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オースターの作品を始めて読んだ時、ダンボール箱を積み上げたような作品だと思った。それまで、村上龍のような意図的に過剰なダイアログを多用した作品を好んできた私にとって、必要最少言語で書かれる物語の美しさは、新鮮な驚きだった。これは、アゴタ・クリストフやタブッキの小説にも通じるものだと思う。私の読書傾向を根底から変えたのが、オースターであり、尊敬すべき訳者、柴田元幸である。
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失踪した友人を追う僕が壊れてく・・というのはおもしろい設定だと思ったけれど、全く物足りなく何度も寝かかった。自己の中の他者性かぁー。それにしてはーーなんだか期待はずれ
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現在、人生で何度目かのオースーター熱が再燃中。でも最初にハマったのがこれだった。読み始めたら止まらなくて、仕事中も資料のフリをして読んだり、無理に外出する用をつくって移動の電車内で読んだりした。強烈な「吸引力」がある小説。読み進めていくうちにゾワゾワと怖くなってくる。正直ラストはちょっと肩透かし感もあるけど、いろんな解釈が可能になって逆に良かったのかも。
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★気持ちを静かにかきまぜる★起伏のある物語が音もなく進む。オースターの小説は、BGMを消したような静けさのなかで進む。自分のなかの見えない自分(鍵のかかった部屋)を他人に投影し、いくら探しても結局は見つからない。そんなことを意味しているのだろうか。この本を読んだのは何度目かに違いないが、足の落ちつけ場をなくしたようなそれでいて焦りはない一風変わった不安な気持ちに、またなった。
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主人公のもとに、昔の友人ファンショーの妻があらわれ、友人が失踪したこと、友人ののこした原稿を主人公に渡しその出版を主人公に託すという伝言をうけとる。
ファンショーの書き残したものを出版し、同時に彼の妻と再婚した主人公のもとに、「自分をさがすな、見つけたら殺す」「妻をたのむ」とファンショーから手紙が届く。
ファンショーが生きていることを確信した主人公は、彼の伝記を書き記すという名目でファンショーを探しはじめるが、自分のなかにあるファンショーに対する憎しみに気付き、ひどい混乱におちいっていく。
ファンショーの失踪の理由は明かされることなく、ミステリアスな展開に吸い寄せられた。
静かに進むストーリー。音のない部屋で読みたい。
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ファンショーって本当にいるの?
"僕"も本当にいるの?
どんどん迷宮に入っていってしまう。
でも好きです。
最後まで一気読みです。
最初から本題に入るのも好きです。
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ニューヨーク 3 部作のトリを飾る本作、
「ガラスの街」「幽霊たち」とは独立した全く別の話であるが、
でも見事に繋がっているんだなぁ。
この順番で読むのがやはり良いような気がする。
決してエンターテインメント作品でないのにドンドン読んでしまう、巧い。
自分が自分であると当たり前に信じてきた前提が崩壊するとき、
我々は鍵のかかった部屋を上手く見つける事が出来るのであろうか。
自分と他者、追うものと追われるもの、見張るものと見張られるもの、
書くものと書かれるもの、うーん分からなくなってきた。
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作家オースターの礎を築いた、『ガラスの街』、『幽霊たち』に続くニュー・ヨーク三部作の掉尾を飾る長篇小説。探偵小説の枠組みを借りて、「不在の人物を めぐる依頼を引き受け」た主人公が、探偵役となって謎を追うという構成は前二作と共通している。通常の探偵小説が、謎が解かれることでカタルシスを得られ るのに対して、ニュー・ヨーク三部作では、謎を追求するにつれて、追い込まれてゆくのは犯人ではなく探偵役の主人公の方で、最後には主人公のアイデンティティが崩壊の憂き目を見ることになる。
『鍵のかかった部屋』という、いかにも探偵小説を思わせる表題には、犯人が閉じこもる部屋を指すとともに、自分の頭の中にある一隅を示す、二重の意味がある。自分の頭の中にあっても鍵がかかっていて勝手に入ることのできない部屋とは何か。
「われわれは主人公の立場にわが身を置き、自分自身のことを理解できるのだから主人公のことだって理解できるはずだという思いを抱く。だが、それは欺瞞で あ る。おそらくわれわれは自分自身のために存在しているだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信でき はしない。人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。人と人とを隔てる壁を乗りこえ、他人の中に入っていける人間などいはしない。だがそれは単に、自分自身に到達できる人間などいないからなのだ。 」
主人公は新進気鋭の批評家という設定、引用文は主人公の内的独白である。鍵がかかっているのは、他人の内部だけではない。人は自分自身の内部を知ることもできないという認識がそこにはある。「鍵がかかった部屋」とは、自分自身のことだったのだ。フェルナンド・ペソアを最愛の作家の一人と嘯く作家にとって、 自分という存在の複数性は自明のことであるだろう。しかし、一般的に、人は自分を自分であると信じて疑わないのではないだろうか。
失踪した親友ファンショーの妻ソフィーから、未発表原稿の出版の当否を委ねられた「僕」は迷った末にそれを出版させる。小説は好評を呼び、ソフィーと「僕」は互いに惹かれあい結婚する。しかし、失踪中の親友から手紙が届き、すべては彼の目論見通りであったことを知った「僕」は、伝記を書くという言い訳の下に情報を集め、彼の捜索を始める。
幼い頃からファンショーは、「僕」のアルテルエゴだった。「僕」がなりたいと憧れる、もう一人の自分だったのだ。成人してからはすっかり疎遠だった「もう 一人の自分」が、批評家として出発した自分の前に人気作家として登場するだけでも衝撃であるのに、出版するか廃棄かの判断を委ねられることが、「僕」の存在理由を揺るがすほどの事件であったことはまちがいない。
「僕」は批評の仕事を食い扶持稼ぎのためと割り切っている。本当にやりたいのは創作なのだ。ファンショーの原稿の出現は、自分を偽っている「僕」に対する、もう一人の自分からの告発である。ファンショーについて、洗いざらい調べ上げ、彼の瑕疵を見つけ、それを暴くこと。それが傷ついた自分を回復させる唯一の策である。ところが、いくら調べてもファンショーには隙がなかった。相手を追っているはずが、追いつめられたのは自分の方だった。死の一歩手前まで行き着いた主人公はようやく悟る。「鍵のかかった部屋」は自分の頭蓋の中にあることを。
自分と、もう一人の自分の対決という主題は、三部作の第一作『ガラスの街』の主人公の筆名にもなっている、ポオの『ウィリアム・ウィルソン』から借りている。また、失踪した夫が、自分の去った後の妻の様子を近所に暮らしながら観察するという設定は、同じく敬愛するホーソーンの『ウェイクフィールド』由来のものであることは前作『幽霊たち』の中でブルーが言及していることからも明らかである。
ニュー・ヨーク三部作は、ポオやホーソーン、メルヴィルといったアメリカ文学の先人たちにオマージュを捧げながら、自己の文学的野心を達成しようとする新進作家オースターの果敢な試みであった。作家は自分の思考や関心を素材にしながら作品を創りあげてゆくものである。執筆中は、四六時中自己内対話を繰り返しているわけで、外から見れば孤独な作業だが、自分の中で作家は複数の自分を追いかけ、観察し続けている探偵でもある。その間、妻子は顧みられることなく放って置かれる立場となる。
生活者としてのオースターは、作家オースターであるときの自分を、妻子を放り出して失踪したり、放浪し続ける孤独者として見ているのだろう。一つのことに 執して他を顧みることなく自分の思いに浸りきる人物と、その人物の代わりに妻子を見守り、ともに暮らすことを愛する人物との乖離が鮮やかに描き分けられ、 その分裂が遠からず回避されることが暗示されている点が本作の特徴である。一つの主題の周りを回る円環的な構造を持ったニュー・ヨーク三部作の完結編としてまことに相応しい。ニュー・ヨーク三部作とは、作家が、作品世界を創造してゆく秘密を小説として提示して見せたもの。云わば、書くことの隠喩である。
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失踪した友人の手がかりを追って探していくうちに、少しずつ少しずつ自分を見失っていく。
親友の才能への嫉妬や妻への後ろめたさ。
追い詰めて行っているようで、逆に自分の内側に追い詰められていく。
読み出したら止まらないのはなぜだろう。
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ポール・オースターの初期作品であるニューヨーク三部作(「ガラスの街」、「幽霊たち」、「鍵のかかった部屋」)の最後を締めくくる作品です。これら三作品のテーマは同じです。いずれの作品でも主人公は謎を解こうと誰かを追いかけるのですが、一向に謎は解かれることなく、追いかけているつもりが逆に相手から追われているようになって、あるいは追いかけている相手が自分自身であるかのように思われて、自らのアイデンティティーを蝕まれていくのです。
三部作のうち「ガラスの街」や「幽霊たち」はやや実験的過ぎるきらいがあります。一方、「鍵のかかった部屋」は正統派の小説です。ストーリーの運び方のうまさ、エピソードのはめ込み方の巧みさ、文章の洗練度合いなどの点で、三部作の中でも抜きん出ていると思います。
この短めの作品にはオースターらしさがぎゅっと詰まっています。彼の作品の常套手段である「作中作(物語の中に別の物語を潜り込ませる)」という手法は、ファンショーの残した小説や手紙という形で、この作品でも効果的に使われています。また、主人公が他の登場人物の影を追いかけて深みにはまって行くというストーリー展開は、後に書かれる「リヴァイアサン」や「幻影の書」とも通じるものを感じます。
ところでこの作品中で出版社のスチュアートは、ファンショーが実在の人物ではなく主人公の「僕」が創り出した架空の存在ではないかと疑います。これはありえることでしょう。「僕」は独白します。── “鍵のかかった部屋のドア、それだけだった。ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘的な孤独に耐えている。〔中略〕いまや僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだということを”
いやむしろ、ファンショーも「僕」もともに、オースター自身の頭蓋骨の内側にあるのでした。彼らはオースター自身の分身でもあります。タンカーの乗組員となり、フランスで暮らし、詩・小説・批評を書いたというのは、オースターの実人生そのものですから。だとすればこの小説の最後の場面は、ニューヨーク三部作で作家としてデビューしたオースターが、それまでの自分と訣別し新しく出発することの「記念碑」として書いたもののようにも思われます。
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3部作の3冊目と知らずに読んだためか?あまり理解できなかった。
ファンショー、どうして失踪したんだろうか??