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縄文時代の商人たち 日本列島と北東アジアを交易した人びと みんなのレビュー

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みんなのレビュー7件

みんなの評価4.5

評価内訳

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7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本

縄文社会は商業社会

2022/07/14 10:48

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:nobita - この投稿者のレビュー一覧を見る

縄文時代にも商人がいたという面白い事実を取りあげている。貨幣もなく、物々交換だと思うが、何と替えていたのだろう。翡翠、黒曜石、琥珀の美を感じていたのは驚き。

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紙の本

縄文人の事情

2002/06/16 18:31

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:のらねこ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 三内円山遺跡の発見に代表されるように、今、「古代」の実像が、従来の定説から大きくゆらぎはじめている。
 それも、昨日今日にはじまった、一過性の「ゆらぎ」などではなく、過去何十年という長い期間をかけて発掘・調査されてきた様々なデータが解析されていくにしたがって、従来の「古代像」の虚構が、根本的な部分から否定されようとしているのだ。
 本書でも、従来では「集落単位での自給自足」といわれた縄文時代人の生活を、かなり高度に分業化された社会であり、保存のきく食物や翡翠や黒曜石などの鉱物が、環日本海域全般に渡り、かなり広い範囲で取り引きされていたことを指摘している。
「縄文時代の商人たち」という書名は、「その時代にも、物資の流通を専門に手掛けていた一群の人々がいたのではないか? いなければおかしい」という「前提」を書名にしたものである。
 ただ、いくら昔にくらべて解明された事実が格段に増えたとはいえ、なにぶん、大昔のことゆえ、「はっきり解っていること」より、「はっきりしないこと」のほうが、まだまだずっと多いのも、事実なのである。
 なにせ、「縄文時代」と一口にいっても、おおよそ五万年もの時間的な振幅がある。ひとくくりには、説明できるもんではありませんよ。

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紙の本

縄文時代にも商人がいた!三内丸山遺跡をめぐる刺激的な対談

2000/10/04 21:15

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:岡谷公二 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 青森市に所在する縄文前期から中期(約5500年〜4000年前)にかけての三内丸山遺跡の発見と発掘によって、縄文文化についてのイメージが大きく変った。町と言ってもいい大集落、直径一米の栗の巨木を使った大型建築物、栽培された栗林、海──おそらくは港──に向って四二〇米以上も続く幅一二米の道路──、私たちはこれまで縄文時代に関し、こうしたものを想像さえすることができなかった。定住生活を営むことのない、採集に明けくれる原始的な人々というのがごく一般的な縄文人観だったからである。しかし縄文人が、私たちの予想をはるかに<超えた>豊かな文化の持主であった事実が、現在、日々に明かになりつつある。

 本書は、人類学者で、三内丸山の発掘にもかかわった、国立民族学博物館教授の小山修三氏と、三内丸山発掘の中心人物の一人である岡田康博氏の、三内丸山を中心とした対談である。

 テーマは、題名からもわかるように、縄文時代の交易だ。この時代、物が大量に、大きく動いていたことだけは、もはや疑問の余地がない。たとえばヒスイと黒曜石。現在、科学的分析によって、発掘されたヒスイと黒曜石の原産地をつきとめることができる。縄文時代に関し、ヒスイはほぼ100パーセント糸魚川(いといがわ)(新潟県)産のものだという。黒曜石も神津島や信州の和田峠など、産地が限られている。そして神津島の黒曜石が、縄文時代早期に青森県まで北上していて、小川原湖周辺の遺跡から出ているのである。そしてこうした例は決して偶然ではない。それでは一体誰が運んだのか! 商人の存在を考えなければ、この問題は解けない。しかし縄文時代の商人をと、これまで誰一人考えようとはしなかった。

 三内丸山では、本場の北陸地方では出ない大珠のヒスイが多数発掘される由である。これについて岡田氏は、原石が運ばれてきて加工された可能性もあるとし、「ここで加工されたとすると、加工技術も含めたひとつの生産システムの存在を考えないとだめですね」とまで言う。また工房跡は発見されていないが、発見は時間の問題かもしれない。

 小山氏は、この時代の交易品として、ヒスイや黒曜石だけでなく、板状上偶、コハク、アスファルト、石斧、鏃、石器、淡器、毛布、酒、栗、魚、獣肉、昆布、ヒエ、アワなどの食料を想定している。酒といえば、三内丸山ではおびただしいニワトコの種が出土し、栽培種だとされている。小山氏は、その実を使って多量のニワトコ酒が作られたのはまちがいないと言う。

 縄文時代の商人たちは、なにも日本列島の中だけを動いていたわけではなかった。彼らは丸木舟を使って海を越え、中国大陸や南太平洋まで進出した形跡があるらしい。まだ仮説の域を出ていないけれども、彼らの海外貿易もいずれは実証されるであろう。

 縄文時代の盛期、列島の文化の中心は、まぎれもなく東北にあった。人口も西より東の方がはるかに多かった。しかし気候の寒冷化と、稲作をたずさえた多数の彌生人たちの、朝鮮半島からの流入によって、やがて西に中心をうばわれてしまう。彌生文化が浸透するにつれて、東北は相対的に貧しくなった。小山氏は、無理に米を作らず、従来のヒエに頼っていれば東北に飢饉は起きなかったろうという司馬遼太郎氏の言葉を引いたあと、「極論すれば、東北には西の文化は何も必要なかった。貧困イメージは、西の文化を取り入れたところから始まったと言えます」という示唆的な言葉で対談を結ぶ。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2000.10.05)

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2009/08/30 01:41

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2011/03/28 19:15

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2015/07/22 20:42

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2021/05/16 00:25

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