紙の本
声とナショナリズム
2002/04/03 23:20
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
NHKのラジオ全国放送が開始(昭和3年)され、日本で浪花節が流行していた1930年代のはじめ、ホメロスの物語が「オーラル」に構成されるしくみについて考察したミルマン・パリーは、その成果を検証するため、旧ユーゴスラビア地域に残存していた吟遊詩人のパフォーマンスを実地調査していた。ミルマン・パリーがそこで観察したのは、物語芸人たちの口頭芸を通じて旧ユーゴスラビア地域の民族意識(ナショナリティ)が再生産されるしくみだった。(序章「声と日本近代」)
著者は本書で、たとえば日本近代を代表する「リテラルな文学者」漱石と同時期に活躍した桃中軒雲右衛門の声が「社会秩序や法制度のロジックにたいする合理的な感覚」を麻痺させ、聴衆を「ある均質で亀裂のない心性の共同体」へとからめとった経緯を通じて、ミルマン・パリーの「発見」を実地に検証・確認している。
《浪花節という声の文学は、ラジオという新時代のメディアをとおして、昭和初年の日本に全国規模の声のユニゾンを形成してゆく。法制度のロジックを吸収・解体してしまうメロディアスな声は、「日本固有の義理人情」といったことばで説明される浪花節的心性の実体である。…浪花節の声によって浸透する物語のモラルは、既存の秩序やヒエラルキーにたいする暴力的破壊の気分さえただよわせながら、日本的ファシズムの感性を醸成してゆくのである。》(235頁)
日本人の「均質幻想」を生み出した背景に、権力による徹底した文書主義の浸透(多様な口語世界をおおった均質な文字文化の表皮)を見る網野善彦の所説に関して、著者は次のように書いている。
《列島の言語が「日本」語でありつづけたことには、文字言語の画一性よりも、中世以来の口頭的[オーラル]な物語芸能の流通が、より大きな要因として作用したと思われる。地域を越えて伝播・流通する物語芸能の声が、「日本人ならだれでも」わかる口頭言語の最大公約数を提示しつづけたのである。》(77頁)
また、丸山真男が日本型ファシズムの思想的特徴として、農本主義、大アジア主義とともに家族主義をあげ、昭和のテロリズムが天皇を親としていただく国体思想を行動原理としていたと指摘していることに関して、こうした「家族主義」は、制度としての家父長制とは異質の文脈から発生したものであると指摘している。
《物語として流通・浸透した制度外のファミリーのモラルを媒介として、国体という観念が受容され、天皇の「赤子」としての国民の平等幻想が大衆に共有される。浪花節のメロディアスな声が、地域や階級による差異・差別をいっきょに解消して、あるナイーブな「国民」精神の共同体をつくりだすのである。》(232-233頁)
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浪曲といえば広沢虎造。というか、それくらいしか知らないのだが。
本書は日本における近代国民国家の形成に、浪花節(浪曲)がどのように関わったのかを追った刺激的なものである。
貧民窟の口承芸から生まれた浪花節が、自由民権期の講演ブームを経て、日清・日露戦争期に登場した大スター・桃中軒雲右衛門らの活躍によって大流行し、雲右衛門没後のラジオによる昭和初期の浪花節ブームにいたる。その過程で、浪花節を聞く人々はメロディアスな声の共同体に絡め捕られていく。
そこには、天皇を親とし、赤子としての国民が形成する擬似的なファミリーがあった。その国体は、しばしば権力者が整える法制度や統治機構を超越する大義(モラル)や平等幻想を担保し、権力者は常に「君側の奸」として排除されるかもしれない危機感に苛まれる。
前半は浪花節のルーツを丹念にたどるため、芸能・民俗に興味のない人には少々つらいかもしれないが、玄洋社や宮崎滔天といった右翼・大陸浪人と浪花節のつながりに対して、大衆から乖離した社会主義運動がなぜ低迷したのかなど、多くの示唆を与えてくれる本である。歴史学からの応答はどうなのであろうか。研究の深まりが期待される。
著者の兵藤氏は、学習院大学教授(日本文学・芸能)。『物語・オーラリティ・共同体』・『平家物語の歴史と芸能』・『太平記〈よみ〉の可能性』・『王権と物語』などの著書がある。
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音声言語と文字言語の相違点と、その相違点が人間の思考にいかなる影響をもたらしているかを、浪花節を取り上げて解説。
■関連図書
野家啓一
「物語の哲学」
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[ 内容 ]
日本が近代国家としてスタートするにあたり、天皇を親とする“日本人”の民族意識を形作ったのは、近代的な法制度や統治機構などではなく、浪花節芸人の発する“声”だった。
浪花節の“声”という視点に立ち、近代日本の成立を問い直す問題の書。
[ 目次 ]
序章 声と日本近代
第1章 貧民窟の芸人
第2章 演説・大道芸・浪花節
第3章 声の伝播、物語の流通
第4章 講談速記本から浪花節へ
第5章 「家族(ファミリー)」のモラルと法制度
第6章 物語としての国民
第7章 桃中軒雲右衛門の声
第8章 日本近代の解体
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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浪花節。浪曲。
存在は知っているけど興味を持ったことはなかった。
広沢虎三の次郎長をCDで聴いたことがあるが、さっぱり聴きとることができず「昔の人はこれをどうやって楽しんでいたんだ?」と不思議に思ったことがあるぐらい。
その浪曲にこれだけの歴史と、当時の「サブカルチャー」としてのインパクトがあったことに知識として驚く。
だけどそれよりも・・・・
江戸末期から現在まで、現在というか戦後にはほとんど触れられていないけど、明らかに演歌とか歌謡曲が射程に入っている。その意味で、日本土俗の近代日本サブカルチャー史であり、それが国民国家の形成と共犯関係にあるというとんでもない視点の本。
明治の下層社会、家共同体の成立と変容、幕末志士~自由民権運動~大陸浪人~昭和の右翼といったいわば日本の裏面史、階級闘争にもっていけなかった戦前社会主義、大衆という概念のいかがわしさ、そういったアポリアっていうか、まともな歴史では取り扱いようのないような、そのくせ近代日本の成立にとって死活的に重要ではないのかと思えることを、チョボクレ、デロリン祭文、そして浪花節といった、このままいったら歴史の闇に隠れていきそうな、エモーショナルなキーワードで解き明かしていく。
新平民とか玄洋社とか、テロリズムと社会ファシズムとか、そのあたりのどぎつい言葉は、もう感覚がマヒしてしまいます。
怪書。
ぞくぞくする。
個別の実証でいうと、詰めの甘いところがある。
~であろう、という表記の多用とか、メロディアスな声に誘導される均質で亀裂のない心性の共同体とか、いささか甘い書き方が目につく。勢いで押し切られているような気がする。
でも、それを差し引いても、すんごいもの読んだって気がする。
学問ってすごい。
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浪花節・浪曲が明治以降から昭和初期の日本において、「日本人」の民族意識を作っていった装置となっていったことを示したのが本書。
私自身の関心分野が戦前日本のナショナリズムなので、本書の問うている「天皇を親とする国体の概念は、何によって、そして誰によって強められ、ファシズムに行き着いたのか」という問題は極めて興味をそそられた。
浪花節・浪曲は、多くの場合日本の都市下層民や地方の農民の間で広まり、特に赤穂浪士の物語などの仇打ちものに代表されるような「忠孝の教えや義理人情の精神」を説く浪花節・浪曲が多くの人に愛された。
著者によると、この「義理人情の精神」と「親への忠孝の精神」そのものが日本において根付いている大衆の精神だという。
特に、都市下層民は伝統的な地縁・血縁の関係から排除された存在だ。その彼らにとって、浪花節の説く「忠孝の教え」は天皇を親とする「擬似的ファミリーのモラル」を彼らの中に作り出し、それが国民意識を醸成させていくことにつながった。
以上のようなこと自体が、都市下層民にとっての国民意識こそが自らのアイデンティティ獲得につながっていったのだろうな、と本書を読んで思ったことである。
今現在、浪花節や浪曲は廃れたものであるけども、他の方のレビューでも言っているように、サッカーワールドカップでの応援など、スポーツナショナリズムの話にもつながるな、と思った。
面白いっす。
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それを認めることは自分の属する階級を限定することになるような、趣味の善し悪しを問われるような問いというものがある。「浪花節」という言葉がそれだ。著者自身が「好きか」と問われれば「好きではない」と答えると言うほどに。しかし、庶民、大衆と呼ばれる人々にとって浪花節の果たしてきた役割は大きい。「日本」という国民国家が「想像上の共同体」と化すのに力を貸したのは、上からの統治政策などではなく桃中軒雲右衛門に代表される浪花節語りのメロディアスな<声>に乗せられた忠君愛国や、無宿渡世の義理人情の物語だった、と著者は言う。それまでの<文字>主体のいわば上層の意識についての言及からは忘れ去られてきた世界を、著者は浪花節という下層の<声>に耳を傾けることによってあざやかに浮かび上がらせる。浪花節の隆盛と国家主義的ファシズムの台頭する時代を複眼視することによって見えてくる、もう一つの日本論である。