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「遥かなる日本ルネサンス」と「「内なる近代」の超克」の2つの論考を収録しています。
「遥かなる日本ルネサンス」は、日本にとって「近代」とはどのような意義を持つのかを明らかにすることから考察が始められています。
日本にとって近代とは、普遍性を主張する西欧文明と対峙することを余儀なくされる時代でした。西田幾多郎を領袖とする京都学派の思想家たちは、普遍性を標榜する西欧近代に対して日本ないしアジアのアイデンティティを確立する課題を担わざるをえず、その結果、一方では「絶対矛盾的自己同一」といった西田哲学の奇怪な用語が生まれ、他方では「近代の超克」の座談会における大東亜戦争の思想的意味づけへと駆り立てられることになりました。著者は、日本にとって「近代」がこうした問題を含んでいたことを明らかにし、戦後のいわゆる「新京都学派」のメンバーである梅棹忠夫と梅原猛による、この課題への取り組み方を論じています。
「「内なる近代」の超克」は、学生紛争は自分たちの世代にとって「戦争」にほかならなかったと述べた上野千鶴子への批判から始まります。著者の批判は、上野がみずからの「体験」を、前世代の概念を用いて理解しており、みずからの「体験」からみずからの概念を立ち上げる努力を怠っているということに帰着します。そして同じことが、西洋の知識を身につけることで、自身が日本の「風景」のもとでの「体験」を整理できると無邪気に信じている、日本の多くの知識人についても言えるのではないかと疑問を投げかけます。その上で著者は、自身が日本の「近代」をどのように「体験」してきたのかというところに沈潜し、そこに「内なる近代」の超克の足がかりを求めています。また、永井荷風や岸田劉生の思索をたどることで、彼らもまたそうした課題を担ってきたということを明らかにしようとしています。