投稿元:
レビューを見る
・九州の旅行中に心付きし事なるが、小さき橋にても其四隅の袂に大木を植えたるもの多し。日向の椎葉山中にて見しは橋辺の木に限り必ず杉なり。之は以前疑いもなく橋の控え木の用を為せしものなり。
架橋の術進みては控え木の必要なくなりたれど、昔は此樹木に大綱を掛けて両方に渡せしなり。椎葉の山村を始め阿波の祖谷(いや)等の山中には、今も藤橋とてゆらゆらとする古風の橋あり。
―後狩詞記
・我々の祖先の植民力は非常に強盛でありましたがそれにも明白に一つの制限がありました。如何なる山腹にも住む気はある。食物としては粟でも稗でも食うが、唯神を祭るには是非とも米が無くてはならぬ。
今日の考では解しにくいが昔の人の敬神の念は中々生活上重要なものでありました。そこで神には粢(しとぎ)なり神酒なり必ず米で製したものを供へねばならぬ故に、仮令一反歩でも五畝歩でも田に作る土地の有ると云うことが新村を作るに欠くべからざる条件であったのです。
物恐ろしい山間へ始めて入込むのですから殊に産土の神の力に依頼する必要のあった上に、海岸などの平地では取り別けてここを水田にときめて置く必要はなくても、山中では田代の地が非常に肝要であった為に、自然地名と成って今日に残って居るのでありませう。
・山ノ神は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必づ祭る神で、村によっては其持山内に数十の祠がある。思うに此は山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地と未だ占有せぬ土地との境に立てて祀ったものでありませう。