紙の本
リスク社会分析の新しい古典
2007/11/03 12:54
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本が出た後すぐにチェルノブイリ原発事故があって、ヨーロッパではベストセラーになったという本。いまや新しい古典である。
福祉政策が充実した後期近代社会では、伝統が解体されることによって個人化が進み、たとえば教育機会の平等化によって男女間の役割分担が理論的に破綻し、しかし競争においては既得権益が男性優位社会を構成するのでむしろ男女関係は依存と憎しみを生み出す、というような状況が語られ、家族や人生について、一般的なモデルが消失し、自己の人生を個人でデザインし、実現しなければならない(ゆえに失敗は個人の責任に帰されてしまう)時代になった、と分析される。政治は責任の分担をいかにするか、という問題に帰結し、科学は普遍的真理を追求することよりも工学にその内実を譲り、同時に対世間的には状況を必然の名の下に構成する言明を出す、事態を保証する政治的な役割を多く求められるようになる。中央集権的な政治は解体され、細分化されたカテゴリの諸政治の協調、共闘、競争が、政治を形作るようになる。と、いうような話。面白いのは、科学技術が発展することによって計算不能な危険(リスク)が増大しているのに、社会はあらかじめリスクを計算可能と看做してみずからをデザインしようと欲している、という倒錯的な状況が見えてくることだった。科学が政治化するのはそのような倒錯を覆い隠すためだ、と著者は言っているようである(まあ、私の強引な理解だけど)。
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かつて危険とは目に見えるものであったが、現代の危険は大きく形を変えている。特徴は
・目に見えないこと(農作物の収量を増やす農薬や化学肥料のように、短期的には影響がないか、または良い影響を与えるように思えるが、長期的に悪影響を与える危険)
・国境を越えて誰にでも危険が及ぶこと(原発事故・大気汚染・海洋汚染など)
などなど。
20年前に書かれた本だが現代の危険をよくとらえており、評価の定まった本でもあるらしい。ただ訳がたいへん読みにくい。読める人なら原語で読んだ方がわかりやすいのではないかと思うくらいである。内容は星4つ、迷訳で星マイナス1。
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産業に伴う危険や破壊は国境をも越えて広がる。環境。近代化に伴う危険が国境により制約されないため取り扱いにくいことが、危険の拡大の特徴である。
危険社会に関する政治社会学的理論の核心は知識社会学であり、決して科学についての社会学ではない。むしろ知識社会学といっても、付け加えられた知識や混ぜ合わされた知識や知識のエージェントについての社会学に他ならない。
技術=経済というサブ政治を正当化するためには、政治システムによる正当性の付与にその基盤を求めなければならないのであろう。しかし政治システムが直接にテクノロジーの開発と利用を左右していないのは明らかである。
マイクロエレクトロニクスによってテクノロジーが新たな発展段階に突入する。
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科学に対する態度の変遷に関するところに特に関心をもった。やはり近代を捉えようとする際に、(近代)科学の社会的な性質を考えることは絶対必要。
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Beck, Ulrich, 1986, RsikoGesellschaft Auf dem Weg in eine andere Moderne, Suhrkamp Verlag.(= 1998, 東廉・伊藤美登里訳,『危険社会』,法政大学出版局.)
[論点]
個人化の特徴①ベックの指す第二のエレベーター効果は具体的にどういう意味でどう観察するのか.底抜けと同じ意味だろうか.
個人化の特徴②外部との境界が消滅することの具体例:自然が内部化され,原因が結果に影響し,結果が原因に影響するようなフィードバック現象を指す.
フルタイムからパートタイムへの移行で
「集団的に地位が下降する」ことは主観/客観関係を変える可能性を持つ.
少数の長期失業から多数の短期失業に移ったことは,肯定的に評価できるかも.
(実際にオランダは80年代に導入し成功,批判の的は政府の政策だろう.)
個人化論→一貫した個人化が生じているというのもつまらない.個人化していない部分を見つける必要性.
個人化論のベックはそんなに必要か?→社会学者は危機に警鐘を鳴らすことが一つの仕事.
ベック以外も含むが,個人化論の捉える面白さは,階級闘争から生じた福祉国家化が階級を消滅させたということ.
リスク論で言えば,ルーマンの方が精緻な議論をしているが,ベックの方が一般の人にも分かりやすい.
ベックのリスク論はダブルスタンダードなのでは?
職業教育の機能不全に関しても,結局は成長の時代から停滞の時代に入ったことが示すに過ぎないのでは.
[コメント]
第二部冒頭で富から危険へと配分の論理が変わった近代化の時代にあっては,かつてとは「地球規模の危険な状況と,その状況に含まれる社会的かつ政治的な紛争及び展開の力学」が異なることが言明されており,やはりベックは紛争理論の批判的継承者と見なした方がよいだろう.
近代化の徹底により,紛争理論の枠組みが変質したことを内在的に明らかにしたのが第一部だとすれば,第二部は「それだけではなく」社会や人間の生においても危険や不確実性が増していることを述べようとしており,その意味で第一部と第二部は切り離して読む事ができる.ただし,第二部でも紛争理論につながる主張はしている.個人化論を唱える論者は数多いく,別にベックに限った事ではないが,彼のオリジナリティは,それが政治的社会的闘争につながるという紛争理論の伝統に立った解釈をしている点だろうか.第二部冒頭では,近代化に伴って伝統社会から解放されていく過程に重ねあわせる形で,七つの命題を述べているが,福祉国家化による階級や家族からの解放に始まり,再生産単位が個人へと変化するという(1)-(6)までは,ベックに先見の明があったという程度かもしれないが,(7)新しい社会文化的な共同性のもとで市民運動や社会運動が形成されるというのは,ベックのオリジナルな論かもしれない.(だが,この命題は第二部においてそこまで強調されていない.)
再帰的近代化が政治に与える影響という点では,ベックは不安による連帯やサブ政治化の箇所でも分かるように,社会運動に重点を置いている.一方で,同じ再帰的近代化論者のギデンズのニュアンスはやや異なる.ギデンズは近年の平和運動や環境運動の隆盛に対し「グローバリゼーションやリスクの増大が平和や環境に関する運動をますます際立たせる」と考えているものの,政党政治,国民国家,ビジネスの経済的影響力はなおも重要だとしているようだ(Haralambos and Holborn 2008: 571).
第二部の訳者である伊藤美登里は社会学評論上の論文で,ベックの個人化論を①一般社会学概念,②時代診断,③規範的要請の三つの側面に分けている(伊藤 2010).①は「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行」という意味で,社会学における伝統的な個人主義の議論に重なる.本書では,歴史的に所与のものから解放される過程を社会階級と家族を中心に論じていた箇所が対応する.②はベックの個人化論の特徴の一つで,「第二の近代」における個人化に焦点を当てたものである.個人化が徹底化された時代においては,個人が再生産の単位となり,生存が市場に依存するという箇所が対応する.③は規範的(〜するべき)に,言い換えるとやや社会評論的になっている部分で,自己内省的な日常行為モデルが「要請」されることを述べた箇所が対応する.
ベックの個人化論の「使われ方」を少しだけ.この第二部,及びベック=ゲルンシュタインとの共著 Individualizationを引用した邦語文献は(自宅の本棚から探しても)複数ある(福原編 2007: 乾 2010: ).社会的排除を主題とする福原編(2007)では,福祉国家の制度が危機を迎えたとき,制度に依存し危機に対する抵抗力を弱めた個人はリスクに対して無防備になると述べている箇所(263-264)を引きながら,グローバルな資本主義経済がそうした危機を促進させ,現代の市場経済社会において自分が果たすべき機能を見出せず市場から排除された人々を生み出す構造を指摘している.若者の教育から職業への移行過程について分析した教育社会学者の乾(2010)は,ベックが指摘する産業構造の変容と個人化の進行によって,「構造化された社会的諸グループ」に規定されたライフスタイルや「学校から仕事へ」の移行スタイルが自明なものでは無くなり,自分の生活と人生をコントロールする行為主体としての個人の重要性を喚起すると述べる.福祉国家との関連でベックの個人化論に依拠した武川(2007)は,社会学における個人化論には非連続的な側面があることを,社会分業論において同業組合(中間諸団体)から離脱する個人を描いたデュルケムがindividualなもの,すなわち分割不可能なものを核家族と想定していた点で,職業だけではなく家族も準拠枠として喪失し,個々人が再生産の単位となると論じたベックの個人化論との間に差異があると示すことで確認し,個人化の徹底を進めたのが福祉国家化であることを前提に,21世紀の福祉国家は個人化を制度的前提として組み込みつつ,ベーシックインカムとワークフェアの中間的なモデルが登場すると予想する.家族社会学のキーワードをまとめたテキストにおいては,ベックの言う個人化は日本の家族構造の変容において,地域や「家」のような伝統的共同体から解放され,コミュニティや「近代家族」のような新しい集団を形成した個人にとって「近代家族」ですら解体の対象となっていることに重ねあわせられている.もっとも,家族が消滅するようなことはなく,個人が生活先行に基づき任意に家族を形成するという「ライフスタイルとしての家��」現象が進むと予想する(野々山編 2009).
ベックの個人化論は,個人が再生産の単位となることに代表される社会文化的な変化を再帰的近代(第二の近代)における構造変動として捉えている点に特徴があるが,こうした変化を西洋のリベラリズム的個人主義の伝統に脈絡づけるのはアンソニー・エリオットである.エリオットは,現代の個人主義の起源はホッブズ的な近代国家の超越性に対抗し,他者に依存せずに自身の所有権を重視する合理的個人を想定したロックの思想にまで遡るという.しかし,古典的リベラリズムの徹底化は,絆や情緒的なつながりを否定し,個人を自然状態に委ね,善き社会を「自律的個人の混ぜ合わせ」とするような過度な個人主義を招いてしまう.エリオットはこうした個人主義の伝統に現代社会の変化を結びつけ,「新しい個人主義」と名付ける.この時代の特徴は市場の論理が個人の相互作用にまで侵入する商品化や公私の分離を不明確にする私化とされているが,人々は大規模な民営化や規制の撤廃により社会的諸制度から閉め出され,社会的排除を経験したり,人生の自己管理化する必要に迫られるなど,事態の帰結としてはベックとほぼ同じ主張をしていると見ていい(Eliott 2009).
確かに,ベックの主張が全体を通じて「マルクス主義の変種」に見えてもおかしくないだろう.実際のところ,紛争理論の系譜にあり,「意識が存在を規定する」と言いつつも,その意識によって生み出された存在を根拠に闘争が展開するという論調はそうした指摘から逃れられない.また,ベックの個人化論は現代に生きるわれわれには自明すぎることを述べているに過ぎず,面白くないかもしれない(と,TL上の論点整理.しかしながら,自明すぎてつまらないという感想と,30年近く前に今日の状況を予言したことへの賞賛は,紙一重な気もする).ベックを少しだけ擁護しておくと,彼の社会理論の学史上の意義としては,ベック本人や武川が述べるように,近代化における個人の解放という(社会学の古典的議論でもある)命題が,現代においては質的な違いを呈しているという主張をしたことを挙げたい.
ただし,それが学史上の意義だけにとどまるのであれば,つまり似たようなことは誰でも言っている,というのであれば,彼の魅力は半減してしまうだろう.だが,ベックの個人化論は社会学の論文では数多く引用されている.今回の読書会を企画した理由の一つに,昨年別のところで危険社会を読む機会に恵まれたが,その際に「なぜわざわざベックなのか」という感想を持ち,それいらい疑念に変わった気持ちを抱き続けていたことがある.そこで,思い切って若い衆を集めて(私自身もまだ若いが!)もう一度読んで議論してみようと考え,今回の会に至った.ベックの主張に対する考えは改めて議論に時に述べることができればと思うが,簡潔にいうと以下のようになる.今のところ「なぜわざわざベックなのか」という疑問を解く方法は二つ.一つは「なぜ社会学(者)はベックを引用するのか」という,コンテクストを重視する,知識社会学的な方向性.もう一つは解釈的観察の必要という方向性.つまり,社会を人々に了解可能な形で示すには,観察する際に共通のレンズが必要になるということだ.社会は実態視できない以上,記述��解釈学的にならざるを得ない(逆に,統計的手法を信じて科学的な記述にこだわる方向もある,もちろん社会調査も「解釈」なのは御大が口を酸っぱくして言うことだが).理解社会学でも言説分析でも,それがどんな方法であれ社会学の方法なら解釈の要素が強い.内部とも外部ともつかない立ち位置で社会を記述する際には大げさに言えば認識の枠組み,軽く言ってしまえば観察のためのレンズが必要になる.社会理論を「そう見ようと思えばそう見える」と片付けると怒られそうだが,今のところは,各人が思い思いの見方で社会を記述するよりも,共通の解釈としてのレンズを採用して,それをたたき台tentativeとして批判的に継承していく方が,勝手がいいのだろうと考えている.なので,結局ベックが引用されるのは,それなりに妥当かつ先見の明があったという点に集約されてしまうのだが(´・ω・`)
[文献]
野々山久也編,2009,『論点ハンドブック 家族社会学』,世界思想社.
武川正吾,2007,『連帯と承認』,東京大学出版会.
乾彰夫,2010,『<学校から仕事へ>の変容と若者たち』,青木書店.
福原宏幸編著,2007、『社会的排除/包摂と社会政策』,法律文化社.
伊藤美登里,2010, 「U.ベックの個人化論」,『社会学評論』 59(2): 317-330.
Haralambos, Michael and Holborm, Martin, 2008, Sociology Themes and Perspectives Seventh edition, London: Collins.
Eliott, Anthony and Lemert, Charles, 2009, The New Individualism: The Emotional Cost of Globalization (revised edition), Routledge.
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超面白い。当時であれば各種公害問題やチェルノブイリ他原発事故をあてはめながら読んだのであろう。…が311以前では、主張内容についてglance可能な輪郭はぼんやりしていたはずだ。福島事故以降の日本は、このテキストに書かれている内容を忠実にトレースしているようである。
富の分配→危険の分配、階級格差を越えどのように分配が行われるか、という点などなど読みどころ満載。
有害物質拡散、核拡散、を筆頭に危険と向き合うリスクマネジメント必須の21世紀において、外せない一冊。小学生ぐらいから噛み砕いた内容でいいから学び、科学や技術をあくまでツールとして扱い、信仰にしないクセをつけるべきだろう。ある日突然訪れる破滅を回避した「生きた」未来のために。
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本書を読んで、私はリスク・コミュニケーションという考え方を知った。それだけにかなり思い入れのある一冊。1か0かという極端な考え方を捨てた彼が言うことは、現代(特に日本)では受け入れがたい思想かもしれない。大きくなった危険を回避することを止めて、最小限にとどめようというベックは、完璧主義者からしたら妥協した弱者なのかもしれないから。
現代では原発問題などがこれに当てはまるのだろう。反原発も推進派も、目を通しておいて損はないだろう。
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超読みにくい。ただ、危険社会はのちのちの相関社会科学や科学哲学、科学コミュニケーション論などの礎となった本だと言われるぐらいに、内容は濃い。政治と科学の関係、政治が政治的な話を内部に留めておけず、科学者によってコントロールされたり、テクノロジー企業によって方向付けられていったりすることを暴いたり、科学的な発想が進むと科学に対する方法論への懐疑も当然生じ、科学に対する限界感を人々が感じて何を拠り所にすればわからなくなってしまい思考不全陥るなどの現代に実際に起きている話の構造をまとめあげている。
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[ 内容 ]
チェルノブイリ原発事故、ダイオキシン…、致命的な環境破壊を増殖させる社会のメカニズムを分析。
エコロジー運動の展開にも多大に貢献した欧米でのベストセラー。
[ 目次 ]
第1部 文明という火山―危険社会の輪郭(富の分配と危険の分配の論理について;危険社会における政治的知識論)
第2部 社会的不平等の個人化―産業社会の生活形態の脱伝統化(階級と階層の彼方;わたしはわたし―家族の内と外における男女関係;生活情況と生き方のモデル―その個人化、制度化、標準化;職業労働の脱標準化―職業教育と仕事の未来)
第3部 自己内省的な近代化―科学と政治が普遍化している(科学は真理と啓蒙から遠く離れてしまったか―自己内省化そして科学技術発展への批判;政治の枠がとり払われる―危険社会において政治的コントロールと技術‐経済的変化とはいかなる関係に立つか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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130420中央図書館
第1部 文明という火山 − 危険社会の輪郭
第1章 富の分配と危険の分配の論理について
第2章 危険社会における政治的知識論
第2部 社会的不平等の個人化 − 産業社会の生活形態の脱伝統化
第3章 階級と階層の彼方
第4章 わたしはわたし − 家族の内と外における男女関係
第5章 生活情況と生き方のモデル − その個人化、制度化、標準化
第6章 職業労働の脱標準化 − 職業教育と仕事の未来
第3部 自己内省的な近代化 − 科学と政治が普遍化している
第7章 科学は真理と啓蒙から遠く離れてしまったか
− 自己内省化そして科学技術発展への批判
第8章 政治の枠がとり払われる
− 危険社会において政治的コントロールと技術−経済変化とはいかなる関係に立つか