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紙の本
読者の脳を躍動させる名著
2001/02/13 23:07
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本はとても面白くて、触発されるところが多くあった。たとえば、明治以降のこの国の近代化にとって西欧社会の存在はいわれるほど大きな要素ではなく、むしろ中世の「自然」を封印した近世の「人工」、著者の言葉でいえば江戸の脳化社会の延長として近代日本の問題性をおさえるべきなのだといった視点。私なりに整理すればこうなるのだが、それ自体はさほど新奇な主張とは思えないものの、そこに自然と人工、身体と心の葛藤、そして夏目漱石の胃潰瘍と三島由紀夫の生首が、抑圧された身体のもたらした文学的二大事件であったなどという話題が投じられるや、俄然、目から鱗の視野の広がりを感じさせられる。
このような視点からはただちに、篠田一士氏が「ヨーロッパ文学を必要としない」文学者と形容した幸田露伴(夏目漱石と同じ年に生まれ、敗戦後まで生き存えた)や、『露伴随筆』五冊本(岩波書店)の選者石川淳の文学の面白さ、有島武郎の『或る女』における身体表現の特異性といった問題群への回路がつながるように思う。しかしそれはまた別の話題であって、ここでは「表現とはなにか」と題された終章から、興味深く読んだ文章を書き抜いておくことにしよう。
まず「世界は表現だ」と著者は宣言する。表現を創り出すのはいうまでもなく意識である。意識ははかないもので、そのはかない意識を保存するものこそ、意識が外部に創り出す表現なのだという。文学、絵画、音楽、法律、制度、都市、それらはすべて意識の表現であって、意識が自らを外部に定着させる手段である。
《意識のそうした定着手段、それはかならずしもたがいに排除するものではない。ただし、たとえば都市と文学はなぜか矛盾するらしい。秦の始皇帝は万里の長城を築くが、焚書坑儒を同時に行う。立派な建造物は必要だが、本はいらないというのである。始皇帝陵の発掘で知られる驚くべき規模の遺跡は、建築型の意識の定着法と、文字型の意識の定着法とが、たがいに抗争することを示すように思われる。西方では、エジプト人のピラミッドと、ユダヤ人の旧訳聖書の差を思えばいいであろう。どちらを採るか、そこにはおそらく無意識が関与しているに違いない。》
建築(都市)と文学。この二分法は実に多義的だ。空間と時間、視覚と聴覚、権力と個人などといった一面的な理解では、養老氏の「直観」がもつ豊かさと奥行きを殺してしまうだろう。テクストとしての建築(都市)や「凍れる音楽」としての建築もあれば、建造物としての文学もある。むしろ世界を記憶の痕跡として見るか編纂されつつある書物として見るかの違いというべきか。いや、これでは何をいっているのか判らない。そもそも建築と文学という二分法そのものが、刺激的ではあるものの「概念」的にうまく整理できない豊穰さをはらんでいるのだと思う。
私は補助線として、装飾と音楽の二分法を付け加えてみてはどうかと考えている。建築と文学が意識の「意識的」な表現であり表現の媒体であって、したがってそこに表現の主体と客体、形式と内容、技法と素材、そしてそれらを媒介するものの働きがあるといった、いわば弁証法的プロセスを含意するものであるとすれば、装飾と音楽は「無意識的」な表現そのものであり、それ自身として生成し、あるいはそのような表現を成り立たせる特定の場においてその都度発生し反復する、いわば非−弁証法的なプロセスそのものなのではないかと私は考えている。正確にいうと、そのようなものとして装飾と音楽を建築・文学に対比させて、原理的に考えてはどうかということだ。
とまあ、ずいぶんとたくさんの刺激と素材を与え読者の思考と想像力の躍動を促す、これは紛れもない名著だ。
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