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紙の本
視点
2001/08/02 18:43
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投稿者:うまはやし - この投稿者のレビュー一覧を見る
絵本に燗する数多い類書のなかでも、本書が独創的なのは、テーマ主義を徹底的に排除しているところにある、のかもしれない。子供を善導するための機能について注意を払わず、そこに現出した世界と向かい合うことで綴られるエッセイは、とにかく刺激的だ。
紙の本
「おはなし」についての思いめぐらし
2002/06/24 01:51
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あおい - この投稿者のレビュー一覧を見る
こういっちゃあ何だが金井美恵子というのはわりといい加減な人であって、藤枝静男が評したとおり白痴的なまでにみずからの好みで「良いインディアンと悪いインディアン」を峻別し、これ面白い、これ面白くない、と書きつける態度には基本的に機会主義と見紛うような鮮やかさと軽さがあるのだが、しかし作家としての金井美恵子と批評家としての金井美恵子は当然ながら二重になっているのだと考えてみれば、それは決して軽薄さではないということも納得できる。石川淳や澁澤龍彦や倉橋由美子といった敬愛する作家・批評家をある時期からすっかり馬鹿にしはじめつつ、それでもなお、「書くということは、書かないということもふくめて、書くことである以上、書くということは、私の運命なのかもしれない」という『兎』冒頭に記した認識を、ほとんどあからさまに、ある種のしたたかさでもっていまも維持しているのは驚嘆に値する。彼女が深い理解と愛情を持って接した同時代作家である中上健次に対しその繊細さと強気なポーズを揶揄しながらも、小説に関するナイーヴさをほとんど愚鈍なまでに晩年にいたるまで彼が所持していたことを絶対的に支持するその姿勢は、やはり素直に受けとめておくべきなのだ。何ひとつ隠されてはおらず、すべてはあるがままに、そしてあるがままであることを引き受けることほど、文章を書く人間にとって困難を引き寄せることはないのである。
本書は絵本論である。石井桃子やアーサー・ランサムについてことあるごとに発言してきた作家らしく、普段の「文壇」的な距離の意識に明晰に支えられた批評性に富んだ(嫌みったらしいとも言う)エッセーとは少し趣が違い、豊かな読書経験(あえて教養とは言うまい)に裏打ちされたリラックスした調子で個人的な歴史性は感じされられるものの「時代性」とはほとんど無縁の領域で選択された細やかな愛情と冷静で的確な分析が共存する本になっている。金井の読者として気になるのは、最近のエッセーに特に顕著な傾向にあるのだが、文章に奇妙な文法間違いとかセンテンスの違和がことさらに目立たないように滲み出していることで、これは全体の文章の周到さと比較するととても単なる粗雑さであるとは思えないものであり、また何か方向を考えているのであろうかなどと想像させられるということと、もうひとつは、これはずっと金井の作品のオブセッションとしてある、<おはなし>というものが持つユング的な概念とは関わりのないところにある——というよりもむしろユングに回収されないものとしての——無意識的なものの小説における位置についての考察の部分である。四年間の連載を経て完結した長編小説『噂の娘』(講談社)と併読し、<おはなし>について思いめぐらしてしまう。
紙の本
読み聞かせ歴を誇る、ベテランお母さんにこそ読んでもらいたい。今夜から絵本を見る目が変わる驚きの一冊。
2000/11/14 09:15
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投稿者:片岡直子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
絵本の読み聞かせ歴の長いひと程、本書を読んで、「絵本とはこういうものだったのか」と驚くだろう。かくいう私も、息子が12歳なので、続く娘の分も入れて、12年間も延々と絵本を音読してきたことになる。
絵本が、子供に読み聞かせるものである時、ほとんどの場合、しゃもじやスコップのような「道具」と化してしまう。金井さんの絵本の選択にもよるけれど、絵本が、これほどくねって、よじれて、のたうつ、独自なものだったかと、感心する。
常々不思議に思ってきたことがある。落合恵子さんが、絵本のお店を出した時、金井美恵子さんが、絵本に造詣が深いことを知った時、子供を持たない詩人たちが、子供向けの詩や童話や絵本を、多く書いていることを知った時。何故、子供を持たないひとの方が、絵本に思い入れが強いように見えるのか。
子供のある身では、絵本は、ほとんど、「家事」の道具で、子供にとってはファンタジーでも、大人にとってはあまりに、日常であり過ぎて、読んでいる時、頭の中で別のことを考えていても、読み誤らずに、無事通り抜けてしまう、日々のことになっている。
子供を持つひとが絵本を書くこと、受けとめることに、いま一つ身が入らないとしたら、それは、各々の子供という具体物が、確固として有りすぎるからなのではないか。あるいは、「受けとめるのは、この子供」と、自分を除外して考えているせいかもしれない。
「絵本を書いてみませんか?」と言われたことがあるけれど、具体物としての、子供たちが浮かんでしまい、まだ書かずにいる。祖母になったら、書くかもしれない。でも、そしたら、孫という具体物が、私と絵本の間に入り込んでくるかもしれない。
ものやこととの、幸運な出会いがあると思えば、不幸な出会いもある。
子供時代に、キンダーブックは買ってもらっても、絵本を買ってもらった覚えがない。
せいぜい『一寸法師』くらいだった気がする。
幼稚園の頃、すでに集英社の「母と子の名作童話」の、一日一冊ペースの速読の一人読みに没入した私は、絵とたわむれる幸福な絵本時代をすっ飛ばしてきてしまったのだろう。
それは別に不幸というほどのことではないのだけれど、本書の金井さんの文章を読むと、単独で絵本と向き合い、きちんと恥溺することができたひとの幸福を思う。本書を手に取ると、知らずに引き込まれている。こんなに、目で、ゆびで愛でてもらえたら、絵本も幸せだろう。娘は、絵にうるさくて、私が、すっと、めくり飛ばした絵のすみずみまでを読んでいる。金井さんの読みは、もちろんそれより深く、泥にずぶずぶと手を潜らせてゆくように、文章がうねりながら、絵本に絡んでゆく。本屋が開けそうな程の、我が家の本棚の絵本をもう一度、今度は私一人で読み返したくなる。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人・エッセイスト 2000.11.13)
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