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  3. アルケーさんのレビュー一覧

アルケーさんのレビュー一覧

投稿者:アルケー

51 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本人間の絆 上

2007/09/05 19:35

絵画の目

15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

主人公のフィリップがパリで画学生の生活を送っているときのこと、初めて作品を展覧会に出品し落選して自分は画家としての資格があるかと悩んでいるときの話である。知人のクラトンに自分の絵を見てほしいと言うと、相手はこんなことを言う。人はよく批評を求めるが、それは誉めてもらいたいからだ。批評が何の役にたつ。画を描くただひとつの理由は、描かずにいられないからだ。肉体の機能と同じくそれはひとつの機能なのだ。画を描くのは自分のためだ、そうでないなら自殺するよりほかにない。入選したとしても、人は通りすがりにほんのちょっとながめるだけだ。批評なんて、画かきとはなんの関係もない。客観性とはなんのかかわりもない。画かきは独特の感動を受けて、やむをえぬ衝動でそれを表現する。自分では理由もわからぬうちに、線と色で気持ちを表現する。
 ここまではだれでも言いそうなことである。もうひとつ批評が無意味なわけを教えようと先へ進める。偉大な画家は、自分が見ているとおりに、自然を世間の人に見させる力をもっている。次の世代になると、べつの画家がまたべつの方法で世界を見る。そのとき大衆は当の画家によってではなく、その画家の先行者によって彼を判断する。自然というものは、まさに画家が見ようとするとおりのものなのだということを、彼らは一度も考えたことがなかった。ぼくたちが自分の見方を世間におしつけると、世間はぼくらを偉大な画家と呼ぶ。押しつけないと、無視してしまう。しかし、ぼくたちは、変わらない。偉大さや卑小さはなんの意味も付与しない。出来上がった作品に起こることは、なんの重要さもない。ぼくたちは、画を描いているあいだに、すべてを獲得してしまっている。
 ここにはモームの芸術を見る確かな洞察がうかがえる。

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紙の本

政治・歴史に入れ込むカント

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本はカントの政治・歴史哲学を訳している。ここに訳されているものは他の文庫本で手軽に手に入るものばかりである。
 ではどこが違うのか。まず、五本の訳があり、年譜があり、長い解説があり、しかも新鮮な訳で、この値段である。文庫本が単行本の値に近づくなかにあって、やっと文庫にふさわしい値になった。
 この本には『純粋理性批判』(1781)以後の五本が収められている。その点から言えばカント哲学が一応完成をみたあとの作品ということで論理・内容ともにしっかりしたものである。
啓蒙とは何か—「啓蒙とは何か」という問いに答える
世界市民という視点からみた普遍史の理念
人類の歴史の憶測的な起源
万物の終焉
永遠平和のために—哲学的な草案
 この五本の訳はカントに少しでも接したことのある人なら、他にいくつも翻訳が存在してもすぐに購入するであろう。私も即座に購入した。
 初心者にとってカントはむずかしく、またその理解困難ゆえに、魅力を感じるものが多いように見受けられる。だがそう考えている人は中途半端な理解に終わる場合が多いか、生涯、哲学に不満を覚えて終わってしまう可能性がある。というのは哲学を学ぶにはそれなりの職人の技術を必要とするからである。
 主著に取り組むのもよいが、その場合は何か目的をもつ場合にのみ、このアプローチはうまくいくであろう。そうではなく身近な問題をカントがどのように考えていたかを知りたい人もいると思う。そういう人たちのために、ここにはカントが日ごろ考えている小さな問題を私たちに哲学的に、決して主著に劣ることなく見事な論理で描きだしている。それが大哲学者が与えてくる魅力である。その辺のところを訳者は心得て見事な訳に仕上げている。しかも現代的な問題に関連させながら、小気味のよい解説をそえて。
 しかしどんな書物にも欠陥があるものである。それは参考文献の邦訳の指示が一般の人には手に入らないものが多いのが気になる。そのときは図書館を利用していただくのがよいと思う。
 それはともかく、私自身が再読の機会を与えられたことにこの書物の最大の贈り物がある。

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紙の本

紙の本倫理学 1

2007/02/19 22:21

和辻の実力

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 和辻倫理学の総決算である。この本の原型をなす『人間の学としての倫理学』は「人と人との間柄」の倫理学として、あまりにも有名である。この本が先行学者の祖述に専念しているのにたいして、『倫理学』上・中・下、は前者において咀嚼したものを自らの倫理学の中に取り込んで、それを体系的に仕上げたものある。だが、今日はこれを読むものは少ない。それは戦後の思想状況に原因があった。人々は西田や田辺を除いて、海外の思想動向を追うことに専念した。とくに和辻は、戦後まもなく、「尊皇思想とその伝統」(43年)の発表とからんで、反共精神が強まり、天皇制支持の論陣を張った、がためと思われる。そのためにもとになった『人間の学としての倫理学』は海外の動向の祖述という外的理由のために今日まで、和辻の代表作として生き残ったが、体系化された『倫理学』は大部のためもあって、まったく省みられないものになってしまった。最近の日本哲学の復興はようやくこの著述にまで及んだというのが実情のようである。ある意味では日本回帰とそれに迎合した出版社の思惑が絡んでいるとも思われる。このことは思想といえども歴史的相対的であることを如術に示している。
 さて内容であるが、「人と人との間柄の倫理学」というのは、大雑把に言って、近代が個人から社会へ向かったのたいして、それへの批判として、古代の人倫、全体あっての個人という論理をアリストテレスやヘーゲルを意識しつつ再提出した点にあり、近代にたいする批判でもある。したがって、戦前の全体思想ともかさなりあう要素を含んでいた。
 つぎに構成であるが、日本人としては稀にみる構想のもとに書かれている。序論と本論第一章で和辻の主張を思う存分繰り広げている。第二章は空間性と時間性を扱い、当時の代表的な思想家をとりあげて検討を加える。ここまでが、第一分冊にあたる。
 そのあと、第三章人倫的組織とあり、ヘーゲルの「法哲学」の人倫の部に相当する構成に近い。家族、共同体、経済組織(市民社会)そして国家という、もっか人気の分野を扱っている。第四章は風土と世界史を扱う。この部分は第二章の原理にたいする具体例である。それは第三章の人倫の展開が第一章の原理論に対応しているのと同じ構成。
 和辻は西田のむこうを張って、自らの思想を西田とは違う形で、簡単にいえば、体系という形をもって構想した雄大な倫理学であるというのが、私の印象である。したがって、この倫理学のなかには、それまで蓄積してきた膨大な知識が織り込まれている。このことは和辻にしてはじめてできたことであって、その後、これに相当するものは現われていない。
 だが、この広大な構想がかえってマイナスに働き、人々はこじんまりとした書物へと帰っていった。和辻の実力と明晰さとは失われてしまった。あるいは、和辻の実力は学会の動向とは別の方向を向いていたともいえる。その意味では、時代の潮流を先導し、また、それに敏感に対応した和辻の悲劇でもあった、ともいえる。
 最近の、吉沢伝三郎『和辻哲郎の面目』はこの倫理学を解説している。苅部直『光の領国 和辻哲郎』は伝記としては秀逸である。

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紙の本

実用仏語に最適--なかなか見あたらない参考書

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 これはとても丁寧につくられた単語集だ。2級と準1級にわかれ、それぞれ4ページで1課、それぞれ20課からなる。単語を学習させるためのほどよい長さのオリジナルの長文が最初に掲げられてある。すべてはこの長文から始まる。この長文には和訳はなく、代わりに、日本語と学習すべき仏語をほどよく組み合わせて長文を再構成するという形で内容を読みとらせる。この長文はCDに録音されている(2級では2回)。単語の録音はない。
 長文の内容は実用的な文章で、小説や物語のたぐいはない。あがっている単語は全部で529語で、それぞれの単語に派生語、熟語など関連単語を掲載(こちらの単語のほうが多い)。なお、同じ意味の単語あるいは関連語句をまとめたものがいたるところに見いだされる。「文法・語法の急所」があり、それらの確認に役立つ。
 数課すすむと、それまでの復習の課があり、学んだ単語からなる長文があり、それに問題がつき、2級・準1級とも8題の長文問題が付加されてある。
 巻末に実際に過去に出題されたもので長文に載せられなかったものがまとめて掲載されている。
 以上のように、大変念入りな手の込んだ作りになっている。そこでこの単語集はいろいろな形で利用が可能だ。他に類例のない単語集ではないかと思う。

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紙の本

紙の本つくられた桂離宮神話

2006/11/12 07:02

タウトの発言じたいが聞こえてこなかった桂離宮の「発見」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 井上は、稀有な批評力をもつと同時に、何よりも読者を楽しませることをこころえている。井上の書物は深刻ではない、批評の想像力のなかに余裕と笑いがある。今、もっとも懐疑精神をもつ批評家のひとりではないだろうか。
 桂離宮という一建築物を中心に、タウト、モダニスト、建築史家、知識人、日本文化論、一般人、啓蒙と排外意識、離宮単行本と名所案内本、特権と制限、等々(これだけの概念装置をとりあげることはなかなかできない)、を配置しながら、桂離宮の人気度・評判(ポピュラリティ)と価値認識との相互連関による離宮神話の成立——井上はこれを「権力」と表現する——を分析したもので、作品の人気と作品そのものの価値との一致あるいは乖離をたくみに、著者の考証精神と批評力とのもって示した貴重な一冊。したがって、外国人・タウトの「発見」や知識人の「日本文化論」はどんでん返しをくらう。私たちは、この書物から、芸術と社会現象が織りなす圧力というものについて、さまざまな視点や知恵を学ぶことができるように思う。

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紙の本

紙の本夢と魅惑の全体主義

2006/09/28 22:51

バラックにたくす「日本ファシズム」

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私は一度、井上章一の書評をして見たかった。
 「バチカン市国をこしらえたのは、イタリアのファシストである、と」いう言葉をもって井上はこの本をはじめる。
 まず、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、そして日本の戦時体制を取り上げ、これらはファシズムとして一括して取り扱われるが、建築を中心にすえた都市計画という点から見た場合には、そのように一括して語られるであろうかという視点に立って全体主義を考察していく。
 日本の戦時体制はファシズムやナチズムと異なって、革命をへていない。新しい権力は生まれていない。ヨーロッパのファッショ政権はあかるい未来を提示し、大衆を動員しようとした。
 ムッソリーニもヒトラーも、ともに権力の簒奪者であり、支配の正当性を保持していないので、それをおぎなうためににも、彼らは劇場型政治を志向した。その結果が彼らの主都の都市改造計画となって現われた。
 古代ローマのコロッセオとローマの中心に位置するベネチア宮殿(ムッソリーニの政務館であると共に迎賓館)に接する東側のベネチア広場を、はばのひろいインペリアーリ通りで視覚的にむすびつけた。「あからさまに政治的な舞台空間をつくりあげたのである。」「広場に集まった群衆は、バルコニーのムッソリーニを見あげ」、「反対側をふりむけば、コロッセオが目にはいる。」
 新時代のベルリンを象徴するポツダムの再開発地区の北方一キロのところに、連邦議会議事堂はある。ミース(ナショナル・ギャロリー)やシャロウン(国立図書館やベルリン・フィルハーモニー、俗にカラヤンのサーカス小屋)の建築作品も、この南北線からは、それほどはずれていない。そして、この南北線は、かつてヒトラーが構想した都市像と、かさなりあう。すでに東西にはウンター・デン・リンデンがとおっていた。
 だが日本の戦時体制にはそのようなユートピア色はない。戦争のもたらすきびしい現実だけが強調される。1930年代末の体制は、「戦時体制として位置付けるべきである。」だから、「日本ファシズム」などという表現もひかえたほうがよい、と「人々は」いう。
 イタリアでは、モダンデザインの新建築が、体制を宣伝する。ドイツでは、体制の新しさ、偉大さは、建築にたくして、表現されていた。
 「日本ファシズム」は、そのような都市建築を、ほとんど生んでいない。生んだのは木造のバラック群であり、未完成のままにほうりだされた鉄筋コンクリートであった。それは「戦時リアリズムの建築であった」。その意味でも「日本ファシズム」は、戦時体制であった。これは近年の政治学などと同じ結論を建築史も共有している。
 しかし、戦時リアリズムが都市をかえる。「『見栄や、体裁』にはかまうな。そう建築じたいをして表現せしめるいきおいに、私はファッショを感じる」と「日本ファシズム」に井上はこだわる。
 建築は新しさや偉大さばかりでなく、「見てくれ」を否定する思想をも表現する。そんな禁欲精神に貫徹された社会も、「じゅうぶんユートピア的だと言えまいか」と井上はいう。
 著者のこだわり、断定的に規定できない「日本ファシズム」に対する明確な評価が見事に表現されている。
 ドイツは、1936、7年から戦時体制へ移行しているにもかかわらず、同時期にベルリンの美装事業はすすめられる。
 一方、日本では1937年に、鉄鋼工作物築造許可規則が公布され、主都・東京の中枢ではバラックがぞくぞくと建設されだした。
 見事な対比としか言いようがない。だが、イタリアが後景に移行してしまった。

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紙の本

紙の本イメージを読む 美術史入門

2006/09/17 19:10

絵画の中に思想を読む啓蒙書

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「イメージを読む—美術史入門」は著者の最初の啓蒙書、「絵画を読む—イコノロジー入門」はそのすぐ後に書かれた啓蒙書で、先を初級用、後を中級用と言っていますが、その二つを比較してみると、前者がより思想的であり、後者は個々の作品の解釈に重点がおかれているようです。
 この書物は文庫化にあたって元の書物をいくらか改訂しています。改訂は読者にたとえこれが啓蒙書でもあって何らかの指示があるとうれしい。新たな解釈が出るたびにときには改訂をせまられるという事情が「歴史としての」美術史にはあるからです。日本の書物は改訂を拒否するのが慣例(当時の著者の立場を思い出にしたいという学問的脆弱性(甘え)がその理由)となっているから、逆に改訂したことを書いて欲しかった。
 レオナルドとミケランジェロとの対決の場面。レオナルドはミラノに「晩餐」書いたあと、ミラノのフランス占領で、新たな手法(彼を特色づける有名な輪郭線のない明暗によるグラデーション手法—キアロスクーロ手法)をたずさえてフィレンツェに戻ってくる。大英博物館にある「聖アンナと聖母子」というカルトン、ただの紙に書かれたデッサン。大反響をよび、ミケランジェロもラッファエッロもこの絵を見にきています。これは彼の「絵画論」(ダ・ヴィンチの手記)に示されている最初の例示です。物体を知覚するのは光と網膜の現象によるというリアリズムは、バロックから印象派まで絵画の主流となります。
 それに対してミケランジェロは「岩窟の聖母」に類似の聖母子、「ドーニ家の聖家族」を描く。この絵は色彩もあざやか、輪郭もくっきり、鮮明で影がない。マリアの着物は慈悲の赤、ヨセフは信仰の青。彼はこの絵で視覚の現象を描くものではなく、思想の表現の手段と考えて、レオナルドに対抗する。
 マリアは裸足で大地に座り、大地の娘であり、イエスはマリアよりも高所から与えられたことを暗示。ドミニコ会の考えで、マリアを、イエスをみごもったときだけ純潔だとする。
 絵画は芸術家の理論の実践の場であり、思想の表現の場でもあり、闘争の場でもあった。思想をことばではなく、作品で示す思想家のことを芸術家だと若桑はいう。
 ここには彼女の美術史家としての立場がよく示されています。

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紙の本

紙の本哲学初歩

2007/04/21 01:40

入門書で自分を表現する哲学者

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 目次をかかげる。新書にも索引を付すことにこだわった田中の書物にせめて目次だけはほしい。
哲学とは何か——その根源的な意味
哲学は生活の上に何の意味をもっているか——生活と哲学との結びつき
哲学は学ぶことができるか——学問的知識と哲学的智
哲学の究極において求められているもの——プロトレプティコスを中心に
 この書は田中のなかでも最も読みつがれてきたものの一つである。50年に出版されて、77年に改訂された。哲学書で、しかも入門書で、改訂版をだすことは最近では稀なことになった。(それほど著者たちは自著に愛着をもたなくなったのであろうか)そして今回、07年にこの文庫に入った。知識を求める時代にあって、このような知識とは無縁な書物が文庫化されるのはよろこばしい半面、不安もともなう。
 これは入門書となっているが、普通の入門書と違って、不案内な者にたいする案内書ではない。マニュアル本でもなければ解説書でもない。そのことは目次に見られるように、田中自身が哲学に付随する根本問題について、素朴な形で問いかけ、それに田中自身がその問いに応答する形で書かれている。だから、これは読者に哲学についての解答を提供するのではなく、哲学に興味をいだいた者に、哲学とはどのような営みであるのか、哲学は生活にどのようにかかわるのか、などを著者の専門領域であるギリシャ哲学から説き起こしていった——近代ではカントに触れることが多い——田中自身の哲学でもある。
 だから、この本から哲学の知識をえることは少ないと思う。哲学史的知識以前の問題を扱っている。かわりにここには哲学に関心を抱く者に、つねにまとわりついている問題が提起されている。「どんな初歩的な問題を取り上げてみても、それはいつも哲学の根本問題につながっているのであって、早急にその答えを見つけることはできない」。「何か公式的な結論を予定しておいて、そこへ読者を言葉たくみに案内するような種類の」ものではなく、「著者が読者と共に(中略)哲学の問題のつながりを辿ってみようとする、哲学初歩なのである」という。
 上の引用文からもわかるように、田中は文章の明晰性にこだわった。にもかかわらず、問題が問題だけにそれにつき動かされて、他の書物へと向かわせるにたる十分な力をもっている。それはギリシャ哲学だけの問題だけに終わっていない。

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紙の本

紙の本カント入門

2001/08/12 01:21

哲学の正統

7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちくま新書の「哲学入門シリーズ」のひとつ。このシリーズは哲学者の経歴や背景といったものよりも哲学者の思想そのもののに焦点をあてて解説するところに特徴がある。いわゆる内在的研究といわれるもの。
 これまで人気のある著者によって多くの人気のある哲学者の解説がなされてきたが、面白いことにそれまで知られていなかった学者による解説に読みごたえのものがあるように思われる。最近では『アリストテレス入門』がそれだ(不案内なフランス思想はのぞく)。
 最近カント復興がやってきているのであろうか。黒崎政男“カント『純粋理性批判』入門”(講談社)や文芸評論家柄谷行人『倫理21』(平凡社)などが目につく(文芸評論家は時代の潮流に敏感だから当然といえば当然。中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社)は日本思想の隆盛にいち早く反応したもの。文芸評論家やそれに近い人が哲学を紹介するのは日本のお家芸)。また、カント著作集の翻訳もだされるなどしている。もっともこの翻訳はあまり意味があるとは思えない。著作集が翻訳されているのは日本だけかもしれない。しかし一方では、宇都宮芳明『カントと神』(岩波)というすばらしい研究書も出ている。
 プラトンの後にはアリストテレス、ヘーゲルの後にはカントと分析的な思想へと向かっているのはそれなり理由があるのだろうか。それよりも弁証法に人々は飽食したのかもしれない。マルクス主義にはじまって、構造主義、ヴィトゲンシュタイン、システム論と実体概念よりも関係概念を志向する思想を中心に回転してきた現代の思想に食傷ぎみなのかもしれない。もしそうだとしたらそれはよい傾向だといえる。実体概念と関係概念は切り離すことができないからだ。
 著者のカントは具体的な例を取り上げて論じるので分かりやすい。システム論などは例が挙がっておらず、挙がっていても読者にほとんどイメージ(表象)しがたいもので、著者独自の解釈による概念の羅列につきあわなければならないので、解読不能なものが多い。そういった類のものと比べると、難しいと敬遠されてきたカントが何と読みやすいものになっていることか。しかもカントの思想にはその前後の思想がすべて含まれている。現在ではそんなことも忘れられている。これから哲学とじっくりとつきあっていきたい人に大切な一冊となることをねがう。

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紙の本

紙の本坂部恵集 1 生成するカント像

2007/03/06 22:43

時代から離れるカント

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『理性の不安』をもって既存の講壇哲学とは異なる方向に疾駆することになった。
 坂部は落穂拾いとレトリックを駆使しなくては、カント哲学が成立しなかった時代に生きた人である。「理性の不安」にしても、「仮面の解釈学」にしても、これらの著作がカントを専門とする学者から生まれたとは想像できない。つまりこの時期のカントはまさに他の分野に押されて自己を主張できない時代であった。
 いまでこそ、時代の潮流から或は文芸評論家の関心(両者とも政治制度にかかわっている)からカントがいくらか評価されるようになったが、学者が論を張るにはあまりにもカントのイメージはよくなかった。カントはすでに「死せる犬」にも等しかった。そう当時の人には見えた。時代の転換期であった。そういう時代にあってカントを学会以外に普及させるためには、カントと対決する必要はなかった。
 そこで坂部の選択した道は、カントと触れ合いながら、それから離れる道を歩むことでああった。そのひとつが「視霊者の夢」であり、もうひとつが『ヨーロッパ精神史入門—カロリングルネサンスの残光』であった。その間に、上の二冊が織り込まれている。こうして坂部は終始一貫してカントという正当哲学に身をおいて、つねに異端であること選択している。
 坂部の議論はこじんまりとしながらも、多岐にわたっている。ほとんどが専門の学者が避けるような問題ばかりである。ここには専門の論文と趣を異にした、思想というもののもつ意外な側面とそのヒントがいたるところに散在し、その文体は柔軟性をもっている。(第一巻は『理性の不安』から多くとられている)

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紙の本

経済学者のみた「法の哲学」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

経済学者が退官時に書き上げたとてもよいヘーゲルの解説書です。ヘーゲルにちょっとふれて何を読んだらよいか迷っているひとに向いているかなと思います。ヘーゲルの目次と著者の目次が一致していませんが、これは著者がたしかな目をもってみたあかしです。フランス革命を序にもってきて、そのあと抽象法、道徳と解説していきます。アダムスミスを援用して、なるほどこういうことか、と納得させるすばらしい解説をほどこしています。人倫はだれでも論じていますが、それ以前の段階をこれほど明快に解説してみせた書物はなかなかありません。ぜひ、抽象法と道徳は読んでみてください。哲学も棄てたものではないことがわかっていただける思います。哲学専門の学者にはこういうわかりやすい解説はかえって出来にくいものです。どうしても用いる用語が硬くなってしまうからです。

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紙の本

紙の本カント『純粋理性批判』入門

2004/07/02 21:01

入門書と辞典の合体

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 入門書としてはとてもよくできた本である。
 まず、章の題の付け方がよい。

失敗した理由、建築現場、見学ツアー、動揺である。これだけでも失敗した結果カントが何をどのように実際に行い、そして動揺を招いたかがわかってしまう。

 内容のまとめかたがとてもよい。
こんなことをいっている。

  物があるから、見える。(=実在論的発想)
  物をみるから、存在する。(=観念論的発想)

もうこれだけでも哲学上の重要な問題がさらりと述べられている。

 また、これは一見見過ごされることだが、見開きページのレイアウトがとてもよいのである。適当な間隔をあけ、引用文がすっきり引用されて読みやすく、重要な事柄は簡潔な表題がふされ、どこで何を読むべきかが明確にされている。
 そしてこれが肝心なことだが、とてもよい索引が添えられているのである。このような本は読み捨てにするものではない。だとしたら索引がどんない役立つことか。入門書に索引がついていなかったら、それは入門書ではない。一度よんだら、こんどは入門書は辞書に変わるのである。それに索引がついていなかったら、読者はどうしたらよいのであろうか。
 私はこの本をカント辞典としてつかっている。なんど読み返してもよくできているなあ、と感心する。著者のちょったした整理と工夫が読者に多大の利益をもたらすのである。

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紙の本

既存の学界に挑戦

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 進化論と言えばダーウィニズムである。これに反対するものは通俗的な読み物としては散見されるが、少し学問的な書物となるとなかなか見あたらない。これはダーウィンに学界が一色に塗られているからだ。これに挑戦したのがこの書物である。
 この状況を逆の方向から指摘しているのがダーウィニアンの長谷川真理子の言葉だ。生物学者の中でさえも、誤解と偏見が絶えない、と(ウィリアムズ『生物はなぜ進化するのか』草思社)。
 著者によると現在のネオダーウィニズムの基本図式は二つある。「進化とは、偶然起こる遺伝子の突然変異が、自然選択すなわち、適応的なプロセスで集団のなかに浸透していくことである」と「自然選択以外の進化は偶然である」だ。
 しかし、現在ネオダーウィニズムではうまく説明できない事例がある。1)進化の主因は自然選択だというダーウィン以来続くメインの仮定に対する反証。2)突然変異が偶然に起こるということに対する反証。3)そもそもの変異の原因は最初に遺伝子に起こる変化であるという理論に対する反証で、遺伝子に変化が起きなくても形が変わってしまうことがある。例をあげてみよう。
1) 自然選択説では、普通の擬態の説明はうまくいくが、そうではない化学擬態や免疫擬態が説明できない。
 また、四方哲也の(『眠れる遺伝子進化論』講談社)実験によると、遺伝子に変異を起こしてやると、かなりの大腸菌は確かに野生型の酵素活性はより低くなるが、5分の1ぐらいは酵素活性が上がってしまう。ということは、野生型が最適でないことになる。最適なものが生き残るというのはうそだということになる。
2) ケアンズ現象。アラビノースとラクトースしかない培地のなかに入れて飢餓状態にすると、確率的には2分の1以上の菌に、この変異が起こる。ほとんど生理的反応のように起こるのだ。この場合の突然変異は偶然ではなく、適応的に起こっている。
3) DNAに突然変異が起きなければ、進化ははじまらないというのがダーウィニズムだ。しかし、大腸菌はいくらやっても大腸菌だし、ショウジョウバエはいくらやってもショウジョウバエだ。DNAをどんなにいじってもショウジョウバエはショウジョウバエ以外のものにはならない。出てくるのはみんな奇形のショウジョウバエと変な大腸菌。
 また、目の進化の話では、DNAが変わらないのに形が変わってしまう。Pax6遺伝子の研究でわかったことは、DNAが変わらないのに形が変わる。
 このようにしてネオダーウィニズムの根本的な図式がひじょうに危うくなってきた。
 これに代わる試みが構造主義進化論だと著者はいう。それはDNA至上主義的な進化論とは違う進化論だ。

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紙の本

紙の本アリストテレス入門

2001/07/31 00:30

概念の勝利

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なぜアリストテレスは日本の風土に馴染まず市民権を獲得しにくいのであろうか。哲学にも性格があって肌に合う哲学とそうでない哲学があるが、それにしてもプラトンは戦前から個人訳全集も出ているにもかかわらず、アリストテレスは三木清などによってアリストテレス全集が企画され、戦後に引き継がれ刊行されてきたが、ついに完成を見るにいたらなかった。その後70年代になってやっと岩波から刊行を見た。現在、京大で翻訳の刊行が始まったがいつ完成するのか。それも翻訳されているものは二・三の既訳のあるものばかりである。
 そういう状況の中にあって、山本光雄著『アリストテレス』(岩波新書)以来、久しぶりに新書の形で研究成果が出版された。
 この書は新書でありながら包括的で、アリストテレスの基本概念にそって解説し、十分内容のある議論を展開している。具体・抽象、普遍・個別、可能・現実、目的、帰納といった用語がアリストテレスに始まることから説き起こし、論理学の誕生、形式的な三段論法から内容を問題にする問答法的推論へと進み、ついでカテゴリーによる分類を論じ、特に「関係」のカテゴリーに注意を喚起している。
 このようにして自然、実体、現実、生命、善へと論じていく。その語り口は冷静である。淡々と語りながらアリストテレスの中心問題を浮き彫りにしていく。哲学と言うと抽象的で何を語っているのか(その道の専門化でも)なかなか理解できないが、この書では哲学の理論形成過程が眼に見えるように語られていく。具体的で形象的である。古代の素朴さが表現されいるわけではない。具体的にものに即して語るというのはこういうことであろうかと感嘆させられる。その理由の最大の一つにアリストテレスの用語の的確さがある。的確な用語をもってすると事物がこうも分かりやすくなるものであろうか。ここには言葉、すなわち概念の勝利がある。
 この概念の勝利はプラトンには見られないものである。プラトンは優美に見えて不透明なところを多く残している。やはり概念によって事物が整理され、論理がものにそって展開するのはアリストテレスを待たねばならない。ここには対象と概念と思考との見事な融合が見られる。著者はこの融合をアリストテレスという哲学者を相手とすることによって自分のものにしている。
 アリストテレスのキーワードの一つは「可能と現実」であり、現実が先である。「知ることを求めることが人間の生まれつきの本性であって、これが出発点の可能性に相当することになる。そこから学習というプロセスを経て何らかの知識が完成されると、これが第一段階の現実性であり、知識をもってはいるが行使してはいない段階である。そしてこの知識をはたらかせることが現実活動(第二の現実性)の段階にあたる。」(p.128)これは次のようになる。可能性>実現のプロセス>第一の現実性(現実活動の可能性)>現実活動(第二現実性)。
 すると、生まれつきの可能性をもっていないものはその現実性を獲得できない。これは可能性と現実性の同一を表わしていないだろうか。現実は可能にあったものの実現である。このことは著者が否定する事後論理(結果の真理)を意味していないであろうか。これに対して、「だが彼は、実現される以前の条件に着目する視点をもっている」という。だが条件を加えることによって可能性の実質を高めようとしても、結局は加えた条件に応じた現実性しかえられないのではないか、という疑問はどこまでも残る。
 また、「まだ実現されていないけれども実現する可能性」はあくまでも可能性であって、現実性に至って見なければ、その可能性も意味がない。これが現実性が先という意味であった。だから可能性が事後論理とならないためには、可能性と現実性とは同一でないことが必要である。それはいかにして可能であろうか。

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自然選択という幻想

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 個体変異とはなんであろうか。

 「もともと一つしかなかった種から新しい種が生まれるためには、もとの種の個体の中から、なんらかの形で異なるものが現れ、それらどうしのみが交配するようにならねばなりません。このようなことが生じる基礎を提供しているのが、種内の個体変異の存在です。」(長谷川眞理子)

 個体とは一個である。個体変異とは二個以上、多数の個体が存在することである。

 個体変異とは、個体が一個独立にあるのではなくて、多数あることを意味する。そうでなければ、変異とは言わない。変異とは異なるものがあることである。

 個体変異を語ったとたんに「一」は「多」になっているのである。ということは、とりもなおさず、これは「すでに」分化ないし進化を意味する。これは個体の二ボーniveauで言われているので「個体分化」ないし「個体進化」と言うことができる。一方、種の変化は「種変異」がなければならない。これはいかにして可能か。ダーウィンは「個体変異」が種の変異に、つまり「種の進化」になると主張した。その過程は周知のこととなっている。

 種変異(種分化)があることは、個体と同様に、種が多数存在することを含意し、決して一種には還元されることはない。生物は一つの生物から進化してきたとか、種分化してきたとか語られているが、本当にそうであろうか。

 では、どのようにして個体変異が生じるのか。換言すれば、いかにして「一」から「多」が生じるのか、このことが理論的に説明できなければならない。ダーウィンにはこのことの説明がない。

 個体変異を説明できることによってはじめて種の分化ないし種の進化が言われることができる。これについては進化論者は誰も語ってはいない。ただ前提されているにすぎない。しかも、そのような前提に立っていることすら理解しない進化論者がなんと多いことか。このような前提に立つ進化論には、いつも必ず、批判が喚起される。それは理にかなった反論なのだ。


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