投稿元:
レビューを見る
著者の情熱にはマックス・ウェーバーの「プロ倫」を思い出させる気がします。後醍醐天皇の改革が日本の神仏を頼る人たちを没落させ、中世を大きく変革させた。そこから重商主義が勃興し「資本主義」の素地が出来たと言うのは皮肉です。同和問題の背景についても著者の説明は明快です。必ずしも江戸時代の幕府の政治的な政策に説明を求めることなく、何故差別が生まれて行ったかを社会の変化とともに描き、もっと根の深い問題であったことを痛感します。日本において神に仕えるとされた人たちが、差別される側に変化してしまう「聖と俗」の逆転について興味深く考えされる本です。
投稿元:
レビューを見る
都市に基盤をおく重商主義的社会と農村を基盤とする農本主義的社会という対立軸を設定し、中世に前者の勃興による社会の変動をみる。
人が制御できないもの=「悪」ととらえ(「悪僧」「悪党」「悪人正機」)、神・天皇と直結した非人・神人などが社会の周縁部=無縁において資本主義的ネットワークを構築する構図を描く。悪の肯定・悪の制御において鎌倉新仏教が果たした役割など興味深い。
ただし、安達康盛、足利直義が農本主義、平ヨリ綱、尊氏、高師直が重商主義というのはやや図式的すぎるか・・・。
投稿元:
レビューを見る
日本の仏教は、なぜ鎌倉期に優れた人材を輩出したのか? ほかの時代ではなくこの時代だったのはどうしてなのか? 著者はこの問いに向き合ってきたのだという。
そして従来、農業社会と考えられてきた中世が、都市化されていたことを発見する。
あわせて論考される「差別」について、差別は人間の根源的な問題ではなく、あくまでも社会システムによるものだとする。うーん、差別にはもっと自覚的にならなくちゃね。こればっかりは関東の人間はちょっと無神経かも。
投稿元:
レビューを見る
1997年刊(初出80~97年)。著者は神奈川大学経済学部特任教授。言わずと知れた日本中世史研究の論客の書だが、相変わらず新たな気付き事項が多い。本稿では、鎌倉新仏教の興隆の要因(特に時宗・真宗・日蓮宗)として、貨幣を軸にした経済活動・交易の拡大と、彼ら勃興する交易民の心性に新仏教が響いたという点が第一にくるだろう。また、天皇を軸とする王朝支配が、中世初期以降、荘園公領制と共に、神人・供御人制に依拠するようになった指摘も同様。この交易活動拡大が、河川水運を利用した山中の村(農業民×、職人○)にも及ぶ点も。
全体の見通しを良くする上で、古代から中世、近世くらいまでの交易史・商業史、これに貨幣史を絡めた論考を見てみたいところ。
投稿元:
レビューを見る
2012.11記。
全体としては既にほかの著作で論じられているテーマとの重複感が目立つものの、本書の圧倒的な価値は「宗教と経済活動の関係」という最後の一章にある。
高校教諭をしていた網野氏が「なぜ平安末・鎌倉時代にだけすぐれた宗教家(親鸞、道元等々の所謂鎌倉新仏教)が輩出したのか」と学生に質問され、答えることができなかった、というエピソードを引用しつつ、ついにこの難問の回答にたどり着いた、と静かに宣言する恐るべき短文なのだ。
「百姓」は本来「あらゆる職業」という程度の意味であって決して農民だけを指す言葉ではないこと。
しかしその誤解から古代、中世日本の商業民、職能民の豊かな営みが十分理解されていなかったこと。
「市場」の持つ(個人とモノとの関係を断つ(無縁にする))不思議な機能と資本主義との関係、海上交通を通じた交易ネットワークと海賊たち。
古代律令制の理想とする「農本主義」と相いれないこうした人々が(現代とは全く違う意味で)「悪党」と呼ばれるようになるプロセス、、、
「質問」への回答に関する肝の部分は置いておくが、こうした網野史学のエッセンスが一本に要約されたことは貴重だ。新書版の改訂版が今年に入っても出ているようなのでやはり「名著」の一冊に数えられているのではないだろうか。