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ヨーロッパ知識人の血脈をしぶとく生きていたはずだったのに、気がつくと少しずつ南アフリカの土地に吸い込まれそうになっている中年のスケベなじさまの話。見方によっては恐怖小説かも。
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公私共に盛りを過ぎた大学教授が、欲望のままに流れ告発されるが、プライドをたのみとして自己破綻を受け付けず、地位と名誉を失う。その意味を知るのは、その後転がり込んだ先で娘に起こった事件処理の到底受け入れがたい理不尽さに生きることからである。「もっと上等な生活なんてどこにも無い、あるのはこの生活だけよ」と、その環境を選択した娘はいう。
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何度読んだかわからないのに、なぜか真っ先に思い浮かぶのはラストシーン。奇妙な反応なのかもしれませんが読み返すたびに背筋が凍ります。
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2003年のノーベル文学賞はクッツェーが授賞した。その記事を目にしてから直にインターネットで彼の本を2冊注文したのだが、あっという間に在庫が品切れ、入荷日未定で2冊とも手に入らないことになる。現代社会における情報の伝達スピードに改めて驚愕していたところ、2冊のうち1冊だけの注文が受け付けられたままになっていたようで、ひょっこりとこの「恥辱」は手元に届いた。現代社会における情報認識のあいまいさをも改めて知ることとなった。
この本を読んで共感を得ることができる人というのはどの位いるのだろうか。南アフリカという特殊性を理解した上でないと、この作品を語ることはとても難しいのだろう。しかし、そのことを差し引いても、帯に並ぶおびただしい賛辞の渦とはうらはらに、この主人公の恐ろしく冷徹な視線、恐らくそれは著者の視線とも重なるのだろうものからは、得体の知れない気持ちの悪さが湧いてくる。
この物語は一人の男の転落の道筋を描いている。男の感情が大きく表に出てくることはなく、言ってみれば男は常にやられっぱなしである。だれ一人、男の心情に深く共感をするものすらいない。煮えきらない。傷をなめるような行為。擦り切れていく感情。その転落の中で必死に一つの文学作品をまとめ上げようともがく姿は滑稽ですらあるのだが、そのことだけがいつも男の頭から離れない。ここに、この男のこれまでの人生の矛盾が端的に集約されている。
男は初老の大学教授であり、若者が興味を持つことのない文学を教えている。過去には世間に認められた評論をものにしたこともあるのだが、創作、ということにこだわりがあるらしい。その落差がボディブローのように効いてきて、男の自堕落さを助長しているようだ。あるいはそれは、モーツァルトの天才を完全に理解しながら、自らはその境地に達する音楽をものにできないサリエリのような人生ともみることができる。
人生の悲惨さを描きながらも、それを昇華するような態度で作品にすることができるカーヴァーから感じる暖かさというようなものが、クッツェーのこの作品には一切無い。主人公の中で少しずつ何かが変わっていくような兆しは描かれるが、本質的にこの作品には冷徹さが満ちている。冷静、ではなく、冷徹だ。
確かに、恥辱は消し去ることができない。どんなに忘れたと思っても、ふとしたきっかけで思い出され、思わず身震いをしたくなる気分に襲われる。それは、誰にでもあることだと思う。それを克服するにはその恥辱と対峙することが必要なのだ。そして自分の足元を見つめ直す作業が。もちろん、それがいつでも可能なわけではないが、この作品の主人公にはトラウマを見つめ直す勇気が全くない。それがリアリティだと言われればそれまでだが、フィクションである文芸作品にそこまでのリアリティを追求するべきなのか。読者はそれを求めているのか。この作品には、とても質の悪い前衛的なもの、あるいはアナーキーなものを感じてしまう。
音楽にも耳あたりのよい音楽がある一方で、現代音楽のように試行錯誤的な雰囲気に満ちた作品というものもある。どんなジャンルであれは共鳴するものもそうでないものもあるのだが、祈り、のようなものが伝わってくる音楽には、シンパシーを感じることができる。一方で、自らの欲望を表出することだけを目的とした音楽には空々しさを感じ、拒絶反応が起こるのを止めることができない。この恥辱という作品は、どうしても後者の範疇に属してしまうような気がする。
音楽にしろ文芸作品にしろ、何かメッセージをそこに見いだそうとする癖が、自分にはある。迷路に迷わないようにもともと自分のいた場所を振り返りつつ何を感じているのかを反芻するような作業が癖だ。内包されるメッセージを読み違えている場合も多いだろうが、この作品には、感じ取れるものが少ない。敢えて言えば、恥辱に感じるものは「無」である。それもある意味で、とても青臭い「無」なのだ。虚無と言ってもいい。もしそのことに大きな人生の価値があると考えるならそれでもいいが、成長を許されなかった尾崎豊の悲劇、というようなものがそこには必ず存在する、と自分は思う。そのナルシズム的な甘美さも否定はしないが、そのことだけで人生をしめ括ることはできないのだ。その自虐的な行為の、一過性の美、というものを越えて、自分の過去に責任を持つという健全さの中にある善を求めること、そこにこそ自分を共感させるものがある。その何かを「恥辱」には読み取れない。
南アフリカの抱える複雑極まりない問題群をリアリティにより描ききる、という意味ではこの作品はとんでもなく成功しているのだろう。その現実から目をそらさない態度は、認めてよい。しかし、その先はどこへ行こうとしているのか。その出口の見えなさが、不満である。あるいは、そのことに不安を抱かせることによって現実逃避をしない視線を読者が持つことを著者が目指しているのであれば、自分はその意図にはまったということだけなのかも知れない。
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序盤、主人公教授が気もち悪くて読むのやめようかとおもったけれど、あっけなく転落したから読み進めたんだけれど・・・・。
読みやすいし面白いから2日くらいで読めたのに、すごく疲れた。
登場人物全員、理解できる人間が一人もいなかった。
なんだかどんよりするなぁ。
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不思議な話だった。最初はありふれた話なのかと思いきやアフリカに行ってからどんどんずれていってしまう。いままでに味わったことがないような奇妙な感覚に引きずられる。近代個人主義の敗北ともいえるのかもしれない。私たちは土俗的な慣習から自由にはなれないのかもしれない。そして、何が恥辱となるかは個人や文化の問題なのだ。
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J.M. クッツェーは、南アフリカ出身のノーベル賞作家。
本書、『恥辱』は、『マイケル・K』に続く二度目のブッカー賞授賞作品。大学教授である52歳の男が、教え子に手を出し、大学を追われたのち、身をよせた娘の農場での出来事を描いてるもの。『恥辱』を読むことで南アフリカの社会的問題が、それほどみえてくるのかと問われると疑問だが、父と娘の親子の繊細且つ微妙な関係や、女性の自立の問題や老いへ向う人生観などクッツェーの投げかけるテーマは多い。
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この主人公を一目?で好きになれる人はそうそういないのではないでしょうか。こういうタイプの主人公は、日本では去年出版されたイアン・マキューアンの「ソーラー」に似ていますね。
こっちの方が苦いと思いますが・・
バイロンのオペラが完成するのか、完成するとしたらどういう風なのか、考えてしまいます。ラストも、決してオチているわけではないのですが、不思議にカタルシスを味わえる最後だと思います。
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途中これはどうなるんだろうかと結構のめり込んで読んでいたのに完全に肩透かしを食らわされた感あり。
主人公と読者の彷徨のシンクロナイズを狙ったんだろうか?そんなことないよなぁ、、、とにかく読者に考え込ませるのではなく、ただ沈黙に陥ってしまう感じかな。
ところで、日本語訳で娘が父を絶えず「あなた」と呼び続けていたんですけど、これは両者の絶対的距離感を表現するための選択だったんでしょうか?何か違和感を感じなくはなかったけれど、まさかyouをそのまま訳してみましただけみたいなことはないですよね、、、
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わたしには難解な小説だったような読後感。ブッカー賞を2度 ノーベル賞も受賞した作者、初めて読んだけど、やはり文化や環境の違いですんなり理解できないもどかしさが強かった。それでも引き込まれて一息に読了。話は南アフリカを舞台に大学教授職も友人も家族も自らの不始末で失っていく初老の男が安寧を求めた娘の住環境にも馴染むことが叶わず彷徨いが続く。
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序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。
原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?
主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。
小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?
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えっ、ちょっと待って、これでおしまい?置いてきぼりを食らったような結末。
性欲をコントロールできない孤独な初老のインテリ男。自分のセクシャルハラスメントを美しい文学で粉飾し正当化する。そして、大学から追放される。
娘の身の処し方は常識では理解し難い。しかし彼女にとっては大事なものを死守するための唯一の選択肢。犬になってでも守るべきものがあると。
犬のような彼は犬の運命を自分の手中にする。
読後、主人公に対しての共感は皆無。作者も読者に対して共感を求めていないはず。苦々しい読後感。男の欲望丸出しのセクシャルハラスメント、それを正当化することに利用される文学、暴力と凌辱による植民地主義への反抗、それを受け入れてでも自分の土地と生活を死守しようとする現代の若者の生き方…