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紙の本
粗忽な生活を送る私(生活を送る粗忽な私かな?)を上質な時間と空間の中へ誘い出してくれた佳品。
2001/05/31 12:45
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
バタバタ、ガチャガチャと音を立てながら日々を過ごしていると、神経がヤられそうになるときがある。
そういう人が多いから各ジャンルで「癒し系」なるものが求められるのだろう。でも、癒しというのは、ぺこっとへっこんだ穴を埋めるだけで何やら消極的な意味合いに私には思える。
もっと積極的に生活を切る−−卑近な言い方をすれば上質なものを自分に取り込むことで、満たされた気持ちになりたい。「トリップ」という浮遊してしまう感覚とはまた違って。
隣の椅子に腰掛け直すと、がらり違う位相が見えてくる−−うまく言えないのだけれど、そんな感じが望ましい。
穏やかに、無理することなく自然に、すっと「上質なるもの」の中に導かれたい。
『熊の敷石』は、芥川賞を取ったから読んでおいてもいいだろうぐらいの気持ちで手に取った本なのだけれど、期せずして、そこへ導いてくれた本だった。
先に書評を寄せていらっしゃる「ががんぼ」さんが指摘しているが、なるほどアントニオ・タブッキの小説のような香りがする。ずれているかもしれないが、私の場合は、「導かれた」という思いもあって、伊東静雄の「わがひとに与ふる哀歌」という詩の空気が思い起こされた。
手をかたくくみあわせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であろうとも
私たちの内の
誘わるる清らかさを私は信ずる
日本を離れ、フランスという国に観光客とは違う触れ方をする主人公。ルポライターのように「知りたい」と踏み込むこともなく、旧友を通してユダヤ民族の歩んできた歴史の哀しみに出逢い、先天的な障害を持つ子どもを産んだ女性の哀しみに出逢い、少し交わったあとで通り過ぎていくだけの自分を静かに眺めているという意識が、繊細な描写で温かく表現されている。
できることなら、私もこういうフランスに訪れてみたい。
この表題作「熊の敷石」は、ラ・フォンテーヌの『寓話』の中の訓話から転じた「いらぬお節介」という意味の表現で、その意味解きは、話が展開していくにつれ明らかになって読者が合点するしくみになっている。
あとから出てくるモチーフのいくつかが、このタイトルに結びつくように物語が紡がれていくところが、嫌味がないうまさで著者の持ち味なのだと思う。
熊の大群が集まってじゅうたん状になった上を歩くという冒頭の夢は、ドラッグが見せてくれるサイケな夢のような感じもあり惹きこまれた。
「誘わるる清らかさ」のような空気を保ったまま、もっと幻想的な方に踏み込んで物語を紡いでくれるといいなと思う。形式は、散文的で無論かまわない。
この方の友人や女性との距離の取り方は、幻との距離の取り方にきっと面白い味が出てくるように感じられたから。
紙の本
熊の敷石
2001/02/20 11:56
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ががんぼ - この投稿者のレビュー一覧を見る
面白く読んだ。芥川賞の選評(『文藝春秋』2001年3月号)の中に、エッセー風であることを弱みのように述べたものがあったが、そうは感じなかった。選評の中で共感できたのは黒井千次、日野啓三、田久保英夫のコメントである。物語性が足りないと書いた石原慎太郎と、主人公が作者を写したような人物なのはだめで、もっと対象化しないと真の創造にはならない、といった主旨の河野多恵子は、私は違うと思った。作者が問題化しているのは、自己とその関わる対象との距離、ないしはその関係の微妙さ、言い換えれば、「物語」の中に入り込めない立場の問題であり、すっきりとは対象化できない相手との関わりの困難である。それが主題である以上、創作というメタレベルをもってしても、その問題が「物語性」や「対象化」に類する言葉でそうそう割り切れるはずはないと思う。
作者は1964年生まれ、「戦争を知らない子供たち」として、安保闘争すら遠い太鼓でしかないという、ある種の難しさを感じてきたはずの世代である。一方、作者が属するようなアカデミズムの世界はもとより、広く文化人、知識人であれば、己の生きた同時代として、20世紀を自分なりに整理せずには済まない。その際、二つの大戦やホロコーストをどう捉えるか。たとえばイギリス、より正確には、その中心をなすイングランドでも、新しい作家にとってもはや小説化すべき素材がない、だから毎年最高の小説を選ぶブッカー賞は旧植民地からしか生まれないなどということが言われ、比較的若い作家たちは過去の大戦やホロコーストに目を向けている。
「熊の敷石」には、そうした世代の作家の位置と姿勢がよく現れている。直接取り上げられるのはホロコーストだが、作者と等身大の主人公は、もっと後の年代でもあり小説の舞台では異邦人の日本人でもあって、当然ながらそうした「歴史の重さ」からは隔たってしまった時代、隔たった環境に生きている。その友人のユダヤ人のヤンですら、直接にそうした経験を通過している親や祖父母の世代とは隔たっている。つまりここには個別の人間の様々な程度の「距離」があるのだが、しかしこの「歴史」との接触は、間接的ながらも真正なものとして描かれており、それを可能にしているのは、作家の力量である。そうした距離が生み出すものを、苦さではなく、一種静かなユーモアを交えて、背景にあるほとんど透明な哀感と溶け合わせて描き出すセンスもいい。どことなくアントニオ・タブッキの小説や、須賀敦子のエッセーを連想させるのはそうした点だろうか。
そしてここでいう「歴史」とは、ホロコーストのような大事件だけを言うものではない。ヤンの部屋の家主のカトリーヌは、生まれつき眼球のない幼子を抱えている。その不幸と、隣人であるヤンの、そのまた友人である主人公はどう関わるのか。つまり歴史、あるいは総体として考える「人間」も、またより卑近な他者としての隣人の経験も、ここでは一つである。距離の問題は「歴史」の大きさに由来するのではなく、「歴史」に個人はどう関わるか、という問題は、他者の経験に、これと直接は関与しないように見える我はどう関わるか、という問題に通じている。どこまで「人間」、あるいは「同胞」を共有するのか。それをコミュニケーション、あるいは連帯の問題と呼んでもよい。が、問題にされるのは、どこまでも、その分断ないしは困難である。だから主人公も、全く個人的な、突然の歯痛に苦しまねばならない。
紙の本
第124回芥川賞受賞作
2018/05/15 03:51
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
ノルマンディー地方の友人を訪ねる表題作が良かったです。見知らぬ土地に放り出される不思議な気持ちになりました。