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全体的にカント哲学を感性と悟性の二元論から止揚する観点で読み解く試み。
「建築現場」の章を読み通すのが困難だった。その後は著者も言うとおり、読みやすかったが。
ハイデガーやヘーゲルの内在的な矛盾をつくのとは次元が違い、ニーチェはカント哲学の限界に決定打を打ったんだな。超越論的構想力の改編を吟味する中で、カントは劣化しているとの指摘に、カント哲学を学ぶ意欲が萎えた。
全体的に良書で本質的な記述だと思うが、最後のカントの姿勢を批判する部分が、哲学を学問として専攻しない人間にとっては、繰り返すが萎えるものがあったので、入門書ととしてはどうかという意味で☆3つ。
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(2016.10.14読了)(2005.08.21購入)(2004.03.30・第九刷)
Eテレの「100分de名著」で、カントの『永遠平和のために』が取り上げられました。『永遠平和のために』は、既に読んでいるので、この機会に以前から気になっている「プロレゴメナ」や『純粋理性批判』を読みたいところですが、とても歯が立ちそうもないので、とりあえず入門書を読んでみることにしました。
カント以前の哲学は、カントに流れ込み、カント以後の哲学は、カントから流れ出しているのだそうです。哲学の歴史を考える上で、カントを避けて通れないということのようです。
カントの哲学と同様、ヘーゲルの「精神現象学」も気になっている本なのですが、『精神現象学』が、カントの『純粋理性批判』の流れをくんでいるそうなので、ヘーゲルを読むうえで、参考になりそうです。また、三木清の本も積読しているのですが、三木清の主著の「構想力の論理」も、『純粋理性批判』の流れをくんでいるということですので、ヘーゲルや三木清を読むうえでもこの本は、役立ちそうです。
【目次】
プロローグ 1+1はあぜ2なのか
カントのプロフィール
序章 すべての哲学が失敗した理由
1章 『純粋理性批判』の建築現場
2章 『純粋理性批判』見学ツアー
3章 『純粋理性批判』の動揺
A カントの不安
B 理性の深淵
エピローグ カントの広さと深さ
索引
●『純粋理性批判』のテーマ(10頁)
『純粋理性批判』が扱っているテーマは。実に膨大なものがある。空間/時間とは何か。自由と必然の関係はどうなっているのか。形而上学はいかにして可能か。神の存在証明は可能なのか、などなど。
●本書のテーマ(10頁)
客観的な認識とは何か
カントの用語でいえば、<超越論的真理>とは何か
●正しい認識(11頁)
常識では、正しい認識とは、事物の姿を主観を交えずありのままに受けとること、と思われている。しかし、カントが『純粋理性批判』で明らかにしたのは、<あるがままの事物>をとらえられると考えるのはおろかな妄想にすぎず、認識は徹頭徹尾、主観的な条件で成立しており、そのことによってのみ、認識は客観性を有する、という主張なのである。
●経験論の発想(38頁)
私たちの認識や知識は、すべて経験、つまり、感覚を通して外部からやってくるものであり、心は最初は何も書かれていない白紙のようなものである、というのが、経験論の基本的な発想である。
●合理論的発想(39頁)
ライプニッツは、心がもともと「多くの概念や教説の諸原理」を経験に先立って有していると考えるわけである。経験に先立って、心にはあらかじめ何らかの概念や原理が備わっているからこそ、認識が成立する、と考える発想を、ここでは合理論的発想と呼ぶことにしよう。
●知性と理性(62頁)
インテレクトゥス(知性)は、基本的に、媒介を経ないで全体を一瞬で把握する能力、他方、ラチオ(理性)は、これがこうで、それがそうだから、すると、あれがああなって、と理詰めで次々推論していく能力である。
●カントの形而上学(94頁)
人間認識の根源的構造を問うこと、つまり、具体的で個別的な認識が可能となるための主観の基本的構造はいったいなんなのか、という問題が、「形而上学」ということで考えられてきている
●時間・空間(104頁)
時間・空間は、ものそのものが成立するための条件ではなくて、ものについての人間の認識が成立するための条件である。つまり、時間・空間はものの側にあるのではなくて、認識する側にある存在である、ということなのである。
●真理成立の根拠(177頁)
『純粋理性批判』の決定的な意義は、真理成立の根拠を、神から人間に奪い取ったこと
●真理(188頁)
『純粋理性批判』によれば、真理は最初から誤謬や仮象と峻別されてア・プリオリに与えられているようなものではなく、実権や経験の検証を重ねる運動のうちから得られてくるものである。
☆関連図書(既読)
「永遠平和の為に」カント著・高坂正顕訳、岩波文庫、1949.02.20
「啓蒙とは何か」カント著・篠田英雄訳、岩波文庫、1950.10.30
「道徳形而上学原論」カント著・篠田英雄訳、岩波文庫、1960.06.25
「カント『永遠平和のために』」萱野稔人著、NHK出版、2016.08.01
(2016年12月26日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
すべての哲学はカントに流れ入り、カントから再び流れ出す。西洋哲学二千年の伝統を破壊した衝撃の書『純粋理性批判』。「私」「世界」「神」の考察から、「時間」「空間」の構造、形而上学の運命まで、あらゆる思考の極限を究めた哲学史上最大の金字塔を、やさしく、ヴィヴィッドに読みつくす。
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わかりやすい方なんだと思う。
・「純粋理性批判」の決定的な意義は真理成立の根拠を神から人間へと奪い取ったことと表現しうるだろう。
・素朴にありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなり、逆に世界は主観による構成物だと考えることで、初めて客観的認識が成立する、というパラドキシカルな主張こそ、「純粋理性批判」の根元的なテーマなのである。
・真理は、一方でその事態、その事象に特有のことを述べるから有意義で真理でありうるのに、あらゆるものに通用するような真理は、その特有さを切り捨てなければ成立しえない。あらゆるものの根元的真理、あらゆる認識に通用する真理など、実は自己矛盾を含むものであり、はっきりいえば、インチキである、とカントは主張しているのである。
・カントの問いも、人間の都合で存在しているカテゴリーがなぜ(それとは無関係に存在しているように思われる)世界を説明認識する場合に、きちんと役に立つのだろうか?というものである。そしてカントの答えはまさに世界(カントの場合は<現象>の成立そのものに、人間の主観的原理であるカテゴリーがそもそも関与しているから、というものである。世界が人間とまったく関係のない<物自体>のことだったらなら、確かにカテゴリーは世界にアプリオリに妥当するものではないだろう。しかし
カントによれば<現象>のことであり、この現象は時間・空間という直観とカテゴリーによってそもそも初めて成立するものなのである。
・時間・空間、そして因果関係などは、人間の存在に関わらず、世界そのものが成立するための条件だと考えられている。人間がいなくとも、時間・空間はあるし、因果関係も、世界そのものの側に属する法則である、と考えられている。
カントは否!と言う。そうではないのだ。それらは、人間が世界を認識するための<主観的>条件であって、我々の認識を離れてはそれらは無なのである。しかもそれだけではない。想定される知的存在者、例えば、天使や神も、彼らが認識するために、時間・空間や因果関係などを使用することはおそらくないだろう、というのがカントの考えである。
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「1+1はなぜ2なのか?」という著者の疑問の出発点は、超越論的分析論への興味関心に帰着しているようで、そこに記述がフォーカスされている印象がある。よって、著者の好みが色濃く反映されており『純粋理性批判』の入門書としては偏りがあるように思える。が、1章の「建築現場」はカントの「沈黙の10年」に着目し、結論ありきで書かれているという批判がある『純粋理性批判』へ至る思考プロセスを解明しようという研究がなされており、注目に値する。
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難解で知られる「純粋理性批判」だが、これを読まずに、哲学は語ることができない、というようなものらしい。というわけで、カントの入門書とかも読んだりしたけど、結局、よくわからなくて、とてもよめそうにもないな〜と思っていた。
最近、「世界哲学史6」でカントに関する解説を読んで、やっと何を問題にしているのかがうっすらわかる気がして、この入門書を読んでみた。
読み進めていくうちにだんだん難しくなる感じはあるものの、これはかなりわかりやすいのではないだろうか?
細かいロジックはわからなくても、カントがなにを問題にしていたのかは、とてもよくわかった。そして、苦節10年、悩みに悩んで、問題への答えを見つけたと思いきや、まだまだ、悩むは続いていく。
そして、ヘーゲルやハイデカーのカント批判の論点。なるほど〜。
真理とはなにか?それを知ることは可能なのか?という哲学上の最難問にチャレンジしていたのだな〜。それは、いわゆる形而上学、哲学の中心的な課題なんだな。
が、実は、そういう問いに、私は、あんまり関心がないんだな〜と再確認。わたしは、より人間の行動とか政治に関係する哲学のほうに興味があるんだな。
カントだったら、純粋理性批判は、この本をもって、読んだことにして、実践理性批判と判断力批判を読みたいかな?
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もう20年前の出版だが、既に30刷近くの再版がなされている。相当に売れていると言っていい。理由はもちろんわかりやすさにあるのだが、前書きにもあるように、それは本書が網羅的であることを諦め、「認識の客観性はいかに担保されるか」にテーマを絞って「純粋理性批判」を紹介しているからだろう。ほんの200ページほどの容量で噛んで含めるように「批判」のエッセンスが説かれており、僕のような素人には本当にありがたい。一方で実際に「批判」を読んだときにこの本で扱われていない部分で躓いたらどうしよう、とも不安になる。なんせこの本を読む前に手にとってあえなく挫折した「カントの読み方(中島義道・著、ちくま新書)」は本書とアプローチが全く異なっておりひたすら難解だった。ということは当然ではあるが「批判」の読み方も千差万別であり、この本通りの読み方が僕にできるかどうかも全く保証されていない、ということなのだろう。まあ読む前にごちゃごちゃいう前にとにかく読んでみるしかないのだが(以上、「批判」を読む前のメモより。実際に読み始めるとこの本を再び参照するということはなかった)。
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カント2冊目。漠然とした理解が、少しは開けたかとの実感があったりなかったり。つまるところ、人間の認識についての究極的な考察なのでは、という理解まで至りました。
本書は、カントの生涯やその他批判書をきっぱり除外することで、「純粋理性批判」の解説に焦点を当てており、かつ語り口が軽妙で少し内容で詰まったとしても何度も繰り返し説明してくれているので、何とかこんとか前に進むことができます。
どこか印象深かったところに付箋があってありましたので、未来の自分が感じ取れるかの宿題として、以下に抜き出しておきます。
P41:知識は感覚や感性を通して外部から得られるものだと考え、経験を重視する立場は経験論。逆に、もともと心に備わっている知性による認識こそ重要であり、感覚や感性による認識は程度に低いものだとする立場が、号理論。
→いわゆる経験論、合理論の立場を言語化し形式だって説明してくれているので、ピックアップしてるな。
P122:認識の材料(質料Materie)などは確かに、完成の受容性によって、世界から受け取る。形や脈略を与える(形相Form)のは、主管の側の自発性の能力なのである。つまり、ここで「感性の受容性」と「悟性の自発性」がくっきりとした二元性をなしていて、それとともに経験のに側面として、・・
→でました、経験を通しての感性と悟性の二元論。こちらが、現象を認識する、「認識に従って表像がなるのだ」的なカントの主張の核だろう。
P127:超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)。「・・・と私は考える」が伴わざるをえない最終的・根源的な自己意識のこと。悟性の最高原則であるこの統覚が感性の側に属するとされてきた「直観」が、影響を与えこの条件に従わせる。きちんと客観として表れるためには、この統覚に預けなければならない。
→難しすぎる!つまりは、どうゆうことなのでしょうか・・・まだ違う文献でおさらいだ。
あとはちょい触れますが、構想力というワードが実は第1版にはあり、2版から除外されているのだと。カントが二元論から悟性有利の一元論へと揺れ動くさまが指摘されていますが、なるほどカントも徹頭徹尾首尾一貫とはいかず、人間臭いところがあるのだなと少し親近感。
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カント思想の入門書として、純粋理性批判においてポイントとなる主張が噛み砕いて解説されている本。噛み砕いて、と言っても完全に理解することは難しかったが、カントの主張の変遷や、他哲学者からの批判も含めて知ることでカントがどういった視点で人間の物事に対する認識を捉えていたか多少なりともイメージがついた。
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読みたいと思っている本にカントの哲学の内容が含まれていて理解しづらかったため、勉強のために読んだ本。
でもこの本もやっぱり言ってることは難しくて、何度も繰り返し読まないと理解出来なかった(多分全部は理解出来てない)。