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「妹ジョディー・フォスターの秘密」が上梓されたのは1998年。妊娠が発覚して父親はだれだとさかんにさわがれていた時期だ。著者は実兄のバディ・フォスター。つまり身内による暴露本。なにそれひどい、とおもいつつよみはじめたら、さほど扇情的な内容でもなく、よかったようなそうでもないような。ジョディにしてみればやはりいやだろうけれど、ゴシップ記事のような書きぶりでないのが、まだすくいだとおもう。ややかたよった(とかんじられる)記述はあるものの、生い立ちと女優としてのキャリアを築くまでの詳細は、兄がつづる妹の伝記といった趣。うまれたときすでに両親が離婚していた彼女は、母親とその恋人、ジョーおばさんにそだてられたそうだ。芸名ジョディーはおばさんのあだ名「ジョー・D」からきているらしい。おさないころから利発で、とてもおとなびていた彼女。ずっとその日をまちわびていた、幼稚園の登園初日、ジョディはかえるなりこう言い放ったという「もういかないわ」なぜなら「ほかの子はみんな赤ちゃんよ!お昼寝をしてだれかに本をよんでもらうなんてまっぴら。おないどしの子ってきらいよ。もっと年上の子のほうがいいわ、そんなに頭がよわくないから」クラスメートを赤ちゃんよばわりする4歳児。あまりの生意気ぶりにおもわずわらってしまう。
が、いかにも彼女らしいエピソードだともおもう。このとき、子役としてのキャリアはもうはじまっていた。やはり子役だった著者の仕事場へついていったさい、スカウトされたジョディは、わずか3 歳でコマーシャルデビューしていたのだ。その3年後にはテレビシリーズにキャスティングされ、それから4年後、10歳で映画出演。そして1976年、はじめての主演映画「白い家の少女」が封切られると、たてつづけに「フリーキー・フライデー」「ダウンタウン物語」「タクシー・ドライバー」「別れのこだま」が公開「ダウンタウン物語」の妖艶な歌姫や「タクシー・ドライバー」のアイリス役で話題をさらった彼女は、翌年たった14歳で、アカデミー助演女優賞にノミネートされる。しかし、ジョディ、あるいは彼女の演じた12歳の娼婦アイリス・スティースマは、あまりに鮮烈だったがゆえに、偏執的な熱狂者をうむ。「ぼくの人生でもっとも重要なのはジョディ・フォスターの愛と称賛」だと語った、熱狂者の名はジョン・ヒンクリー。のちの大統領暗殺未遂犯だ。それまでもジョディにたいするストーカー行為を繰りかえしていたジョンは、1981年、彼女の気を惹くためだけに、当時の合衆国大統領、ロナルド・レーガンを狙撃する。事件に衝撃をうけたジョディは、これからしばらくハリウッドをはなれた。
だが、事件のせいで彼女は特殊な存在になってしまい、女優業をやすんでイェール大学でアメリカ文学をまなんでいたその間も、パパラッチはかまうことなく学生寮へやってきたという。このころ彼女はストレスによる過食のため、以前より9キロもふとってしまった。みにくくふとったジョディのすがたを収めようと、五月蝿くつきまとう蠅のようなパパラッチは、部屋のドアをかなてこでこじあけることまでしたらしい。「写真を撮られるのは銃で撃たれるようなかんじだったわ。いまでもそうよ」ジョ��ィはいう。あるカメラマンなどは、逃がすまいとして彼女をなぐりたおし、鎖骨を骨折させたそうだ。シャッターを切ったあと「やった!やったぞ!」とさけびながら、かれはとびあがってよろこんだ。正気の沙汰ではない。この章は腹立たしいエピソードばかりで、よんでいると胸がわるくなる。そういう犯罪まがい(いやもはやまがいではないか)の行為やゴシップ誌の取材に、金ほしさから協力する同期生もおおかったようで、失意のなか、ジョディはうまれてはじめて酒と煙草におぼれる。「なぜ私が?」渦中で執筆されたエッセイのタイトルが象徴的だ。彼女は落ち込み、そして怒っていた。「じぶんが社会からのけ者にされている気がしたわ。それに、あの犠牲者あつかいのひどさといったら!」
当時わたしは物心つくかつかないか微妙な年齢で、そんな海外の狂騒は知る由もなく、ジョディ・フォスターの名さえきいたことがなかった。だからこの章はむかむかすると同時に、たいへん興味深かった。過酷な生活を強いられながらも、犠牲者という名称をきらい、事件やマスコミに立ち向かっていく様子は感動的で、そのつよさに胸をうたれる。冒頭から3章までの波乱にみちているものの、わりあい裕福だったこども時代、名声を得ていく過程がえがかれた4章から6章も、意外な逸話やいかにもな裏話が満載でおもしろい。しかし、もっとも衝撃的だったのは11章「飛躍ー告発の行方」の配役がきまるまでのエピソードだ。ジョディは映画の主人公、レイプ被害者サラの役を切望していたが、監督やスタッフはそれに難色をしめし、オーディションをうけさせてほしいとたのみこんでも、首をたてにふらない。かれらはサラの役をミシェル・ファイファーに依頼するつもりだった。ジョディにはふさわしくないとおもっていた。なぜなら彼女は「強姦可能でないから」ジョディはそのころ、まだダイエットに成功していなかったのだ。ふとった女(うつくしくない女)は強姦される魅力がない、そんなの偏見に過ぎないのだけれど、世間がそういう強姦神話に支配されている以上、サラ役は痩せていなければならない。
「強姦可能でない」という言葉のものすごさにしばし呆然としてしまったが、つまりサラは神話を具現化した存在だということ(と、ある人に指摘されて気づいた)だから(ふとり気味の)彼女ではだめだった。でもジョディはあきらめない。ダイエットをしてオーディションにのぞみ、見事サラ役を射止める。そしてその役ではじめてのアカデミー主演女優賞を獲得した。「告発の行方」のサラはいまでもわたしのヒーロー(っていうのだろうか)だ。不利がかさなっても萎縮せず、闘うことをやめなかった。「ダウンタウン物語」のタルーラや「タクシー・ドライバー」のアイリス「君のいた夏」のケイティや「羊たちの沈黙」のクラリスも印象的だったけれど、彼女が演じた役柄のなかで、いちばんすきなのはやはりサラだ。よわくて、でもつよいから。それを演じたジョディ・フォスターは、というと、この本をよむかぎり、そうとうマッチョなようだ。というか、マッチョにならざるをえなかったのかもしれないが。