紙の本
ありのままに
2002/07/23 23:45
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「寅彦の随筆の特徴をあげると、見る、聞く、匂う、触る、のような人間の五感を大事にしていることです」これは岩波少年文庫の一冊として、寺田寅彦の随筆を編集した池内了さんの言葉だが、寺田寅彦の文章の魅力を的確にとらえた、いい評価だといえる。
寅彦の文章には飾りが少ない。俳句でいう写生そのものだ。文章とは本来事実を正しく伝えるという目的がある。それなのに人はまわりくどい書き方をしてしまう。これは自分をよく見せたいという心理が働くのだろうか。そうではなく、ありのままに伝えることが大切なのだ。そのことが、寅彦の文章を読むとわかってくる。
僕がどんなに言葉を多くついやしたとしても、田舎の八十歳手前の母が書いた手紙の純なものに負けてしまうのは、母の文章に飾りがないからだろう。素朴な母の手紙。そこからすると、僕はあまりにも多くの余計なものを身につけすぎてしまったのかもしれない。
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昔の科学者が書いた本だけれど、今でも通用する”科学の基本的考え方”がよくわかる、大人になっても読みたい本である。
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いや~、面白かった!!! 一読後の KiKi の最初の想いは「しまった~! どうしてこの本を子供のうちに読んでおかなかったんだろう!!!」というものでした。
電車の混雑には法則があるのか? 虫たちはいったい何を考えているのか? 日常生活の身近なことがらを細やかに観察しながら、科学的に考えることのおもしろさを書きつづった、明治うまれの物理学者による随筆。 (中学以上)
これ(↑)が背表紙に記載されている岩波書店さんのいわゆるこの本の紹介文なんですけど、中学時代の KiKi は「岩波少年文庫は小学生が読むもの」と勝手に決めてかかっていたようなところがあって、かといって随筆とかエッセイを楽しめるほどは成熟していなくて、もうちょっと「知識の本」っぽい本を読み漁っていたようなところがあるんですよね~。
(全文はブログに)
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これをぜーんぶ読んで、人にオススメするというのは
大変なことだ・・・
興味深く読めたのは、
・夏目漱石のはなし
・匂いの追憶
とやはり少し興味のあるものしか読めない。
もっと一般教養が必要だと感じた1冊。
これがわかるようになったら
世界ももっとおもしろいかもしれない。
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寺田寅彦の随筆はこれまでにも読んだことがあって、なんどか読んだ『柿の種』なんかはタイトルとも印象深い一冊。
この少年文庫のことは、『We』読者でもあるNさんから、子どもの本棚にあったのをたまたま開いてみたら「津浪と人間」という三陸大津波のことを書いた文章が入っていたと聞いて知った。それで、図書館で借りてきてみた。この「津浪と人間」のほかにも、地震や災害についてふれたものがいくつかあった。寺田寅彦は、身辺の世界を科学の目をもってよくのぞき、退屈することなど全くないほどそこは「驚喜すべく歓喜すべき生命の現象」があるのだと書いた人だ。この本も、そんな日常の観察からみつけたオドロキとおもしろさに満ちている。その生命現象の世界と、人間のつくる社会と、どちらもよくみつめながら書いた文章がしみじみとイイ。
「津浪と人間」には、たとえばこんなことが書いてある。
▼…自然の法則は人間の力ではまげられない。この点では人間も昆虫もまったく同じ境界にある。それでわれわれも昆虫と同様、明日のことなど心配せずに、その日その日を享楽していって、一朝、天災に襲われればきれいにあきらめる。そうして滅亡するか復興するかは、ただその時の偶然の運命に任せるということにするほかないという、すてばちの哲学も可能である。
しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。…(pp.186-187)
寺田寅彦といえば「天災は忘れられたる頃来る」がユウメイな気がするが、その「忘れられたる」ゆえんは、30年、40年あるいは100年もたてば、当の天災を経験し、その災害の記念碑をたて、警告を発した人たちが代替わりし、みないなくなってしまうからだという、ある意味かんたんなことだ。身辺の世界を驚きをもって見る目をもちつづけることとともに、災害を忘れないようにすることは難しいとつくづく思う。
池内了が編んだこのエッセイ集のなかで、とくに強く印象に残ったのは、「音の世界」と「夏目漱石先生の追憶」の2篇。
寺田寅彦がある日、研究室で新着の雑誌を読んでいくと「音の触感」に関する研究報告があったと。レコードの発する音響をすっかり殺し、さらに耳を完全にふさいで、指先の触感だけで楽音の振動をどれだけ判別できるかを研究したものだという。
寅彦の書きとめるところによれば、「その振動が二つの音から成り立っている場合に、それが二つだということがちゃんと判別ができて、その上にそれがオクターヴが五度か短三度か長六度かということさわかるものらしい。それでその著者は、聾者のための音楽が可能であろうということを論じ、また普通の健全な耳を持っている人でも、音楽を享楽するのに耳だけによるのではなくて、実は触感も同時に重大な役目をつとめているのではないか、そうして、それを自覚しないでいるのではないかという意味のことを述べている」(pp.206-207)。
夏目漱石は、寅彦の生涯の師であったという。編者の池内了が巻末で、漱石を追悼した寅彦の短歌をあげている。
俳句とはかかるものぞと説かれしより
天地開けて我が目に新(あらた)
追憶を綴った寅彦の文章からは、そのむかしは千円札で見慣れた"文豪"とは違う姿がみえる気がする。
虫や鳥など、寅彦が身近なさまざまな観察を述べているくだりでは、その身体をとおした観測の能力におどろいた。仰角などから目測して、高さや距離を測り、あるいは火をつけたタバコをかざして風向を知り、というのが随所に出てくる。こんな風に身近な世界を見ることができるのだと、読むだけでも心があらわれる。
自分が子どもの頃には化け物がたくさんいたと書く寅彦を読むと、鶴見俊輔が内山節のキツネにだまされる力を失った日本人の話を引いていたのを思いうかべたりするのだった。
▼まったく、このごろは化け物どもがあまりにいなくなりすぎた感がある。今の子どもらがおとぎばなしの中の化け物に対する感じは、ほとんどただ空想的な滑稽味あるいは怪奇味だけであって、われわれの子ども時代に感じさせられたように、頭の頂上から足のつまさきまで突き抜けるような鋭い神秘の感じはなくなったらしく見える。(p.116)
そして、人間社会のあり方について、ぐさりと刺す言葉を、いまの世の中に寅彦が生きていたら、どんなことを書いただろうと思いながら読む。
▼頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思いりこうだと思う人は、先生にはなれても科学者にはなれない。(p.203)
▼…いまさらのように、自然界に行われている「調節」の複雑で巧妙なことを考えさせられた。そして気まぐれに箸の先で毛虫をとったりしている自分の愚かさに気がついた。そしてわれわれがわずかばかりな文明に自負し、万象を征服したような心持ちになって、天然ばかりか同胞とその魂の上にも自分勝手な箸を持っていくようなことをあえてする、それが一段高いところで見ている神様の目には、ずいぶんおろかなことに見えはしまいか。(pp.248-249)
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自分が生まれる丁度一世紀前に生まれた科学者の随筆。とても面白く、いぶかしんでものを見る大切さがよくわかる。寅彦が疑問に思ったことの幾つかは現代においては解明されているのではないか?と思われるので、その辺りを答え合わせした資料等があれば更に面白くなりそう。
唯一読み辛いという点は、当時の計測単位が○町とか○尋(ひろ)なので、距離が感覚的に掴みにくいという部分かな。。
岩波少年文庫シリーズということで、中学生以上が対象となっているが、今の中学生がこの本を読むのだろうか???
子育て中のお父さんにお勧めしたい一冊。
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今年になって寺田寅彦さんの名前や電車の法則などのエッセイの話を続けて目にする機会があり、いままで読んだことがなかったのでまず岩波少年文庫で読んでみた。
短編のエッセーなので、読みやすく、話題もとても面白かった。
なかに「津波と人間」という話があった。昭和8年3月3日の東北日本の太平洋岸の津波で沿岸小都市村落が多数の被害にあった話である。明治29年の三陸大津波から37年で人々の記憶はたちまちうすれ、同じような被害が繰り返される。
その10年前に関東大震災を寺田寅彦も経験しているが、関東でも安政(1854~1860)の地震の経験は残っていなかったからこそ、また被害を受けたのだと書いている。
そして78年経った今年また同じ地震と津波が襲いこんなにも大きな被害がでてしまった。
これを読むと地震は100年に1度などではなく、もっと頻繁におこっているのに、人間が生きている間の10年くらいで、すっかり過去になってしまうように思える。
彼は後半地球物理学へ興味を移し、地震・火山・海洋・気象などについての研究をもとに、自然災害の多い日本の防災のために、数々の提言を行ったそうです。
そういうことも含めて災害の経験もなかなか伝わっていかないということを、人間の自然現象で終わらせてはいけないのだと思う。
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身近なものから、科学や物理(とわけていいのかすらわからないほど理科系が苦手)の話。とっつきやすい本ではなく、何回かに分けて読んだ。読み終わって感じたことは、科学では説明しきれない不思議なことが、生き物、地球では存在するということ。それを、著者も伝えたかったのではないかと思う。
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寺田寅彦氏は、昭和初期に活躍した物理学者で、夏目漱石に俳句を習ったという変わった経歴の持ち主です。
本書は、自然のあらゆる姿を氏が捉えて、様々な法則性を見出す前段階を描いたエッセイです。
私が中学生時代に出会っていたら、間違いなく自然科学の道を志しただろうなあと思えるほど、凄く楽しいストーリーの数々でした。
大人になっても、何故?と問える気持ちは持ち続けたい、寺田寅彦先生に学ぶものは大人にこそ多いように感じました。
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請求記号:404テ
資料番号:020105235
寅彦は、熊本第五高等学校で二人の先生と出会いました。田丸卓郎先生と夏目金之助(漱石)先生です。
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リビングに置いておいて、時間を見つけては、一節ずつ読みました。
科学する人の考え方や、批判の仕方なんかも感じられる本です。
中学生以上向けといいながらも、少し精神年齢高くないと、読んでいられないのでは?
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池内了氏編集による寺田寅彦のエッセイ集。
岩波少年文庫なので対象の読者は青少年だろうと思うが、もともとは一般読者向けに書かれたエッセイを編集したものであるので、誰が読んでも面白い。
著名な物理学者である編者・池内了氏もまた、寅彦のエッセイを読んで育ち、間違いなく影響を受けて日本を代表する物理学者となった。その影響を与えた側の寅彦もまた、第五高等学校時代に数学と物理学を教える田丸卓郎先生との出会いで、進路を物理学に変更したようである。
そしてまた第五高等学校といえば、かの夏目漱石(金之助)先生との出会いもあり、文学(特に俳句)について語り合う仲となったとのこと。漱石の「吾輩は猫である」に登場する水島寒月は、寺田寅彦がモデルだということなので、それを意識しながら「猫」を読んでみるのもよいかもしれない。
本書のまえがき部で池内氏が書いているように、寅彦のエッセイの特徴は「見る、聞く、匂う、触る、のような人間の五感を大事にしている。日常生活での体験を材料に、科学の方法でそれらを考えてようという態度が一貫している」のである。従って、本書も全くその通りの内容だ。
本書は5つのパートに分かれているがその区分の理由は理解できなかった。ただ、その扉に寅彦の描いた絵が載せてあり、これが心和ませてくれる。本書の表紙の絵も同様、自然との接点を感じさせてくれる絵だ。
本書トップのエッセイは、「瀬戸内海の潮と潮流」ということで、瀬戸内海の干潮・満潮時間が非常に複雑であるという話だった。これを読んで、最近の地震の頻発や南海トラフ地震の発生確率などから、この地方の防災は大丈夫なのだろうかという不安がよぎった。
というのも寺田寅彦氏は地震研究でも権威であり、本書にも収められている「津浪と人間」にも、地震学者としての鋭い視点を記している。
「昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津波が襲来して、沿岸の小都市村落を片はしからなぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起こったいわゆる「三陸大津浪」とはほぼ同様の自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰り返されたのである。」(=昭和八年五月執筆)
この随筆に記されている「人間の忘却の愚」が、また先般の東日本大震災で繰り返されてしまった。このような寅彦の冷静な指摘と警鐘の文言が残されていたにも関わらず。
寅彦氏なら、瀬戸内海の潮の干満との関係から南海トラフ地震をどのようにとらえるのだろうか?
このように生活に密着する大きな視点の事柄から、簡単には見過ごしてしまうような身の回りの小さな現象にまで、寅彦氏の視点は鋭い。
お茶の湯気から、モンスーンの偏西風に発想が展開する。昆虫や植物など、自然観察から様々なことを考える好奇心も、もともと科学者の資質を備えていたようにも思える。
みのむし。自身も子どものころはよく見かけたが、最近では見かけなくなった。この随筆執筆の昭和一桁のころは、庭先には必ずみのむしがぶら下がっていたのだろう。
みのむしの漢字表記に「木螺(ぼくら)」というのがあって、木の田螺(タニシ)」と発想を飛ばす。そして漱石に鍛えられた俳句に「蓑虫鳴く」という季語があることを思い出し、さらにはその語源を「歳時記」で調べ清少納言にまで行きつく。
あるいは蓑虫をたくさん取って袋を割いてみたり、袋を観察して穴があることを発見し、天敵の蜘蛛が穴をあけて蓑虫の体液を吸い取るとことを観察してみたり、その蜘蛛もまた点滴の蜂の幼虫に食われたりと食物連鎖や自然の摂理の成り立ちへとぐるぐる発想が飛んでいくのである。
「自然は無尽蔵というが、これは物がたくさんあるというだけの意味ではない。一本の草、一塊の石でも細かに観察し研究すれば、数限りない知識の泉になる」という。自然に学ぼうという意識が無尽蔵のように思える。
また、自然に対して謙虚でもある。寅彦曰く。
「人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前におろかなる赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって初めて科学者にはなれるのである。」
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高校進学の際に理系文系を選ばねばならんかったが、捉われることはなかったのだということが今更分かった。
学校から離れた今の方が、自由に好きなことを学べるのである。
心の眼明きでいたい。
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保坂和志さんの本に紹介されていて読んだ。物理学者寺田寅彦の随筆。夏目漱石との出会い。「吾輩は猫である」に登場する水島寒月君は寅彦をモデルとしているそうだ。
「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」(漱石の句)
身近なことから何故を考える。その中に優しさを感じる。「解かれた象」が印象的だった。
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身近な疑問に対して、科学的な疑問を持つ。今読んでも、なるほどと思わせるものがある。満員列車には周期が有り、その後の列車は空く。