紙の本
台湾ランドスケープ
2002/03/06 13:27
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:EIJI - この投稿者のレビュー一覧を見る
台北の街にアジアNIESの高度成長を見るような文章が巷にあふれている一方で、この本は台湾の少数民族に触れた稀なエッセイであるといえる。自然体で一貫しているようでいて、急に肩に力が入ってしまうようなくだりもあり、読後感をひと口でいえば、魅力的だが不安定な文体、である。そういうあやういバランス感を著者と共有できる人にはぜひともお薦めしたい。そうでない人にも、先にあげた理由で貴重な内容である。これからも台湾は確実に日本の隣に位置し続けるのだから。
投稿元:
レビューを見る
アジアブームの中で、台湾は、発展がとまったように
みられている。いまは、そのモデルが見えない。
この本は、1988年5月に、台湾に行った。
ことから始まる。
そして、翌年、また旅行し、まとめたものである。
台湾では、1949年5月にしかれた戒厳令が、
1987年7月に解除された。
その年の11月に中国への旅行も解禁となった。
この本の著者が、訪れたときは、戒厳令の解除、
自由化、民主化にわき返っていたときである。
そんなときに、中心地ではなく、
台湾の片田舎に行って考えていることに興味がある。
「風景の前では、人は無力だ。
旅する人にできるのは、彼らを乱さず、立ち入らず、
ただじっと眺めるだけ。
そうして初めて風景の中に抱かれることができるのだ。」
この中で、台湾を知るときにいくつかの言葉にぶつかる。
光復;日本の敗戦によって、
台湾が祖国の中華民国に復帰したこと。
しかし、光がもどるという表現は、
誰がつけたのだろう。おそろしい表現である。
日本の中国語は、大陸では、「普通話;プートンホア」、
台湾では、「国語;クオユイ」とよぶ。
広東(カントン)出身の漢族には、客家(ハッカ)語、
福建(フーチェン)出身の漢族はミンナン語を使う。
三民主義;民族主義、民権主義、民生主義
三民主義は、救世、救民、球人の思想
タンピン
1987年外国に留学した台湾人6、599人のうち
6、052人がアメリカ。
差得大 ひどいさだ。
日本人にたいする考え方が、韓国型ではない。なぜか?
大陸に対しての思い出というものが、風化してきている。
他民族的な複雑な流れ。
台湾人の夢は。
投稿元:
レビューを見る
ただの台湾マニアとしてさりげなく手にとって読んでみた。
唐突に石垣島から基隆に向かったり、蘭嶼も含めた東側を重点的に回って、原住民と交流を深めたりと、なかなかの変化球ぶりだった。原住民との交流が多く描かれているとはいえ、なんとなくがちゃがちゃっとした人懐っこい台湾人らしさが溢れる交流が多く、どこか懐かしい。
ちょうど大陸への渡航が解禁された直後で、社会に大陸熱があり、大陸で中国語を勉強したことがある著者へ質問攻めにする人々も興味深い。それ以上に、どこで中国語を勉強したのかという問いに大陸と答えるという表現が何度もでてくるが、今だったら発音ですぐにばれるのが、当時はばれなかったであろうことが面白い。
また89年の時点ですでに日本に対して良いイメージを持ってくれていることもよくわかる。日本で受けた教育とのギャップに著者が少々混乱している様子が描かれている。
また大陸に妻を残し、国民党と台湾に来た兵士たちが、いつ戻れるかわからない、戻る時に困らないように独身を貫いている。そういったなかなか光の当たらない人たちとの交流もまた興味深い。
さらに霧社事件の生存者の話もあったりして、セデック・バレの映画シーンがフラッシュバックした。事件後についての表記もあり、双方がひとまず和解できていることを知った。
P.28
「沖縄というのがあって、日本のいちばん南の県だ、という感じはあまり持っていないみたい。むしろ、琉球、と言うとわかるの。(中略)」
沖縄から台湾大学に来ていた日本人留学生は、国籍の欄に「日本」ではなく、「琉球」と書くように言われたという。
P.138
台湾の憲法でも、言論は自由である。
「完全に自由です。ただし、反共を国是としていますので、共産主義を主張することはできません。独立は、これを主張することは自由ですが、行動はできあせん」
行政院の人は、そう語っている。
P.173
「戦後処理の問題は、アジアの平和のためにも重要なことです。この問題がきれいに解決されなければ、少なくとも台湾では、子々孫々このことが語り継がれることは間違いありません」
八八年度予算に補償の一部が組み入れられ、この問題は一応の解決を見た、という見方が日本ではされているが、台湾ではむしろ、申請手続きのはじまった八八年九月から選挙の年である八九年にかけて、このことに関する議論が高まっている。すなわち、なぜ補償金ではなく「弔慰金・見舞金」なのか、同じ戦死者でありながら日本人には二千五百万円、台湾人には二百万円という違いはなぜか、死傷者ならずとも、帰還手当ても俸給もなく生きて帰って来た人たちへの補償はどうなるのか。
P.181
「日本人の霧社会というのがあって、事件の頃やそのあと、巡査してた人や住んでた人やその子どもらが集まって、あるときは日本で、あるときは台湾で会をします。私も行くよ、お土産に、肉のでんぶ一袋づつ持って。日本の新聞社の人来て、聞いたよ、皆殺し合いするほど仲悪かったのに、どうして今こんなに仲いい。私言うたよ。あれは昔のこと、昔悪いことあっても、今どうこういうことない。山の人は、日本人来たらなつかしがるよ、て」
P.234
偶然にも、台湾の年号である民国と大正は、ともに一九一二年が元年。
P.243
「日本時代の方がよかったなんて、とんでもない。間違えてはいけない。植民地支配にいい支配も悪い支配もない、そうでしょう?」
五十代のある人は、上の人たちへの世代批判を含めてそう言います。
「台湾の場合、そのあとがまた悪かっただけ。どちらがより悪いか、くらべることは意味をなさない。ただ、こう言えるでしょう。昔大きな犬に噛まれた傷より、たとえ小さな犬でも、今噛まれた傷の方が感じる痛みは大きい、と」