を行う。ここを特に評価したい。
さらに無縁の原理に関連して、従来の歴史学が軽視しがちであった非農業民的存在の人々や、都市的な空間に注目している。その点でも、後の歴史学に影響を与えたところは大きいだろう。
そして壮大な試みであるこの研究は、壮大な試みであるが故に発表以来様々な形で批判を浴びることにもなった。その中で筆者自身による再検討作業も進められ、1987年にこの『増補版』が出版されることになったが、2004年の筆者の死去にともない、その原理も未完成のままに終わっている。
また、本書では中世以前の「原始の自由」に生き生きとした生命力を見出し、それが近世以降に国家権力によって制限されていったとする点で、歴史認識としてはかなり悲観的なものがある。筆者によれば本書は、私的所有、有主的世界の進展を「人間社会の発展」ということができても、直ちに「進歩」と言い切ることができるのか、という疑問から出発し、「自然を人間と対立するものと見て、それを所有し、支配・管理することにのみに人間の本質を見出したときに、人間は破滅の道を進まざるをえない」と判断することにもなる。その上で、筆者は未開・文明を問わず世界の全ての諸民族の間に共通して存在し、作用し続けてきた無縁の原理を追求することで、従来の世界史の基本認識とは異なる、無所有の深化・発展に関する新たな人類史・世界史の基本法則を捉えようと試みているのである。それは、「進歩」や「自由」とは何なのか、という人間にとっての本源的問題とも関わってくる内容であるといえるだろう。しかし無縁の原理を追求するあまり視野が多少狭まるのだろうか、何から何まで無縁に関連づけることに、少し違和感を覚えた。
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こんにち子どもたちのあいだに残っている「エンガチョ」、江戸時代に妻が尼となり強制的に離婚するために駆け込んだ「縁切寺」、罪人がそこに逃げ込めば基本的に罪科を逃れられるという「駈込寺」などと列挙していき、主に戦国時代の「無縁所」という、世間との縁をいったん断ち切って内部での平和を保証する一種の聖域=アジールを浮かび上がらせる。
そしてこの無縁所は「公界」ともつながって、その場所の平和を土台として「市」=「楽市」が成立する。
タイトルだけだとなんだかよくわからないこの本は、知的興奮をよびさます名著である。
さらに「アジール」=「無縁性」は、どの文明・未開社会においても、普遍的に見られるものであると指摘し、とうとう人類学的な視野にまで到達するから壮観だ。
さて現代社会では、たくさんのお年寄りが所在不明になっていることがわかり「無縁社会」だと言われているが、この本に呈示されている「無縁」による「自由と平和」が、自由主義/資本主義としての「市場」を形成するのであってみれば、現在の社会はその無縁性・自由主義の到達点であると言えなくもない。著者はそんなこと、執筆時にはまったく考えていなかっただろうけれども。
ともあれこの本は面白かった。お薦め。
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宗教史の先生から必読と勧められて読みました。
中世の世界観を知る上でとても役に立った濃厚な一冊でした。
ただし一般向けに書かれた本ではないので文章は難しいです。
繰り返し何度も読みましたが読むたびにのめり込んでしまいます。
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もののけ姫のタネ本と聞いて手に取った。内容は、日本中世(鎌倉〜室町)において、「無縁」「公界(くがい)」「楽」と呼ばれるアジール(世俗権力や権利義務関係から絶縁している場所)が存在し、そこでは有縁の関係から離れた無縁の人々が活発に生きていた、という事を資料に基づき説いていくというもの(読み込めてないので正しくないかも)。
自分は日本史にまったく明るくないので読むのには苦労したが、興味深い内容も多かったので楽しめた。
本書は著者が学生から発せられた「天皇はなぜ滅びなかったのか?」「なぜ平安末・鎌倉時代にのみ優れた宗教家が輩出したのか?」という問いに対するひとつの試論として書かれている(pp.5〜6)。
後者ついて、それまでの論理から多少飛躍した部分があるものの、その回答はとても面白い内容だった(「二十三 人類と「無縁」の原理」)。
それをかいつまんでまとめると以下の通りである。
西欧の自由や平和・平等という概念はキリスト教のアジールから出発し、宗教改革や市民革命などによる権力との格闘の末に獲得されていった。それに対し日本におけるアジールは、仏陀の教えとして捉えられる形で鎌倉仏教に組み込まれ深化し、室町〜戦国時代にかけて無縁・公界・楽として意識化されたものの、以降はそれを発展することができなかった。江戸時代を経て幕末明治に西欧の自由・平等の思想が流入し、ついには日本的な無縁の自覚化、つまり日本にとっての自由・平等の思想がが起こらずに来た、というのが著者の見立てである。
これは夏目漱石が説いた「外発/内発」の話とも通じる話であり、とても面白い。著者は「その過程が段階を画するためには、『有主』の世界から、『原無縁』を最初に組織し、その後も『無縁』の世界の期待を体現しつづけた王権ー天皇との酷烈な対決を経なくてはならなかったが、その課題に、ほとんど手をつけることなしに、日本の『近代』は始まる。」(p.247)と述べている。この言葉の意味を明確には理解していないが、とても重いテーマのように感じる。
ちなみにもののけ姫の関連としては、おそらくタタラ場の扱いがそうだろう。戦国大名(の走りだろう)アサノ公方と対抗し、また病人などの有縁から外れた人たちが住む無縁の場として、タタラ場がある。自治共同体としての無縁の原理も、この著書に惹かれる部分のひとつである。
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著者が主張していることはだいたい理解できたのだが、本文の漢字の使用法が特殊(旧仮名使い?)なうえ、引用資料にも読み下し文が無いために細部までは詳しく理解できなかった。
被差別部落(民)の流れで読んだ本だが、網野中世史学の入門書としては適切ではなかったかもしれない。機会を改めて「日本の歴史を読み直す」にもチャレンジしてみたい。また、網野中世史学に影響を受けた隆慶一郎の作品も読み直す必要があるように思われた。
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なんとなく前から読みたいなと思っていて読んだ。専門書ではないので、読みやすい。引用されている漢文が読めず、力量不足を感じたところもある。
さて、「無縁・公界・楽」というのは、身分やら罪やら借金が吹っ飛ぶなんとも懐の深い場所だ。懐の深さということでは、大学は現代の「無縁・公界・楽」の機能を引き受ける必要があるかもしれない。
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最初に「えんがちょ」とか「すいらいほうらい」という自分が育った藤枝でやっていた、子供の時の遊びから始まったので、簡単なエッセイかと思ったら、全然違う。
駆け込み寺のような公の権力の及ばない、世界、無縁・公界・楽などの視点から、日本の中世史を分析している。
(1)堺などの自由都市というのも、むしろ公の権力の及ばないところ、無縁の世界と考えることもできるらしい。
(2)市場、網野さんは市庭というのも、無縁性があった区域らしい。
(3)河原の中州、山林、寺院、墓所など、一種のけがれの空間から無縁の世界、人々が始まったという考え方は、おもしろい。
白川静先生が、孔子伝で、孔子は葬祭をあつかった下層の祭司という指摘をしていたが、そのような現世からの境目を扱うということに、なんらかの神秘性、宗教性を感じるというのは、世界共通かもしれない。
そこに、現世とは別の中間領域がうまれ、そこに駆け込む人がでてくるという発想、おもしろいな。
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網野善彦の『無縁・公界・楽』は歴史学の名著であるというのは決定的な評価なのだろう。
日本のみならず、世界の民族に共通する普遍的な原理としての「無縁」性。それを体現したアジールという避難所。無縁原理という豊かな思想の可能性について書かれている。
ただ、くしくも、現在の日本大手既成メディアで言われている「無縁社会」や「孤立死」との関連から本書を読むと、多少違った解釈が可能かもしれない。
それでも、無縁という原理にはどこかロマンがある。危険なのかもしれないが、そのような考え方は手放せないようにも思う。