紙の本
「顔」をめぐる論点と着眼点が網羅されたエンサイクロペディア
2001/02/11 16:49
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
よくできたカタログ、いや「顔」をめぐる論点と着眼点が網羅されたエンサイクロペディアで、現象学という「持ち味」が存分に生かされた、楽しめてとても「役に立つ」すぐれた読みもの。ここでは最低限、私が印象深く読み、個人的な関心をそそられた箇所についてのみ記録しておく。
この書物で浮き立たせようとしたのは「壊れやすい〈顔〉」(あるいは「傷としての〈顔〉」)であり「その造作を読まれたり分析されたりするのではない切迫や呼びかけとしての〈顔〉」である、と鷲田氏は「学術文庫版まえがき」で書いている。それは他人の「プレゼンス」、だれかがそばに「いてくれること」(中井久夫著『1995年1月・神戸』)として定義される顔であり、レヴィナスがいう「他者の顔」のことだ。
鷲田氏はまず「自分の顔が見えない、自分の顔面が視覚的に遮られている、というとてもプリミティヴな事実」すなわち「〈顔〉はつねにだれかの顔である」ことから出発し、「読まれたり分析されたり」する顔──こちら側や向こう側、背後や内部とのトポロジカルな関係においてとらえられた公共的な意味としての顔、いいかえれば記号、あるいは鏡、あるいは面=像としての顔──について縦横に論じたあと、「根源的な現象」「意味の外へと逸脱してゆく存在の表面」あるいは「意味と非意味との境界」としての顔へと考察を進めていく。
この前半の叙述のなかにも切れ味のいい刺激的な断言──「顔は地上に存在する人間の数よりも多い。」「…〈わたし〉の存在もまた、共同性がみずからを折りたたみ、褶曲させるときのその一つの襞としてとらえられねばならない…」「…身体の表皮は、欲望の力線が交錯しあうそういう力動的な場としての身体を、仮構された可視的表面へと移行させるなかではじめて、内部と外部、あるいは自己に属するものと他者に属するものとの境界面として出現することになる。」「人称の外部とは…無名、失名、没名といった、いわば匿名的な位相にある存在のことである。わたしのなかにあってわたしではないもの、わたしの存在よりももっと古い存在、あるいは、わたしがそうありえたかもしれないもの。」等々──がいっぱい出てくるし、いくつかの刺激的な議論が展開されている(以下、ミシェル・セールの『五感』やジャン=ルイ・ベドゥアンの『仮面の民俗学』に準拠した論考が続くのだが、割愛) 。
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学術文庫版まえがき
Ⅰ <顔>
Ⅱ 顔の規則
Ⅲ ほんとうの顔?
Ⅳ 顔の所有
Ⅴ 顔の外科手術
Ⅵ 震える鏡
Ⅶ 転写される皮膚
Ⅷ 魂のパスゲーム
Ⅸ 負の仮面
Ⅹ 不在と撤退
ⅩⅠ 不可能な顔
ⅩⅡ 見られることの権利
原本あとがき
引用文献
解説 小林康夫
(目次より)
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自分の顔を自分で見ることはできない。相手の顔を通じて自分の顔を見る。それは顔というコードを共有している場で起こる。ところが、レヴィナスの説が引用されると・・・
現象学的考え方は簡単ではないが、鷲田先生の詩的な文体で思わず引き込まれる透明思考の世界。
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他の方も書いておられますが、レヴィナス寄りの論調なので
そちらに拒否反応がなければ面白い読み物だと思います。
とりあえず1冊、という時にもちょうど良いかと。
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自分では見えない顔。でも人間が人間を認識するのは顔のお陰だ。鷲田清一氏による顔の不思議の探求。大学入試でよく採用されている通り、文章や論理は非常に明快でわかりやすい。認知に関するレポートで参照させてもらった。
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人体の部位の中でも、顔は特別である。
どのように特別かというと、その個体や人格を代表するような役割を持つ。
しかし、顔という部位は状況に応じて変化し、とどまることがない。
しかも、その個体みずからはそれを適時に確認することもできない。
メルロ・ポンティ=現象学が専門の鷲田先生の、顔をめぐる現象学的考察。
確かに顔は、自分対他人、内面的意識対外面的表情などの関係性において、
間主観的な存在であり、まさに現象するものである。
家の中で、職場で、道すがら、または店先で、毎日様々な顔に接している。
お互い顔を合わせて、言葉以上の意思疎通を、表情から受け取っている。
しかし、われわれが日常生活接する顔は、真実を物語っているのだろうか。
様々な場面が生み出す表情、あるいは無表情を、日常的な文脈から少しずらして
みてみると、顔という部位をめぐって、世界の意味を問い直してみることもできる。
そんなことに気づかせてくれる一冊でした。
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臨床哲学に興味があるので鷲田さんの文章にめげずに挑戦、しかし全然響かない。悲しいぐらい響かない。ここまでくると多分こだわりポイントがかなり違うのではないかという疑いが出てくる。
おそらく彼の文章は全体的に「個人」や「主体」に焦点をあてて、また「形式」に焦点を当てて書かれていることが多いのだが、私がぐっとくるポイントは多分「個人の総体としての社会」「社会(人)と社会(人)の間の関係性」「構造」とかなのである。多分、そっち側のイデオロギーの人だったら楽しめるのだが、いかんせん趣味が違う。もう1冊ぐらいめげずに挑戦してみよう。
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普段何気なく見てる人の顔だったけど、こんな風に捉えるのかという驚きばかりだった。
顔は個人が所有するものか
本来の顔とはなにか
顔は常に仮面を被っている
素顔は存在するのか
自分が考えたことないことばかりだった。
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「顔」という主題をめぐって、現象学的な観点からさまざまな考察が思索を展開されています。
かつて和辻哲郎は「面とペルソナ」と題された文章のなかで、「顔なしにその人を思い浮かべることは決して出来るものではない」と述べて、顔が人格の座としての地位を占めることを論じました。しかしこのように、私が私を取り巻く人びとに差し向けている顔に私の人格が宿るのだとすると、私の人格はけっして私自身によって占有されるものではなく、むしろ私と私を取り巻く人びととの関係のうちでとらえられなければなりません。
著者はこうした和辻の洞察を参照しつつ、同時に「わたしは自分の顔から遠く隔てられている」といいます。なぜなら、他人がそれを眺めつつ私について思いをめぐらせるその顔を、私自身はけっして見ることができないからです。しかしそれにもかかわらず、私は私自身と根源的に一致することのないその顔を、私の顔として所有しようと「欲望」すると著者はいいます。それは、「欲望」の主体である「私」への「欲望」というべきでしょう。こうした著者の洞察は、和辻の「間柄」のような関係性のなかに「顔」を回収することをどこまでも拒みつづけています。
こうして私は、私の顔の背後にあると考えられる「私」を志向する他者のまなざしのなかに入り込むことで、自己を志向するのであり、顔はそのような志向性のせめぎあう場であるとともに、どこまでも私の志向から逃れていくような、レヴィナスのいう「老い」によって特徴づけられることになります。
メルロ=ポンティやレヴィナスの現象学を踏まえつつ、顔という具体的なテーマにそくしたあざやかな思索が展開されており、硬質な哲学的考察でありながら読者を魅了します。