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紙の本
コンセントに続く不思議な話です!
2002/07/29 09:28
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:奈良より - この投稿者のレビュー一覧を見る
15年前に忽然と消えた主人公の2歳違いの妹真利江が弟の祐弥を通して
出現しているような描写はオカルトのようで怖い気がした。
また両親の真利江に対する対照的な行動。
父は真利江が消えて8年後家族を集めて「二度とこの家の中で真利江の話は
するな」と言った年の暮れにあっけなく死んだ。
これを自らの死で「真利江ほ封印した」と表現している。
一方、母は「自分を失わないため」にさらに宗教にのめり込んだ。
主人公は取材でSM女王の「ナオミ」と関わったことがきっかけで祐弥と
同じように「錯乱」しやがて「美紀」や「ナオミ」とのセックスを通じて
「アンテナ」、すなわち「目に見えないものを、別の目で見る」ための「触覚」
がとぎすまされていく。
そして祐弥によって「真利江はこの桜の木の下で死んだ」ことを知るのであるが
主人公が幻想の世界で真利江を殺したのは、真利江が主人公の「アンテナ」
を通じて自らが殺された時の状況を示して死んだことをわからせて供養して
もらいたかったのであろう。
激しい性描写と目に見えないオカルトの世界が融合した不思議な物語だと思う。
紙の本
人は苦しみから抜け出すために理性をかなぐり捨てなければならないときがある
2001/08/09 23:47
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:nory - この投稿者のレビュー一覧を見る
十五年前に忽然と妹が消えたという事件によって家族は崩壊してしまった。長男、祐一郎は自傷を繰り返し、事件後に生まれた弟は自分が消えた真利江だと思い込み、母は新興宗教にのめり込む。バラバラに砕けてしまった破片をつなぎ合わせることはできるのか。
祐一郎はSM女王のナオミに封印を解かれ、感情の流れをせき止めていた壁を破壊し、新しい力を身につけていく。
人はときとして、苦しみから抜け出すために理性をかなぐり捨てなければならないときがある。頭の中で考えられるのは実はとても狭い世界で、言葉にできるのは単純なことでしかない。そこで行ったり来たりしていても、何も変わりはしない。言葉にできないことにこそ複雑で深遠な世界が隠れている。
では、その世界とどうしたらつながることができるのだろう。ドラえもんがポケットから簡単に道具を取り出してくれることはない。しかし、もしそれを使ってつながることができて問題を解決できたとしても、そこから先に行けるかどうかはわからない。自分の力を使わず、何の実感もないまま過去として処理してしまうことができるのだろうか。
ここにひとつのケースがある。
体をアンテナとして使うこと。危険を恐れず、受信するエネルギーと共振すること。固まっていてはできない。バイブレーションを感じ、意識を広げ、見えてくる世界に乗り込んでいく。そうすれば突き抜けたパワーが湧き出してくる。大きなうねりが生じ、物事が流れ始める。
もしもそれが悪い方に流れていったとしても、よどんで停滞していることとどちらがいいのかはわからない。結果は流れてみなければわからない。ただ、こういうときの直感は、動物の生存本能のように自分を守ってくれるものだと私は信じている。
紙の本
家族小説・切断と接続の物語
2001/01/20 22:38
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品は紛れもない「家族小説」の傑作だ。あるいは、男が男になる「切断」の物語。傷ついた触覚(皮膚)をめぐる「接続」=快復の物語。
家族小説としての『アンテナ』。──父(男)と母(女)と子の三位一体。セックス(生殖)と成長(性徴)と弔いの物語。「シ」が父を現し、切断を意味する。母を現すのは「チ」で、これは接続を意味している。知(チと読むが、動詞形ではシる)と血、死と地、哲学(言語的妄想)と心理学(物質的妄想)。それでは第三の音、子を現す音は何なのだろう。(「キ」? それとも「ヒ」か「ガ」?)
切断の物語としての『アンテナ』。──「じゃあ、僕も兄さんの夢なんだね」。夢=妄想(リアリティのある妄想、というよりリアリティそのものとしての妄想)=パーフェクト・ワールド=金魚鉢=家族的無意識の切断、少女の殺戮、そして大海原=世界への帰還。「僕は女性性を取り戻した。だから女性が何をしてほしいのかが手に取るようにわかった」。
接続の物語としての『アンテナ』。──アンテナ=触角が媒介するもの、声と映像(フラッシュバック)。「声だ、ナオミの声は触覚を刺激する。声が僕に一つになろうと誘惑する」。他者のためのメディア(他者を映す鏡)としての顔。「カガミからガを抜くと、カミになる……」。そして、皮膚(襞)。冷たい手をもった二人の登場人物、祐弥の主治医とナオミ。「もしかしたらこの世界は同じ物質で作られているのじゃないか」。
ところで、本書を読みながら村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』をしきりと連想したのはなぜだろう。それはたとえば、本書に出てくる「コンセント」と名乗る女性(セックスによって他者を癒す女性)やナオミ(シャーマンと呼ばれる女王様)の存在が、加納クレタ──加納マルタの妹で、幼少の頃からあらゆる「痛み」に取りつかれ、肉と精神を分離する方法を学び「僕」と夢の中で交わる「意識の娼婦」、そして最後に「僕」と肉体的に交わることによってその名前を失う──を想起させたからだろうか。
あるいは祐弥のヘッドホンの中で、そしてナオミの部屋で響いていた(シャーマンならぬ)シューマン。ロラン・バルトが「狂者の痛み」を聞き取ったシューマン。そして『森の情景』第七曲「予言する鳥」の作曲者シューマンの残響なのだろうか。
ところで、ミシェル・シュネデールが『シューマン 黄昏のアリア』(千葉文夫訳)で、苦しみ(souffrance)と痛み(douleur)の違いをめぐって書いた文章──たとえば「痛みは自己の忘却にほかならない」「苦しみには快感が隠れている」「痛みのなかには虚無がある」等々──は、『アンテナ』の世界について何か告知していたのだろうか。
紙の本
前作よりも、さらに「粘っこく」なっている感じ
2000/11/08 13:11
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投稿者:FAT - この投稿者のレビュー一覧を見る
またも、「やられてしまった」という感じ。同じ作者の「コンセント」の時もそうだったのだが、夜中に読み始め、結局、朝までに一気に読み通してしまった。とにかく、田口氏の物語の運びが上手いということに尽きる。
さて、「引きこもり」がテーマであった前作に対し、本作では「自傷行為」がテーマということになるのであろうか。前作の場合、主人公とその兄の精神世界の両方の解明が進められていく感じであったが、本作では、妹の探索というプロットを採りつつも、その実、主人公・裕一朗自身によって、「自傷行為」の原因である「桎梏」が解放されていく展開が軸足となっている。その為、前作よりも、精神世界の救済の様が、より濃密にというか、「粘っこく」描かれていると言えるだろう。人間の精神世界の粘っこさが、皮膚感覚として、わき上がってくる感じがする。
さて、次回作では、どの様な精神世界の「ドロドロ」を描いて見せてくれるのだろうか。期待して待つことにしよう。