電子書籍
就職氷河期オンライン読書会の課題図書として
2021/01/23 16:11
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投稿者:amisha - この投稿者のレビュー一覧を見る
オウムを知ったのは、京大のタテカンだった。
そして、当時京大の近くの学校に通っていた私は、近所に住んでいる友人らも多く、結構な確率で勧誘にあっていたことを思い出した。サリン事件のことは阪神淡路大震災でぶっ飛んでしまったが、改めて読むと当時の雰囲気が蘇ってくる。
学生時代、某営林署を借りて複数大学合同の合宿をしたのだが、私たちが入る直近に演習をしていたのはオウムの団体だったということを、随分経ってから知る。結果、鑑識には私たちの忘れ物も持っていかれたという噂も聞かされた。
はてさて、ひとつ間違っていたら、私も入信していただろうか?などと振り返ってみたが、よくわからない。阪神淡路大震災から26年経つ。当時の年齢の倍以上を生きてしまった。あの頃はこんなに長生きすると思っていなかった。
紙の本
新世紀への出発点
2003/01/20 11:20
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:(ナツ) - この投稿者のレビュー一覧を見る
なぜオウム真理教は地下鉄にサリンを撒いたのかの答えを本書に求めても無駄である。本書はあくまでも、なにゆえにオウム真理教的なるものが信者にリアリティーを持ったのかをテーマにしている。いいかえれば本書は、オウム真理教を題材にした世紀末日本の時代診断の書である。
複雑化した社会では、何が良いことなのか自明ではなくなり、未来から輝かしさが失われる。それゆえに、「偽者の父親」による破壊的カルトに取り込まれやすくなる。それを防ぐには我々がコミュニケーション・スキルを高め、「全面的包括欲求」を放棄し、輝きのない未来を生きる知恵を身につけることだ。以上が本書のおおまかな要約である。
本書のモチーフは宮台真司の他の著作へと引き継がれる。そこでは、例えば試行錯誤の大切さやそれに向けた行動を動機づける承認の供給といった課題が取り上げられるだろう。その意味で本書は、宮台真司の「世直しモード」での諸提言に向けた一里塚をなす。新世紀となった今本書を読む意義は、我々の出発点を確認することにある。
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個人的には古さを感じない。批判は多いかもしれないが、やっぱり時代の本質をまっすぐ切り抜いた、エポックメイキングな名作だと思う。
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90年代の時代の指南書として良くも悪くもまとまってる本。これとポストモダンを押さえれば現代がいかなる時代か俯瞰出来ると思う。むしろこれよりも「まぼろしの郊外」の方にまとまった記述があるのでそちらもぜひ
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宮台氏の一連の著作は読んでいたのでこれはいらなかったかな。
「まったり革命」を叫んでたころの意図が読み取れる。
今後、女子高生は一部メンヘラ化したらしい。
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95年のオウム事件、今となっては相当古いテーマだなぁ、と思ってしまいがちだが、その内側にある、「反社会性から突き抜けた脱社会性」というテーゼは、現代においても用いることのできる図式であるように思う。
しかし、上祐とか、懐かしいな。
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『そのような過剰な単純化や一般化は、実は、現実にはありえないような架空の条件を夢想することを抜きにしては、ありえないものだ。確かに、認識ににもコストがかかる。環境を認識するとき、できるだけ低いコストで認識したいというのは、理由のあることである。(中略)ところが、社会システムが複雑になればなるほど、そうした環境認識を前提にしてふるまうことは、自分や他人を危険にさらす確率を高めることになる。』
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一時期この言葉が自分の中の合い言葉になっていた時期があった。
「終わりなき日常を生きろ」
そうやって世界の端っこからものを見ている感じに憧れていた。
だけど、終わりなき日常はもう乗り越えた。
日常はそんなに、泣きたくなるほど空虚ではない。
日常は終わらない。
だけど「生きろ」というほどの未成年的な激しさを乗り越えた。あるいは乗り越えてしまった。
制服少女にいい本だ。
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厄介なことに、私の中にある宮台さんのイメージっていうのは彼の著作からではなくて、ゴー宣とかで小林よしのり氏が批判的に語ってたような宮台さん像が強固であって(ああ小林さんの漫画の持つ影響力・インパクトって、中高生にとって、でかかったんだなあ・・・って今更ながら思いますが・・・)宮台さんの著作にちゃんと目を通す度に、そんな自分を猛省しています。
私はこの『終わりなき日常を生きろ』が、連赤とオウムの比較を試みていることなんて、本開くまで全く知らなかったので、自分の勉強不足を恥じています。
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高2の夏に初めて見た…井上嘉浩(オウム真理教最年少幹部)の中学校3年のころの詩が偶然載ってた…。
宮台さんの言うとおり、終わりなき日常の中で漠然と「正しいこと」を考えてたら、いたずらに逡巡して、迷走を繰り返すだけなのかもしれない。
人って学ばない。ただあまりにも可塑的なだけ。
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最初から私には合わなかった。
「この人、一体何が言いたいんだろう…」と思いつつ読み続け、
最後の最後(p.183)で著者の目的が判明。
自分が悪いか世界全体が間違っているか、の二者択一から
そこそこの自分とそこそこの世界に耐えていける様になる事を阻んだ各種装置(観念や制度)を、
徹底的に破壊し尽くす事…らしい。
しかし今回の「破壊」が、『「薄ぼけた自分」を抱えたまま生きろ!』という結論とは…
二者択一の価値観を持つ人は、曖昧に終わりなき日常を生きる事が出来無いから
「そこそこ」の両者を肯定出来ないのでは?
「虚無感」やら「閉塞感」が冠される現代と、その中に在りながら
その現状にうっすら疑問を抱える個人のもやもやを体系立てて説明し、
名付けている所がこの本の感心ポイント(=彼の「破壊」)なんだろうか?
でも、私にとって彼が説明しているものは自明だったので感心する事も出来ず。
だからこそ彼なりの解釈による一旦の結論を求めたものの、
回答が回答になっていないと感じた上に何度も同じ様な事を話された所が「私に合わない」と思った所以だと思う。
複数のレビューを見た所、「結論を言わないのが宮台流」という意見も有ったので、
それも確かめるべくまだ数冊宮台本を読んでみようと思います。
信者が何故オウムの世界に入っていったか、の考察は興味深かったです。
以下、本文からのメモ。
*『朝まで生テレビ』でオウムが話題に(幸福の科学幹部と麻原教祖を含むオウム幹部が出演も)
*阪神大震災後のボランティアブームを受け、「終わらない日常」が震災の廃墟によって打ち破られる時に人は改心して正しき道を生き直す――という期待は、「ハルマゲドン“による“救済」を願うオウムの心そのもの
p.53 l4~6
トップは「自明ではない輝きを自明だと信じる」確信犯。末端は集団的な力学の中で「生き残るためには疑念を捨てるしかない」兵士。枢軸圏に生きる私たちはいったい何度同じ構図をなぞり直せばいいというのか?
p.53 l末2~p.54 l3
私たちがここで注目するべきなのは、彼らが少なくともその出発点においては、救済という「良きこと」に向けて強く動機づけられているのに、何が良きことなのかについての判断がグルに委ねられているという、私たちの誰もが直面しがちな一般的な条件である。
p.64 l7~8
「良心の呵責を感じずにサリンをばらまけるのは、救済につながると信じればこそです」。
p.88 l末4~3
だが、「終わらない日常」はキツイ。ユートピアであると同時にディストピアでもある。
p.111 l8~10
ユートピアはディストピアである。科学技術によってすべてが照らし出されたユートピアは、とても辛い。たとえ瞑想生活をしていようが同じこと。ドラッグも日常化すればつまらない。
p.113 l3~7
・戦間期のワイマール共和国の爛熟→ナチスの輝かしき「第三帝国」
・大正・昭和のモダニズムの爛熟→輝かしき「大東亜共栄圏」
・平成の「��わらない日常」→輝かしき「オウム帝国」
に共通な構造
↓
(1)「母」や「自然」によって象徴される「共同体」が崩壊した後の輝かしき「虚構の共同体」である
(2)「父なる神」の不在を埋め合わせる、「偽物の父親」を頂点に頂く
(3)神なき社会で共同体が失われた時に生まれる「さまよえる良心」の空白を、「偽物の父親」が唱える「善悪図式」が埋め合わせる
p.183 l3~6
速水 結局、世代的な要素というのは、社会が消えたせいで、自分が悪いか、世界全体が間違っているかの、二者択一になったということですか。
宮台 確かに僕らの世代は若いうちはそうなりがちだったけど、たいてい大人になっていく過程で、そこそこの自分と、そこそこの世界に、耐えていけるようになるんだけどね。だから問題は、そういうふうになるのを阻んだ各種の装置でしょ。そういう装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。
p.185 l1~2
「終わらない日常」を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。
1009-1010
/////
「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。
「終わらない日常」を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。
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終わりなき日常というモデルはまだ有効なのか。
じり貧の日本を耐える、または不感症に生きることも終わりなき日常と呼べるのか
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虚無的な思想に覆い尽くされた一冊。道徳や規範までも相対化してしまい、あまつさえそれを正当化するという点に、90年代以降の思潮を如実に反映していると言えよう。別の意味で興味深い内容だった。
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いまさらwwwですが読んでみたい。
「終わりなき日常」そうなんだよねー。そんな気分ですよ。
でも、その中を生きてゆかなければならないのであって。
世界は多分、変わらないんだと思っています。
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これまた納得できる。
コミュニケーションする際の大きな前提(宗教、共同体)が、弱まっている現代。コミュニケーションは難しくなり、そのスキルの差が開いていく。
どう生きれば良いのか。
「脱力」がひとつのキーワードになっていた。
確かに、深刻になる過ぎる人、真面目な人よりも、テキトーな人の方がコミュニケーションに長けていたりするもんな。
あとは時間はかかるが、相対的に分析、判断をしていくということ。これは納得の反面、非常に大変な作業だなと思った。。。