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周辺にあって、孤独で、いつも権力に対して異議申し立てをする者=知識人。それはサイードの姿そのものでもあった。
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講演録であるため非常に読みやすい。「知識人」という語は高く掲げられたり、あるいはネガティヴな印象を招いたりしがちだが、そういった背景を踏まえながら、本書では改めてそれは何かと問うている。
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「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」と“知識人”を定義するエドワード・E・サイードの知識人論。興味深かったのは、知識人が消えた理由をサイードは、「商業主義的な考え方が知識人をたらしこめ不偏不党の立場に立たせにくくしたこと」とした意見に異を唱え、「専門主義(=プロフェッショナリズム)」だとしたところ。専門的知識が深まるほどに“偏”や“党”が細分化され、人はそこに固執するようになり不偏不党の立場が崩される。けれども本当の知識人とは「専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵触したり、自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のあり方にも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格を持つのだ」と力強く訴えていた。もし、彼の主張が正しいとするならば、現在知識人が「絶滅危惧種」に数え上げられる最たる理由は、サイードのいう「専門主義」なのでもなくて、“モラルの低下”のせいなのかもしれない。
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パレスチナ生まれの批評家、研究者として、常に世界の現実に批判的な目を向け、政治的発言、行動もいとわなかった著者による精神的自叙伝。
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【2008/06/13】
オリエンタリズムで有名なサイードの講演録。
現代は"知識人”が過剰であり、その”知識人”はみな権力に追随してしまっている(彼らを有機的知識人と呼ぶ)。サイードは「真の知識人は社会的弱者の側に立ち、あくまで”個人”として、権力に向かって真実を述べるべきである」という。だが、それでは生きづらいこの社会で、どのように折り合いをつけていくべきかを述べる。
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エドワードサイードによる、知識人とは何かに関して書かれた本。BBCのリース公演、30分×6が元になったもの。非常に厳しく、知識人たる者のあるべき姿を追究していくその精神的強さは瞠目すべきものがあります。
知識人とはユニヴァーサルで単一の基準にどこまでも固執しなければならない。普遍性の意識とは、リスクを背負うことを意味する。文化、言語、国籍は安心感をあたえるぬるま湯である。知識人にとって、これならば語ってよい、こればらば行ってよいという指針などありはしない。知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまでいってもきりのない、またいつまでも終わらない努力をつづけるということだ。知識人足るもの、最初になすべきことは、不協和音をならし、複雑で異種混淆たる現状を広く知らしめることである。
…ガンにおかされても、自身の暗殺計画を聞いても動じずに活発な活動を続けたというサイードが言うと言葉が迫真にせまる。
「わたしはこう問いたい。あなたたちはなぜ、神が存在するなどと、まがりなりにも信じたのか、知識人であるくせに、と。またさらに、こうも問いたい。あなたたちが最初いだいていた信念とその後の幻滅とが、これほどまでに重要なものだと想像する権利を、いったい誰があなたたちにあたえたのか、と。」
「アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるものではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって突き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。」「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。」
(研究者はアマチュアたれ、とは、清水博先生も書いていました。)
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講演形式になっているので、難解な文章で訳者泣かせのサイード先生の著作にしては読みやすい。
原題はRepresentations of the Intellectual、『知識人の表象』である。
representationという言葉を日本語にすると、「表象」、「代弁」、「代表」といった言葉になる。
現状の知識人と、知識人はかくあるべき、という信念のあいだにあるギャップにおそらく著者は苦しみ、
彼自身が知識人という集団を内部から批判―内破している。
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知識人とは、
公衆に向けて、公衆になりかわって、
メッセージなり、思想なり、批評なり、意見なりを、
表象=代弁(レプリゼント)する人間である。
亡命者にして、周辺的存在であり、アマチュアであり、
権力者に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。
知識人という言葉の持つ、
どこかマイナスのイメージは、
「公衆」や「権力者」に対していつも、
上から、正義の側から、語っているという傲慢さ、
敵がいるからこそ成り立つ=皆はなれない、
という閉鎖性から来ているのかもしれない。
そんなことを思った。
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サイードは「知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」という。多くの知識人が後者の側にさまざまな形で取り込まれてしまう現状を指摘し、サイードは前者こそが知識人の採るべき道だと説く。
聖ヴィクトルの引用―「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力を蓄えた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」に見事に集約されている。
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「無知は怖い」
「無知である事は恥ずかしい」
今まで知らなかった衝撃的な事物と対峙した時、人は誰しもそう思う。
でも、人は多分死ぬまで無知なんだよね。
問題は、その事を自覚しつつどう生きるのか?という事だと思う。
アドルノ(ドイツ人。ナチス政権誕生後アメリカへ亡命、50年代に帰国した哲学者)は著書「ミニマ・モラリア」で、
「・・・・自分の家で寛がない事こそが道徳の一部なのである。」
と確信めいた事をいった後にさらりと、
「…この逆説の正命題のほうは、破壊へ、事物に対する無頓着へとつながり、それらは必ず人間関係にもはね返ってくる。」
と言っている。
切りが無い。切りが無い事こそ真理なのだろうけど、そこから更に、悶々と掘り下げていくのが哲学者なのだろうね。
そして結びはこうだ。
「自己分析の厳密さに、手心が加えられることはない。」
思わず「仙人かっ!!」とツっこみたくなる。
けれどまぁ、厳密な意味での知識人とはそういったものなのかも知れない。
自分は知識人にはなれそうもないけれど、無知さを自覚した上で、それでも楽しく学び続ける、タフな人間にはせめてなりたい。…かな。
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チョムスキーなどを引き合いに出して、インテリゲンティアについて書かれた本。
実際、「いつも失敗する神々」のところは面白かったし、最後のあたりで書かれた
言葉は、自分にとって強く迫ってきた。以下引用します。
「今日の世界では、疑問の念を持たずに権威に隷属することが、活動的で道徳的で知的な生活に対する最大の脅威のひとつなのだから。
そのような脅威に、独力で立ち向かうことはむつかしいことであるし、自分の信念を貫き通しながら、同時に、
成長し、精神を変革し、新しいものを発見しかつて見向きもされなかったもののなかに価値を再発見できるような柔軟性を失わずにいるのは、
更にむつかしいことだろう。知識人であることの、もっともやっかいな面は、自分の仕事や介入などを踏まえて得たものを、制度的なものに
硬直化させてしまうことなく、そしてまたシステムや方法にのっとって動くだけの自動人間(オートマトン)めいたものにすることなく、
表象(レプリゼント)することである。これまでこうしたことに成功しただけでなく、警戒を怠らずに信念を曲げないことにおいても成功して、
なんともいえぬ爽快感を経験したことのある者なら誰しも、この成功がいかに得難いことか、身にしみて感じていることだろう。」
この部分を読んだときには、それまで自分では文章化というか言語化できなかった考えが
眼の前の本に印刷されてあって、おどろいた反面、自分の考えが正しいとはいかないかもしれないが
間違いではないとう確信を得るkとおができて、自分の部屋で嬉しくて小躍りした記憶があります。
二十歳過ぎのころでしたが…笑
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知人に強く勧められて読みましたが、そんなに面白くな…。要は、知識人たるもの、一つの考え方に固執してはいけない、ということだと思うのですが、作者はなぜここまで「知識人」という枠にこだわるのでしょうか?ちょっとわかりかねますが。一般に、「知識人」という言葉があまりに容易に使われすぎて苛立っている、という感じなのでしょうかね? 言っている内容自体は別に悪くは無いと思いますけど。
「知識人」の定義の紹介
1.アントニオ・グラシム「伝統的知識人」(聖職者、行政管理者)と「有機的知識人」(潜在的顧客の動向を見抜き、支持を得たり、消費者あるいは有権者の意見を誘導する人間)
2.ジュリアン・バンダ 「clerics」(芸術や科学、あるいは形而上的な思索から行動)⇔俗人集団
二人とも、現状に対し絶えず異議を唱える人という意味で共通している
→アルヴィン・グールドナー、ミシェル・フーコー;知識人が特定化・専門化してきた
→筆者:知識人とは、「公衆」との関係を持つことが重要。そして、日常にはなじまない(知的自由の固守) 批判的センス
3.サルトル 社会によって囲い込まれたり、まるめこまれたり、とりこまれたり、こづきまわされたりするときが一番知識人らしい →知識人への圧力
集団的一体化
どんな知識人も特定の言語の中で生まれ育つ=その集団の固定観念に知らず知らずはめられがち→超越的な価値を再認識することが必要
亡命と知識人
移住先の完全なネイティブとなることはできないし、亡命は辛いことである。だが同時に、知識人にとっての利点もある:二重のパースペクティヴ、状況を所与のものととらえず歴史上の一連の選択の結果であるとの考え方の取得
・体制側に取り込まれることなく抵抗を続ける知識人
e.g. テーオドア・ヴィーゼングルント・アドルノ 常に懐疑的
・驚異的な社会適応を行う知識人 …ブレジンスキー, キッシンジャー, トーマス・マン
知識人にかかる圧力⇔圧力への反抗=アマチュア(社会の中で思考し憂慮する人間)主義(アマチュアリズム)
専門分化(specialization)…自身の感動や発見の感覚は圧し殺される 自発性の喪失
&助成金のもとでの活動
知識人が権威・権力と関係を持つことは避けられない、その際に専門家としてではなくアマチュア的良心として接することが大切
アマチュアであること 広範囲・不特定多数の受容者→反応予測不可・不確実性のリスク
普遍性(ユニバーサル)は失われやすい。公的な領域への効果的な介入には:諸民族と諸個人との差異をじゅうぶん考慮に入れつつ、そのような差異に、なにかを優先するような隠れた階層関係や偏向性や価値判断などをこっそりもちこんだりしないこと、そうした正義観なり公正観なりを確固たる信念としていだいている必要あり。Real politicは、自国の悪には目をつぶる。
知識人の責務:誰も、年がら年中、ありとあらゆる問題をとりあげて語るわけにはいかない。そかし、自分自身の社会において制度化され権威づけられた権力が一般市民にとってゆるがせにできないものになるとき、そうした権力に焦点をしぼること!
干渉方式:高みから抗議と弾劾を投げかけるようなことはしない。自分の考えを披露するのにもっともよく耳を傾けてもらえそうな場所を探す。
知識人…1.最善をつくして真実を積極的に表象(represent)すること
2.消極的に庇護者や権威者に導いてもらうようにすること =「失敗する神々」
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知識人とは何であろうか。何であるべきか。その問いに対し、
「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」
と答えたのが、著者Edward W. Saidである。
ポストコロニアル理論の先駆者たる彼にとって、またパレスチナ人かつアメリカ市民でもある彼にとって、論じるべきことはたくさんあった。そして、彼が批判するべき対象は無数にあった。そんな彼にとって重要だったのは、その国にいながら外国から来たかのように、そして自国を思い続ける二重の視点を持った亡命者であること。また、決して権力の中からではなく、周縁の位置から権力を見つめること。そして、経営コンサルタント、省庁の役人、大臣のようにプロとして権力に寄り添うのではなく、アマチュアとして、アマチュアの目線から物事を考えること。何よりも、我々に物を隠そうとする権力に対して、世の中の大勢から批判されようと、信念を持って権力と戦う事が必要だと言う。
彼の心意気が大きく伝わってくる本だった。早くに亡くなったことが本当に惜しい人だ。
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[ 内容 ]
「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」
著者独自の知識人論を縦横に語った講演。
[ 目次 ]
第1章 知識人の表象
第2章 国家と伝統から離れて
第3章 知的亡命―故国喪失者と周辺的存在
第4章 専門家とアマチュア
第5章 権力に対して真実を語る
第6章 いつも失敗する神々
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[ 参考となる書評 ]
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“世界の大国”である日本の大学に通う大学生なら、これは絶対読まないとだめだと思う。本屋の店頭にで平積みされている“ジャンク・ブック”もいいけど、海外のこうした、真にマトモナ人が書いたもの読まないとだめでしょ。
特に「第五章 権力に対して真実を語る」は読まねば。
内向きな日本人の思考をえぐり出してくれる、そんな名著。
彼が無くなった事が本当に悔やまれる・・・