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書き出しが本当に素晴らしいよね。ユルスナールのその旅の人生、著者もまた旅の多い、シモーヌいわく「ノマッド」の人生 それがフーガのように、なぞるように綴られている。 ちゅうだんちゅうだん! まだ人生の全貌どころか頭だけでも見えていないときに感じた不安、や秘密を、この人はなぜこれだけ瑞々しく描けるのでしょうか。 初めていった海のこと、関西の学校で本のことを語り合えた、編み物もした友達のこと(この子は若くしてなくなってしまって、本当に秘密みたいだった)、父からもらった靴、フランスとイタリアの聖堂のこと、神殿に向かう話…。などなど拾ってきてもういっかいちゃんとかきます。
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修学旅行の感想を高校時代の恩師に読んでもらった時に、「須賀敦子を彷彿とさせられました」という言葉を渡されてから、ずっと心のどこかにひっかかっていた名前を、ようやく手に取る。
わたしの須賀敦子処女をこの本に、このタイミングで捧げられたことをほんとうに幸運におもう。
ユルスナールという数奇な人生を辿った女流作家と、須賀敦子という稀有な言語感覚を持った翻訳家の生が、時に伝記的に、時に紀行文的に、あるいは随筆的に語られる。
何より書き出しがいい。こんな風に書きたい、というお手本のような文章。(引用参照)
ふとじぶんの足を見る。扁平でいびつで小さく、大地を踏みしめるにはあまりに頼りなく、恥ずかしくなってしまう。
それでもこの足で歩いてきたし、歩いてゆくのだから、愛してやらないわけにはいかないだろう。
いとしさをこめて、いつか出会えるその靴を探しながら、いや、探すため、歩いてゆく。生きてゆく。
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余すところなく飲んでしまいたい洋風スープのような読書体験。文庫本の値段でこれほど贅沢な気持ちになれることはないと思う。何度も読み返したい本。日常とは別世界へ連れてってくれる。
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初めてのの須賀敦子。
大好きな書き手をまた見つけた。全体的なテーマは「マルグリット・ユルスナール」。だけど、その作家、その作品について書くというよりは自分自身とユルスナールの世界、訪ね行く土地での人々との思い出の世界との往還で構成されている。
深甚の知識や感性が、並の人が通り過ぎてしまう瞬間を掛け替えのない時に変える。
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須賀敦子の最後の著作。
図書館で何度も借りていましたが、やはり手元においておきたくて購入。
上品な文章で綴られるユルスナールへの共感と旅。
そして冒頭にある靴への想い。
私はまだ、ぴったり足に合う靴に出会えてないようです。
ユルスナールの生き方も須賀敦子さんの生き方も、憧れますが私にはそのような生き方は出来ない。だから、なのかこの本を読むと一抹の寂しさが胸をよぎります。
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きっちり足に合った靴さえあれば、自分はどこまでも歩いていけるはずだ。
そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」という著者が、「ぴったりと足にあった靴をはいた、それ以外の靴をはこうとしない部類に属する人間」であるマルグリット・ユルスナール(フランス人作家)の人生を追いながら、そこに自らの人生を重ね合わせていく。
「霊魂の闇」を通り抜けて生き抜いた、二人の魅力的な女性の歩みが時間を超えて交錯します。
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ユルスナールも須賀敦子も未読で、二人の女性の、圧倒的な知識量を前に読むのに時間がかかった…でも分からなくても読めてしまう須賀さんの品のある文章と、時代の狭間の暗い魅力。ユルスナールの小説の世界と、彼女の生きた世界と、須賀さんのヨーロッパを、行ったり来たりの旅。
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読書会の課題図書が「東方綺譚」なので、その絡みで。
須賀敦子はしっとりした情感溢れるエッセイがなかなか良いですが、タブッキの翻訳もしている人。
自分の話とユルスナールの話と両方が絡んで話が進むので、最初ちょっと読みにくかったけど、じきにワールドに引き込まれてしまいます。
ピラネージやデューラーの版画の話など、個人的には興味あるアイテム満載。ほかのユルスナールの著書も読んでみたくなりました。
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須賀敦子さんの著作の中では、もっとも敷居が高かった本。ユルスナールを読んでいないことが躊躇する原因だったのだが、須賀さん自身も、ユルスナールと出会ったのはむしろ遅かったとわかりほっとした。プロローグが圧巻。
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なぜこの本を読もうと思ったのか、よく分からない。新聞の書評に載っていて、記憶に残っていたのかもしれない。ユルスナールというのがフランス人作家の名前だとも知らず読み始めた。ユルスナールの作品や人生と重ねるようにして、著者が自分の人生を回想する。読点の打ち方など、文体がちょっと独特。この本で紹介されているユルスナールの作品の中では、代表作という「ハドリアヌス帝の回想」よりも、再洗礼派の信仰が描かれた「黒の過程」を読んでみたいと思った。
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須賀敦子 「 ユルスナールの靴 」 作家ユルスナールの軌跡を綴った本。ユルスナールの描く世界と 著者の世界を重ね合わせる構成。
作家自身が忘我し、小説の中の主人公と一体化する姿を 「自分の足にぴったり合った靴で旅をする」と表現したのだと思う
「自分の足にぴったり合った靴で旅をする」ことの意味
*旅をする=書くこと→作家として生きること
*靴=小説の主人公→作家としてのスタイル
*ぴったり合った=一体化→愛の日々→忘我の恍惚
*孤独性、放浪性(ノマッド)が 忘我の恍惚を手に入れる作家の生き方 と捉えた
神に到達しようとする魂の道 の3段階
1.神の愛に酔いしれ、身も心も弾むにまかせる
2.神の求める魂が手さぐり状態でしか歩けない
3.まばゆい神との結合に至って忘我の恍惚へ
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イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子さんの『ユルスナールの靴』を読む。
マルグリット・ユルスナールはフランスの女流作家で、出口治明さんが激賞された『ハドリアヌス帝の回想』の作者。
生まれてすぐ母を亡くし、父が亡くなった20代半ば以降、パリ、ローマ、ヴェネツィア、アテネと旅に過ごした人です。第二次大戦の難を避けて恋人の女性と渡米した後は、生涯ヨーロッパに戻ることなく、アメリカ東北部メイン州のデザートアイランド島の小さな白い家で人生を終えました。
このユルスナールという、私たちにはあまり馴染みのない作家の人生を須賀さんは追っていきます。
「きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」という言葉を胸に、須賀さんもまた20代のころパリに渡り、ミラノで結婚され、夫の死後に帰国、と生涯を旅に過ごしました。
本作は一章ごとに、ユルスナールの足跡に自らの人生を重ねていきます。二千年前に生きたハドリアヌスの行跡を通奏低音として響かせ、三つの異なる旋律を重ねて一つの音楽に昇華させていく作業。
『ミラノ霧の風景』や『ヴェネツィアの宿』でも発揮された須賀さんの、しっとりと洗練された文章にのって、私たちは、ユルスナールの霊魂の闇や、ハドリアヌスの情熱、須賀さんの思索のそれぞれがうねり、互いに絡んでいく瞬間を追体験することができます。
作品の中で何か劇的な事件が起きるわけではありません。
あたかも、日曜の午後、親戚のおばさんのお家にお邪魔して、紅茶を飲みながら、おばさんの「どこまで話したっけ」という言葉で始まる昔語りに耳を傾けるような、ごくありふれた日常の風景。でも、後から振り返ると自分の人生にとって、すごく大切な時間だったと認識するような体験。
須賀さんの思索に自らを投影して読み進める喜びを感じつつ、しかし、物語が終わりに近づくのが惜しい。そんな貴重な本に出会うことができました。
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マルグリット・ユルスナールとその著作、そして著者須賀敦子自身のエピソードを交錯させながら、見事に独自の世界を気づきあげています。改めて、須賀敦子の力量に感嘆します。
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著者最期の作品。須賀敦子のや特徴である柔らかなふくらみのある文章をこれ以上に無く味わうことができる。
ユルスナールという女性作家の作品と人生を辿りつつ、同時に自らの人生を絶妙に織り込んで自然と語りきってしまうその手腕は円熟というに他無いと思う。
筆者が作中最後にユルスナールが最晩年まで過ごした部屋を訪ねるシーンがあるが、私たち読者もこの作品を通して、筆者の人生の節目節目を、一つずつ部屋を訪ねるようにそっと垣間見ることができる。
私の中の白眉は、幼少期の親友・ようちゃんとの別れを語った、「一九二九年」の章である。相変わらず涙腺に来るのである。
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ユルスナールを読んだことがないのでどうかしらと思いつつ、美しい日本語と情感あふれる描写に引き込まれる。