- 現在お取り扱いが
できません - ほしい本に追加する
- 予約購入について
-
- 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
- ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
- ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
- 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。
6 件中 1 件~ 6 件を表示 |
紙の本
空虚な「近代」批判と現在主義の陥弊
2003/04/24 10:22
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ジューク - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の英題は「Engendering Nationalism」である。著者は戦中より現在にいたるまで一貫してナショナリズムによって特徴づけられ、限界づけられてきたフェミニズム言説の系譜学的分析を通して、最終的に「ナショナリズムのジェンダー化」を図る。
まず第一章では、市川房江・平塚らいてうらに代表される戦中のフェミニストが扱われ、いかに彼/女らの試みた「女性の国民化」の言説が近代の体現される場所たる「国民国家」の暴力性へと回収される様を描く。「国家」の脱自然化、そして「女性(性)」の脱自然化を達成することが、国民国家のジェンダー化の過程で必然であることが明かされた後に、著者は「フェミニズムはなぜ国家を超えなければならないのか?」という極めて原理的な問いへと到達する。上野は、フェミニズムが「近代」から産まれ、いかに「近代」に拘束されてきた伝統を持とうとも、「近代=国民国家」の強固な連関に基づく超越的カテゴリーを相対化し、脱構築する「契機」として、そこに賭け金をうずたかく盛るのである。
つづく第二章、第三章においては、いわゆる「歴史教科書問題」が焦点にあてられ、近代超克のための「カテゴリーの複合化」——国民国家という単一的・超越的なカテゴリーの相対化——の実践が図られることになる。そこで具体的に糾弾されるのは、国家主義による「私たち=市民」の代弁の論理の素朴さと鈍重さ、そして野蛮さである。たとえば元「従軍慰安婦」たちのあげた「声」は、この国民国家によって代弁され、捏造され、隠蔽される「国民」と「国民史」双方へのプロテストとしての、自分自身の身体−歴史の回復、全体性への還帰の「声」であったと言える。国家主義の超克にあたって、「国家」と「市民」は徹頭徹尾、差異化されなければならないのだ。
このように著者の試みは非常に挑戦的であり、スタイル(文体)は挑発的だ。ただ本著は問題を多々はらんでいると言わざるをえない。一つは、「近代超克」の問題。日本にはいまだかつで「近代」なるものが存在したのか、という根源的な問いがそこではすっぽり抜け落ちてしまっている。二つめは、歴史実証主義批判の問題。著者は史料中心的で証言の価値を貶める歴史実証主義をとことん批判し、自身も素朴な客観的出来事としての歴史的「事実」を措定するような記述を避け、「歴史とは現在における過去の絶えざる再構築である」と再三、繰り返し述べる。これは歴史の現在主義と構築主義を暗示する(ことを意図された)ものであるが、同時に(逆説的に)哲学的な意味での現在主義へと陥ってしまっている。この点で、本著が加藤典洋と高橋哲哉に端を発するいわゆる「歴史主体論争」の最中に出版されたのにもかかわらず、それへの適切な応答(特に後者への)を欠いたのは惜しい。
しかし、慰安婦たちが一連の訴訟を通して自分たちの歴史を獲り戻したように、私たち(韓国人ふくめ日本人も)も決して国家に代弁されない「市民史」を新たに構築する、いや獲り戻すことで、彼女たちへの倫理的責任を果たすべきだという論理は、従来の歴史論争に慣らされてきた私たちにとって(無論それは従来の「正史」をめぐる場にとってだが)、極めて“みずみずしい”ものだ。一読には値するだろう。
6 件中 1 件~ 6 件を表示 |