紙の本
ヤンキー文化よ永遠なれ
2022/04/22 22:13
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投稿者:hachiroeto - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書のテーマは「反学校文化」、日本で言えば「ヤンキー文化」だ。学校では教師に反抗し、授業をサボり、仲間とつるんで悪さをし、卒業するとガテン系の仕事に就く連中、といえばイメージしやすいだろう。
実際、本書が描いているのは1970年代のイギリスなのだが、現代日本のヤンキーとの類似性は驚くほどだ。違うのは、イギリスでは人種差別の問題が大きく登場することと、「女の不良」がほとんど出てこないこと。ハマータウンの不良はなぜか全員男であって、女性は彼らにとってセックスの対象でしかないようなのだ。実際にそうなのか、著者があえてネグっているのかは定かではない。
それはともかく、本書が面白いのは、「野郎ども」への膨大なインタビューをもとに、学校での反学校文化を、本書でいう「手労働」の文化との連続性の中で捉え直していることだ。成績の向上や教師からの評価に反発する彼らのメンタリティは、立身出世や高給への反発にそのままつながっている。彼らにとってはそれよりも、男らしさやその場の楽しみを追い求めるほうが重要なのだ。
そんなのはけしからん、誰もが出世や成功を追い求めるべきだ、と思われるだろうか。確かに、学校は「そう言う場所」である。だが、それが問題なのだ。著者の言葉を引用しよう。
「教育の理念的な枠組みに縛られた学校では、少数者だけが個人的に成功できる条件を全員が従うべき条件として提示する。それで全員が成功するわけではないという矛盾はけっして明らかにされないし、優等生のための処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であるかもしれないことについては、学校は押し黙っている。ひたむきな学習、辛抱強さ、順応、そしてそれらの立派な等価物として知識を受容すること、これが全員に要求されつづけるのだ」(p.313)
「野郎ども」は、かなり早い段階でこの欺瞞を見抜いている。おそらくその理由のひとつは、彼ら自身の親が同じ規範、同じ経験をしているからだろう。そうでないにしても、彼らにとって、教師の言うことをおとなしく聞いて勉強している連中はバカそのものなのである。「野郎ども」は、それよりも別の価値観、たとえば「いっぱしの男であること」のほうが大事なのだ。
そうした指摘を行う一方で、本書は、そうやって自ら低賃金の単純肉体労働を選ぶ彼らこそが、資本主義社会の底辺を支えていることを見落とさない。教師への反抗はしても、彼らは組合闘争や労働運動にはめったに流れない(それは意識の高い優等生がやることだ)。だから「反学校の文化」は、実は経営者にとってはたいへん都合の良い存在なのである。
というわけで本書は、ヤンキーたちの反学校文化を糸口に、学校と教育の本質、さらには資本主義と階級社会の本質に迫る、充実した一冊。後半の分析部分はやや難しいが、「野郎ども」への聞き取りだけでも、読むとたいへん面白い。洋の東西を問わず、ヤンキー文化は不滅なのである。
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ブルデューの再生産にも繋がるようなエスノグラフィー。
徹底したフィールドワークによる分析は見事。
イギリスの階級社会を知る上でもいいかも。
カルチュアル・スタディーズの気本書でしょ。
タイトルもなんかいい感じ。
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必修のレポート課題で読んだ本。なぜコレを選んだかと言えば、リストの中でタイトルがやけに浮いていたから。
原題は"LEANING TO LABOUR"
イギリス労働階級の中でも反学校文化の担い手である男子生徒たち<野郎ども>が、自ら労働階級の職業を選び取り、既存の社会体制を再生産する一因となってゆくメカニズムをフィールドワークを通して解明した本。
イギリスの特定の学校を事例にしているので一般論にはならないだろうし、もちろん日本とは全く状況は違うけれども、守備範囲の中では、その調査と分析は素直に「すごい」のひと言。興味深かった。
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エスノグラフィーを学ぶきっかけとなった一冊。
イギリスの少年たちの学校観・職業観などについて、生活誌的な記述によって詳細に綴られています。
学校教育と労働の複雑な絡み合いが、丁寧に解きほぐされている気がします。
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再読。一年生の時のレビュー・・・ひどい・・・まったく読めてない。っていうかもう、何を言ってんだかって文章(まぁ一理あるような気もするけど、とにかく酷い)。まぁそう思えるということはチョットは賢くなったんだなと、嬉しい限りでございます。今回は時間をかけて、読書ノートまで取りましたので、良く読めたと思います。はい。『自己責任』という言葉の乱用が始まったあたり、日本もこの状況と似たような社会階層と環境が出来てきているんではないかと、本書の発する警告の有効性に寒気を覚える。ただ日本の場合、搾取に苦しんでるのはむしろ〈耳穴っこ〉達のように感じ、文化構造の違いを実感する。
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いろんな人が面白いっていうからついつい手に取って読んでみた。
まず「生活誌」を読み終わって、かなりおもしろかったからこりゃみんな面白いっていうわな、みたいな感想を持ちつつ第二部の「分析」に入ったらバットで後頭部を思いっきり殴られたような衝撃を受けた。ものすごい。これは単なる反学校文化に関する本ではない、本書の基軸はそこにおかれながらそれをとりまく資本生産様式(資本主義)や階級文化、支配イデオロギーなどについて詳細に分析がなされている。ここまで鮮やかに構造や文化を説明できるものなのか!?とにかくすごいとしか言いようがない。見えないものをこうも見せつけられると著者の分析•調査の綿密さ感嘆してしまう。ここまで感動した社会学に関する本は初めてだと思う。(つまり今までろくなものを読んできてなかったとも言えるけど^^;)とにもかくにもぼくも社会学的な「見えないものをみる力」を身につけたい。そうすれば世の中、社会への見方が今よりももっと面白いものになりそうな気がするのだ。もちろん女性の下着を透視するっていう意味での「見えないものをみる力」を手に入れたいと切望していることは今更ながら言うまでもない。
【追記】
この本を読んでいたら、自然とオアシスのギャラガー兄弟が頭に浮かんだ。
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社会学におけるエスノグラフィーの古典。
原題は[Learnig to labour]
貧困からの脱却を企図するならば、ブルーカラーよりもホワイトカラーを目指す。にもかかわらず「野郎ども」は積極的にブルーカラーを欲望する。
なぜか?
盲目的に杓子定規に学校の勉強に励むこと、
権威に対して従順であること、
これらは「野郎ども」にとっては恥ずべきことなのだ。
学校教育は教師の貯蔵する知識を「従順」と「尊敬」をみかえりに少しずつ手に入れる空間である。そのシステムを「拒否」「反抗」し、軽蔑さえする。彼らが価値を置くのはマスキュリンの象徴「筋肉」「猛々しさ」なのであり、その延長にあるものこそ肉体労働なに他ならない。支配的な価値観に反吐を吐き、敢えて反抗する。青年期の反抗は、自らの肉体労働にポジティブな自己認識を付与する。
杓子定規な学校教育に抵抗するからこそ、社会構造の構築に加担する。だからこそ、社会構造は安定的になるというパラドキシカルなリアルを見事に喝破する論考。
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『だまされない議論力』吉岡友治 の巻末の読書案内に出ていたもの。そのうち読む予定。-「イギリス労働者階級の青少年の生活・心理の見事な分析。青少年たたきをやす評論家もこれくらいのことをかいてほしい」
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「構造と文化とは、どちらも一方を切り離して個別に考えることのできない、ある必然的な円環をなしている。実在の社会構造は文化の位相を通路としてはじめて概念上の構造へと転換されるのであり、逆の転換もまた同じ通路を通る。文化なるものは、およそ社会の再生産という弁証法的な過程に欠くことのできない一方の契機なのである。」(407-8)
<野郎ども>たちなりの合理性の階段をのぼり、主体的に選び取ったと思われる職業選択が、実は「手の労働力」を再生産する仕組みの中に包摂されてしまっている、つまり結果として彼らの階層を固定し社会構造を安定再生産することに貢献してしまっている、その様をフィールド調査をもとにありありと描く。それは、人間をシステム論的に無力化する視点でもなく、実存主義的に屹立した我による絶対の選択を認める視点でもない。社会を枠付けている構造と、その中で生きる文化、どちらもが相互に影響しあうという視点をとることによって可能となった筆致だ。
著者はそこから、自らの洞察を楽観にも悲観にもつながるものとして捉える。人間は様々な阻害を乗り越え、外部構造を変革することができるかもしれない。しかしまた人間は、<野郎ども>のように、外部構造によって歪められた洞察の結果、ひたすらに自らを、変わりない再生産の渦の中へと閉じ込め続けてしまうかもしれない。本著が暗示したこの明暗の両面がそれぞれどういった部分で妥当しているのか、現代日本を読みとくにあたりひとりひとりが背負う課題であろう。
人びとの自発性を動員する文化の中の諸要因をも、天蓋のような「メタ構造」として定義するるならば、著者もまた構造主義者の一派に過ぎないといえるのかもしれない。変革のために政治行動の力に期待するあたりは素朴ではあるし、運動の「発生」と「達成」の間の可能条件のズレには、非常に重要なポイントであるにも関わらず言及しきれていない(それこそ認知構造の歪みが何より問題になる場面のはずだ)。
しかし何より、このような多様な批判と挑戦を可能にする土台を後世に残したという点だけでも、このフィールドノーツのもつ意義は凄まじい。構造と文化についての、偉大な試論。具体例を通した社会学の教科書としても、より広く読まれて欲しい作品だ。
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イギリスにおける階層分化。底流を生きる労働者階級の子どもを追った作品。
野郎どもはとにかく退屈しているのだ。学校という階層再生産工場、その工場長と勤勉な作業員に。野郎どもはそういった権力装置に対して徹底的に対抗するのだが、それがもたらす結末も彼ら自身解っている。
「…この今のために生きたいんだよ。この若いうちに人生を楽しみたいんだ…(中略)…たとえば、<耳穴っ子>なんかはさ、やれ試験だの、やれ勉強だので、仲間とつき合うこともないし、楽しむってこともとくになし、それで十五年も辛抱して気がついてみりゃいい大人になっててね…(中略)…言ってみりゃ、お役人タイプってとこかな。マイホームを持ったりするようなことは全部おれたちより先にするさ。やつらは名士になる。ああ、お役人タイプの名士になるぜ。おれたちは下積みでウダツがあがんないのさ。」
そうやって階層が再生産されてゆく事を承知したうえで、彼らは反抗したのだ。
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社会科学かくあるべし.良書というものは,知らなかった知識を与えてくれるよりもむしろ,知らなかった考え方を教えてくれるものである.本書はそういう本である.
労働者階級の家に生まれ育った子どもたちが,なぜ資本階級ではなく再び労働者として再生産されるのか.この疑問に対して,本書は学校の「問題児」「優等生」「普通のおとなしい子どもたち」「教師」に対して長期間にわたる追跡インタビューを行い,個人のなかで学校という制度の中でその「労働者の再生産」がどのように生じているのかを分析する.
本書の良いところは,マルクスに示されるような「構造の観点」からのマクロな視点での分析だけにとどまらず,上に書いたように,少年たちの考え方の表出型をミクロな視点で分析することで,マルクスが曖昧にしていた「労働力の供給」のメカニズムに言及した点である.複雑な社会現象の中で因果を抜き出すことは難しい.たとえ単純な現象ひとつ取り上げたところで,そもそも因果を論じることは非常に困難なことである.本書では直接の因果を導き出すことを目的としないものの,複雑な現象を「社会構造」「イデオロギー」「文化」「インフォーマルグループ」「学校」「労働」などといった観点から鮮やかにひもといてくれる.
「人間とは」「社会とは」「文化とは」「労働とは」の書き出しで始まるような事柄について新たな考え方を与えてくれる本であることは間違いない.
ちくま学芸文庫は文庫のくせに分厚く字も小さく金額も相当のものであるが,それだけの価値は本書にはあった.
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論理が明晰で面白かった。第一部 生活誌 も、正直読み物として面白いし。
日本の状況、その後のイギリスの改革と照らし合わせた訳者解説も、狙い、この本からどう発展させていくべきかの例示として明快。
そして昨今の『がんばらない~』本の流行とか、スローライフ、ワークシェアリング等々の言説の流行は、
<野郎ども>の対抗文化のようなかたちでの資本主義的な時間観念や労働観による労働力搾取(ようは真面目に働き過ぎちゃう事態)への自衛のすべを
持たず、生み出してこなかった国では、本やら何やらまた「おかみから」自衛手段を教育していかざるを得なくなったってことなのかしら、等々思った次第でした。
以下はメモとして。そのまま引用。
あとがきによると、こちらは
「1970年代後半に登場」した「ネオマルクス主義とエスノグラフィックな研究とを結びつけた「抵抗理論」」ということのようなので、
そちら方面の勉強された方には自明な論理なのかもしれないのだけれども、
最近読んだ見田先生の対談なんかでも似たようなこと書いてあって私的には印象深く面白い一節でした。
*
学校教育における交換関係は、資本制生産の基底を形作る交換関係と相似形をなしている。
だから前者を受けつけないことによって、<野郎ども>はある一般的な<洞察>に達する・・・
つまり、労働力は市場で売り買いされる商品ではあるが、労働力の支出水準は一定の不変量に固定されない点において
他の一般商品とははっきり異なっていること、この事実を見抜くようになる。
道徳の教えがどうであれ、法律がどう定義していようと、労働力が資本制生産過程における唯一の可変的契機であることに変わりはない。
だからこそ労働力が利潤と資本蓄積の源泉になる。
労働者がその賃金相当部分を越える価値量を生産するという事実に、資本制生産の本質がある。
すぐれた資本制経営とは、資本の可変部分をより高密度で運用し、より多くの価値量を回収する経営である。
そして労働力こそは、その可変量をふくんだままで購入されうる唯一の商品である。
マルクスの古典的理論でいえば、労働力商品のこの特殊性に労働者が気づかずにいるかぎり、資本制生産関係はその根本のところで合法化される。
利潤の源泉である搾取の過程はこうして温存される
反学校の文化は、しかし、それ自身の文脈で労働力の性格を理解する。
そして、あたかも本能的に労働力支出を制限する。もちろんこの場合の直接の動機は、少年たちが思い思いの活動に打ち興じる物心両面の自由の余地を確保するためではなるけれども。
(317-318項)
フィールドワークから採取された言葉として、まず工場労働者たちのあいだには
「やつら(経営者たち)は能率をあげることにかかりきてtるから、言いなりになってたら搾り上げられちゃうぞ」などなど。(316項)
再び引用。
具体的な職種が少しずつ異なる側面よりも賃金労働として等しく共通する側面のほうが重要であるという考え方には、確かな道理がある。
すべての労働をひとまとめにする共通項とは、労働力がその市場価値以上の価値を資本に付け加える事実である。
資本制生産が使用価値のための生産ではなく剰余価値のための生産であることは、何人も疑うことができない・・・
具体的な姿においていかに異なってみようと、人間労働が<抽象労働>として等しく搾取の源泉となる点に、資本制生産の固有の論理がある。(323-324項)
<抽象的労働>を測る尺度は時間である・・・資本主義の社会では時間は直線的に進行する。一刻もむだにせず活用しなければならない。
そうした標準時間によってはじめて、複雑に連携する多数の労働を同調させることばできるのだし、そもそも労働のつくりだした価値と剰余価値を測定することができる。
まさに「時は金なり」である。だが、「時」と「金」を結びつける実体的尺度は実は<抽象的労働>にほかならない。(328項)
どの仕事(職種)についても同じとする非積極的な職業選択への態度を、
彼らなりの論理での労働の共通性を見抜いたものであり、
それに学校が定める時間割の攪乱といった<野郎ども>の行動、対抗文化を、資本主義的な時間観念を退ける試みと捉える。
従って、
反学校の文化には、その担い手たちの置かれた状況にたいするいくつかの洞察が含まれている。
充分に生かすことさえできれば、この洞察は、現在の社会を根底から批判する手がかりとなり、現存のものとは別の社会を創造する政治行動のための武器となりうるはずである。(340項)
ここまでが第4章までの論理。
第5章「制約の影」において、なぜそうならず、やはり<野郎ども>が粛々として親と同じ手労働(非熟練労働)の世界に入り、階層関係の再生産にむかってしまうのかが考察される。
個々で言われるのは、肉体労働が男性性に、精神労働が女性性に重ね合わせられ、かつ父権制的な制度/価値観が肯定されているという事態から、
女性性にたいする男性性優位の構図から、肉体労働は精神労働に対し優位なものとして認識せられるという構造である。
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「借」(大学の図書館)。
教育学・社会学の名著。
改めて読むと、やっぱり名著だなと。
今でも読むと結構衝撃を受けると思う。
教育という営みに何かしら思いを抱いている人は一度読むことをオススメする。
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[ 内容 ]
イギリスの中等学校を卒業し、すぐに就職する労働階級の生徒のなかで、「荒れている」「落ちこぼれ」の少年たち=『野郎ども』。
彼らのいだく学校・職業観はいかなるものか?
学校はどのような進路指導をしているのか?
彼らの形づくる反学校の文化―自律性と創造性の点で、たてまえの文化とはっきり一線を画している独自の文化―を生活誌的な記述によって詳細にたどり、現実を鋭く見抜く洞察力をもちながらも、労働階級の文化が既存の社会体制を再生産してしまう逆説的な仕組みに光をあてる。
学校教育と労働が複雑に絡み合う結び目を解きほぐす、先駆的な文化批評の試み。
[ 目次 ]
序章 「落ちこぼれ」の文化
第1章 対抗文化の諸相
第2章 対抗文化の重層構造
第3章 教室から工場へ
第4章 洞察の光
第5章 制約の影
第6章 イデオロギーの役割
第7章 文化と再生産の理論のために
第8章 月曜の朝の憂鬱と希望
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
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前半部分の事例研究は、訳がこなれていて読みやすく、読み物として楽しめます。ただし後半の分析にかんしては、この本がどのような文脈で(どういった言説に対するアンチテーゼを提示しているのか、どのような点が当時新しい研究であったのか)書かれている本なのかという点にかんして理解がないとやや難解かと思われます。