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仏教用語である悪人正機。悪こそ救われるべきである、という意を含む。本書ではさまざまな出来事を著者が哲学するような内容であった。高校の時に読み、吉本さんが好きになった思い出がある書だ。
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吉本さんの著書を読んでみたい!と思って、いくつか有る中で選んできました。理由は一番字が大きかったから(苦笑)。
糸井さんがお話お訊きする形。吉本さん話の面白いおじさまでした。「10年続ける」話は、昔父がよく言ってたけど、父の持論だと思っていたので活字で読んでびっくり。
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吉本隆明さんの言葉を、糸井重里さんが、わかりやすく書いてくださっている。
糸井さんは、「誰もが思っているけれど、あえて言葉にしない事柄を、隆明さんはずばっと言葉にしていまうところがすごい」といったニュアンスのことを書かれていた。
確かに、わたしもすごいことだと思った。
けれど、こわいことでもあると、思った。
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-働くのがいいなんてウソだよ-
「悪人正機」とは悪人=普通の人、こそが救済の対象、という仏教の教えの中の言葉。タイトルを受けるように「ダメでいいじゃん」と思想界の巨人、吉本隆明さんがさとしてくれる。私が印象的だったのは「石の上にも3年といわず、10年だ」とか「サラリーマンが帰りに一杯愚痴を言い合うなんて幸せだ、いいことだ」というようなくだり。吉本隆明入門本としてもGOOD。因みに、この方、ハルノ宵子と吉本ばななのお父さんです!
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悪人正機という表題ではあるけど、それについて語る書ではない。ないけれど、我々を取りまくコトバの数々を手がかりとして、情況を吉本さん的に(糸井重里さんを目の前において)話し解(説)いてく姿は説教するお坊さんにも見えてくる。聞き手である糸井さんの力量もあり、吉本さん「らしさ」をも損なわず、とても読みやすく仕上がってた一冊です。
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・仕事は自分の機能を高めることを問題とする
・上司より同期と建物が大事
・円満な家庭はないけれど子どもが生まれて1年は我慢しろ
・十年やれば一丁前
・情報源は新聞があれば事足りる
・綾戸智絵の声は意識的に修練して創りあげられたもの
・日本の文化を支えるのは週刊誌
・資産家になるには借金も財産だと思え
最近ほぼ日ばっかり読んでいるせいか
糸井さんに感化されてきた気がする笑
吉本さんもそれで知ってこの間講演会の本を読もうとしたんだけれど
難しくて何言ってるのかわかんなくて途中で投げてしまった…
でもこれはとても読みやすい。たぶんテーマが身近だからだと思う。
生きるって、仕事って、素質って、声って。
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「鈍刀のほうが、実はよく切れるんだぜ」「大学に行くのは失恋の経験に似ている」なんていうような、しびれる言葉が満載です。全部が全部素直に飲み込める話ではないけれど、物事の関係性への視点に唸る一冊です。
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(2012.04.10読了)(2011.12.11購入)
2012年3月16日に吉本隆明さんはお亡くなりになりました。ちょっと遅くなりましたが、追悼のために読んでみました。
色んなテーマについて、糸井さんと話したことを糸井さんがまとめたものです。各テーマについて糸井さんの感想が述べられています。糸井さんらしいコメントです。
初出は、「週刊プレーボーイ」1999年5月11日~2000年1月1日、です。
各テーマについて、深く考察した結果が述べられているのだろうと、ちょっと緊張気味に読み始めたのですが、いったん糸井さんの脳を経由したためか、ごく普通の老人のお茶飲み話という感じで、かなり気楽に読めます。内容も普遍的というよりは個人的という感じです。こう思うということは書いてあっても、なにゆえにそのように思うのかの根拠があまりないようです。1970年代ぐらいまでの著作を読むほうがよいのかもしれません。
【目次】
まえがき 糸井重里
「生きる」ってなんだ?
「友だち」ってなんだ?
「挫折」ってなんだ?
「殺意」ってなんだ?
「仕事」ってなんだ?
「物書き」ってなんだ?
「理想の上司」ってなんだ?
「正義」ってなんだ?
「国際化」ってなんだ?
「宗教」ってなんだ?
「戦争」ってなんだ?
「日本国憲法」ってなんだ?
「教育」ってなんだ?
「家族」ってなんだ?
「素質」ってなんだ?
「名前」ってなんだ?
「性」ってなんだ?
「スポーツ」ってなんだ?
「旅」ってなんだ?
「ユーモア」ってなんだ?
「テレビ」ってなんだ?
「ネット社会」ってなんだ?
「情報」ってなんだ?
「言葉」ってなんだ?
「声」ってなんだ?
「文化」ってなんだ?
「株」ってなんだ?
「お金」ってなんだ?
あとがき 吉本隆明
●解決のための処方箋を語る人々(2頁)
正しそうに見えることば、りこうそうに見える考え方、ほめられそうなことば、自分の価値を高めてくれそうな考え方、トクをしそうな考え方、敵を追い落とすためのことば、流行の考え方、仲間外れにならないためのことば、そういうものばかりが目立ってしかたがない。
●死は自分に属さない(18頁)
たとえば臓器提供における本人の意思が云々の話にしても、いくら自分のハンコ押したって、てめえが死ぬのなんかわかんねえんだから、結局は近親の人が判断するしかないんですよ。死を決定できるのは自分でも医者でもない。要するに看護してた家族、奥さんとかですよね。
●好きなことを(58頁)
普通の人がぜいたくして、いい洋服着たりうまいもの食ったりっていう、そのテーマがなくなっちゃったら、歴史の半分がおもしろくねえってことになっちゃうんですよ。
●重要なのは建物(78頁)
会社において、上司のことより重要なのは建物なんだってことです。明るくって、気持ちのいい建物が、少し歩けばコーヒーを飲めるとか盛り場に出られるような場所にあるっていう……そっちの方が重要なんだってことなんです。
●アメリカの使命(85頁)
世界であらゆる不正な事件があったらそれに対してちょっかいを出すというか、介入するというね。何かあったら「やめろ!」というのは、自分らの使命なんだっていうことはあるんじゃないでしょうか。
(イスラエルに関しては、非人道的な行為が行われても、一向に介入する様子はありません。)
●都会がいい(92頁)
都会には遊ぶ場所が多種類で、しかも、いっぱいあるってことと、金銭が取れる仕事も多種類あって、職業につきやすいということ。それと、何かにつけ便利だということです。交通が便利とか、教育を受けるのにも便利だとかね。
●宗教と唯物論(111頁)
僕は宗教と唯物論と、どっちに興味があるって言ったら、はるかに宗教の方に興味があります。そのことに理屈をつけるとしたら、宗教には幅とか領域とか広さっていうことのほかに、深さっていう概念が通用する。しかし、唯物論はもう、非常に平らな表面だっていうことですね。
●戦死(120頁)
親父は第一次世界大戦で中国の青島とかの攻撃に参加してたんですけど、「自分の隣のやつは、塹壕の中で降雨を凌いでたら、上から土砂が落ちてきて死んじゃったし、腹痛くなって下痢続きで衰弱して死んじゃったとかね。そいう方が多いんだよ。結局、戦死っていうけど、本当にドンパチドンパチやって、それで死んだなんて、そんな調子いいの、あんまりないんだよ」っていうんだよ。
●核兵器(132頁)
現存の核に関する条約のおかしいところは、要するに核兵器を持っているやつは持ったままで、持ってないやつに、今後は持つなって言ってるわけですよ。
●お金(274頁)
お金は「ない」とものすごく参っちゃうんもんなんだけど、「ある」と、なかった時のことなんかケロッと忘れちゃって、勝手に使っちゃうんですね。
☆吉本隆明の本(既読)
「共同幻想論」吉本隆明著、河出書房、1968.12.05
「ダーウィンを超えて」今西錦司・吉本隆明著、朝日出版社、1978.12.10
略歴 吉本 隆明
1924年東京・月島生れ。
1947年東京工業大学理学系化学科卒業。
1954年『転移のための十篇』で荒地詩人賞を受賞
2003年『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を受賞
2003年『吉本隆明全詩集』で藤村記念歴程賞を受賞
2012年3月16日、死去、享年87歳。
詩人、評論家
(2012年4月10日・記)
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吉本隆明さんに糸井重里さんが質問して、糸井さんが纏めたもの。
思想家というより、物書きとして吉本さんが自分の考えを述べている本。
思っていたより、軽かった。
プライベートな吉本さん、という感じ。
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「泥棒して食ったっていいんだよ」 生きることの大事さに比べたら、泥棒するな、というのは人間がつくった約束事のひとつにしかすぎないわけで、重さが違う、という当たり前のことに人はなかなか気づけない。
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糸井重里の才能は、あやふやなものをなんだか判った気にさせるコピーライティング。
吉本隆明の才能は、あやふやなものを独自の思考で掘り下げ、より判り辛く?すること。
深さが全然違う。…と思わせるのが計算なら糸井重里、ご立派。
以下、引っ掛かったこと。
○ 「素質」ってなんだ。
ちょっとでも「長所」と思うところだけを伸ばせばいい。
自分の得意なことはこれだと自己評価する。
評価が正しいか間違っているかは問題ではない。自己評価だから。
それでその自己評価、得意分野の範疇であれば何をやってもよい。
人やモノを評価するときは、その逆のことを当てはめる。
自己評価よりちょっとでも上のことをやってもろくな事にはならない。
背伸びしたところで、同じことできる奴が他にいっぱいいるのだし、
背伸びした自分を基準だと勘違いしたら本来の自分が恥ずかしくなっちゃう。
○ 吉本隆明流「情報分析方法」
僕の場合、情報は大体新聞で間に合います。
ただ記事の内容は記者の力量によるので、あくまで情報としてデータとして使います。
情報の中にハッキリ言えること、あるって言っちゃってもいいことを探して前提にします。
そして、水素と酸素から水が出来るように、なぜそうなっているかという捉え方をします。
そしたらどこの国のどんな問題だって、だいたい当たるんじゃないかと思います。
根拠はありませんけど(笑)
例えば、NATOが内戦に介入したというニュースから考えることは、
なぜ介入したのかということ。
その理由や背景に関する情報だけを集めて整理すればこの件についてものが言えます。
例えば、フランスが核実験したというニュースからハッキリ言えることは、
フランスには原水爆禁止とか反対する人が少ないということ。
○ 「言葉」ってなんだ
方言と異国語は地続きです。英語も方言のひとつと捉えてみては?
1999.5~2000.1「週刊プレイボーイ」連載。聞き手、糸井重里。語り部、吉本隆明。
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神保町の古本まつりで見つけて。糸井重里さんが聞き手というのに興味を持ったので。
吉本隆明さんは吉本ばななさんの父親にあたるということを読んで初めて知った。宗教家ではなく、詩人であり評論家である立場から「悪人正機」とはどういうことかを語っていた。世の中を見据えた人生の先生のような語り口で、言葉がすんなりとのどを通って行った。
「友だち」とは何かの例に親鸞を持ってきたことに糸井さんも驚いていたが、私自身も驚いている。この人はちゃんと物書きの目で宗教を見ている。
だから、「『信じること』と『科学的に明瞭なこと』をつなげたい」という吉本さんの書き残したものをもっと追っていきたいと思った。まずは『最後の親鸞』から追っていきたいと思う。
親鸞学徒であるひとが「お経なんて本当はいらないんだよ」と言う度に「今言うことじゃないだろ」と腹が立っていたが、ようやくその背景が分かった。「人間なんか助けおおせるもんじゃない」んだよね。だから修行もお経も何にもいらないんだよね。
私はそういう宗教の「深さ」をもっと知りたい。
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い図。何かで、糸井さんが吉田さんの親鸞の考え方を引用していた文章を読んで、吉田さんの本を読んでみたいと思っていたところに、糸井さんと吉田さんが絡んで出版した本書の存在を知って、借りてみた。
なんだろ。あることを、ありのままに受け入れるってことを、考えた。これを読んでいる横で、妹が娘の相手をしてくれていて、妹が眠いって言ったら、「眠いかー!」って娘が言って。そんなのを横で聞きながら私は本読ませてもらって。子どもの、この何でも受け入れる心、消したくないなって、何となく考えた。大らかさみたいなものを、大切にしたいなと。「こうしなきゃ」とか、「これは悪い」とか、そうして自分を狭めるばかりじゃなくて、ありのままを受け入れたいと思った。その大らかさ、ゆとりが周りの気持ちを優しく包んでくれるんだなと。そしてその大らかさを大人になっても持ち続けることは意外に難しいことなのだと、タモリさんのくだりで考えた。2018/1/27
◆引用
p51…その限度の範囲が、うんと狭い人と、限度なんかないっていう人とでは当然、違うわけですね。そうするとね、今の精神医学者なんかが言ってることが、俺には気になってしょうがない。つまり、どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなければいけないんじゃないかと思っているわけです。なぜなら、今の社会に生きる人の正常の範囲は、現行で考えられている正常の範囲に比べると、拡がっていると考えなくちゃいけないからなんです。
ところが、この範囲からはみだしたら異常だという専門家の枠組みは、昔から変わっ
てないし、ある意味ではもっと狭くしてるくらいなんですね。現行の正常の範囲から
ちょっとでも外れたら、それは異常だと言って済ませた気になってるでしょう。本質的には、その正常の枠を拡げねばならないってことを、精神医学の専門家がちゃんと示してくれないといけないのに、全然そうしてはいない。で、池袋や下関のような事件の際にテレビに出てきたりして、何を言うかと思えば、精神医学でもなんでもない〈 法律論>を言っているんですよ。「これは罪だからいけない、異常だ」ってね。
現実と専門家が逆になってるんですよ。
(中略)
その現実の正常の範囲を、法律の範囲よりも、専門家が拡げて考えなきゃいけないし、そこを専門に研究して言ってくれなきゃいけないのに、法律にそのま従って異常だと言っちゃってるでしょ。
(中略)
でも、専門家はそういうことを考えないでさぼっているわけ。さぼらないで正常の範囲を拡げて考えてくれないとね。専門家が言わないと、法律のほうが強いですから。素人がそう言っても通らないけれど、専門家が、これは正常の範囲内なんだってことをちゃんと言ったら、法律がどうあろうとある程度通るわけなんでね。法律のほうが違ってるんだよってことや、もう間に合わなくなっているんだよってことは現実にはいくらでもあるんでね。実際には、法律にひっかかる部分があっても、専門家の選んだほうがいい結果をもたらすことはあるわけなんですよ。。僕は、そういうことは良しとしますね。そうでないと、全てのことが曖昧になって、怪しくなっちゃいますよ。法律になんでも判断���せるってのは
間違いなんでさ。
(中略)
ただし、そういう考えだと、法律を無視してとめどなく行動してしまうって考えにも
なりますが、これに唯一釘を刺せるっていうか、歯止めになるのは、言論の自由なんです。例えば「俺は今日中に、100人殺してやりたいと思ってるんだ」って、大勢の前で言ったとして、それを言っただけなら、つまり、実際にやらなきゃ法律は関与しないわけ。それは言論の自由ってことになるわけですよね。だけど、実際には、そんな自由はないに等しいから言わないでしょう。また、表現の自由を制限し、法律にひっかけて犯罪にするってことも、人間はやってきた。でも、それらはあんまり意味がないんですよ。僕は、みんななんでも言っちゃっていいっていうのが妥当だと思ってます。表現の自由はやっぱり重要なんです。
p56…オウムが殺人事件を犯した犯罪者だっていうことと、オウムという宗教と麻原っていう大将にどれくらいの宗教的力量があるかってことをちゃんと評価したうえで、何をしたかを考えてみることは別なんですね。でも、それを言っただけで、文句を言われる。フランスにいる知り合いには、文句を言われるなんてフランスじゃ考えられないって言われました。こういう見解は持っちゃいけないってことで排斥されるようなことは、日本独特とは言わないけれども、先進国ではないですよ、みたいなことも言われましたね。僕ら日本人っていうのは、過剰に気を遣いすぎる。だから、
こう言っちゃ悪いんだ、みたいになっちやうんですね。人それぞれ違う考えがあるっていう、相容れない者同士のルールってのが、できてないんじゃないかな。
p61…アルバイトは、特許事務所でドイツ語なんかを翻訳して、役所に出す書類をつくるというような仕事でした。一単語3円の給料の他に原稿料がありましたから、あの頃がいちばん金持ちだったんです。いくらでもあった(笑)。特許事務所にいると、明日締め切りだみたいなとんでもねえ急ぎの仕事がくることがあるんですよ。でも僕だけはやりますって引き受けるんですね。ふつうのやり方じゃ間に合わないから、どうしても特許請求に必要な範囲ってところだけちゃんとやって、途中はすっ飛ばす。つまり、間に合わせるだけ間に合わせて、抜かしたところは、次の日に訂正書なる
ものを出して埋めればいいんですよ。
できるだけズルをしようと思うから、そういうこともやるんですけどね。気分いいし、金はあるし,結果としてみれば、そういうような遊びに近いやり方をしていたなと思いますよ。(中略)清貧の人は、働くからいいんだって言うんでしょうけど、僕は、それはウソだって思ってますね。遊んで暮らせて、やりたいことができてって
いうのがいちばんいいんですから。
p64…今まで僕が見てきた編集者で、接客と言いますか、原稿の遅いヤローのヘソを曲げさせないで、なんとか締め切りに間に合わせるのがうまい人っていうのは、ああ、やっぱり修羅場をくぐってきてるなぁと思いますね。そういうテーマもあるでしょうし、それはおもしろいでしょうね。遊びの要素を持ってるっていうか。
それとこれはいわく言い難いんだけど、例えば、仲がよくねえなっていう二人の作家
がいた時に、どっちかが「あいつはけしからんじゃねえか」とか言っても、「いや、僕が知っている限りでは、そうじゃないです」って擁護する。そういう態度を見てると、この人は自分のことを悪く言うやつがいた時、きっと「いや、そうじゃないところもあります」って言ってくれるんだろうな、と信頼感みたいなのを持てますよね。
ところが、ダメなヤツーーというか、そういうことに慣れていない素人は、バランス
をとろうとするんですよ。同じように並べて、自分は公平なんだって思っちゃぅんでしょうけど、公平っていうのは、そういうことじゃないんです。
自分はどうしてきたかって実感に即して言うと、これは太宰治の小説の一節なんですけど「自分はへとへとになってからなお粘ることができます」って言葉があるんですね。
結局、頭良すぎてキレすぎる人は、何かポシャっちやって、へとへとになったとき、
もう全部やめちゃえって手を引いちゃうんです。潔いって言えば潔いんでしょうけど、頭はよく回るもんだから、やっぱり才能、才気の持っていきどころがないというか。
僕は、潔さっていうのはダメだ、全部逃げろ逃げろって方針できたから、やっぱり今
のところ、まだ粘って物書きをやっているというところがあるんですけどね。
僕は愚図だけど、粘るっていうのがあります。じたばたしろっていうことですかね。
ほんとにダメだと思っても、じたばたしろっていう、ね。
p67…その点で、本当のプロの詩人と言える人は、谷川俊太郎と、吉増剛造と、この前死んだ田村隆一と、この三人しかしねえかな。あとはみんなプロじゃねえよと思っていますね。
p88…日本のほうは、そのまったく逆で、ゆとりなんか何にもないっていうか、あっちゃいけないみたいな状況になってましたよね。髪の毛にパーマかけるのはやめろ、みたいなことですよね。ふざけてるんじゃねえか、この大事な時にって。
自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き
詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。
こういうことは誰だって、かなわねえと思うものなんですね。以前も言ったように
「清貧の思想」とか、そういうものはダメなんです。人間は、そういうふうには生きられない生き物なんですから。自分ばっかり正しいと思いこんでる人たちは、まずそのことを理解しないといけません。遊んだり、お洒落をしたり、恋愛をしたりっていうことがなくなったら、人類の歴史のいいところはほとんどなくなっちやうんですよ。
今でも、慰安婦問題や教科書問題について、熱心すぎるほど取り組んでる人たちがいますけど、そんなの冗談じゃないよって思いますね。
何かこう、みんなが同じようにそのことに血道をあげて、一色に染まりきらないと収
まりがつかないって人たちは、根本の人間の理解から違ってるんだよってことです。
そんなことはやめてくれっていうふうになりますね。そういことは戦争中にさんざんやってきて、結局、無効だったってことなんですから。
p112…マルクスの『資本論』第1巻を読めば頭がスッキリするっていう言い方があるけど、読めば頭が深くなるっていう��だったら、ドイツの中世の牧師というか神学者で、エックハルト(ドイツ神秘主義の代表者) っていう人がいて、その人の『エックハルト説教集』(岩波文庫など) っていうのがあるんですけど、それはもう深さっていったらこれほど深い本はないぞっていう深さがありますね。なんか水の底に連れて行かれるみたいな、そういう意味合いの作用があります。危ないところとか、怪しげなところをいっぱい含んでるんだけど、深さっていうのがあるんです。唯物論っていうのはスッキリしてるけど、でもこれは表面だよっていうふうに思いますね。便利なこととか、役にたつことっていうのはずいぶん多いですけど、でも、精神の浪費をするっていう時には、やっぱりこの深さっていうのがあったほうが、浪費は楽しいですしね。思うことの多くはそこから出てきますしね。
p132…これから日本がとるべき積極的な国防とは?
ただ、消極的ではなく、日本が積極的に国防をするにはという問題になったとしたら、ただひとつの手は、現在の核拡散防止条約みたいなものではない提案を、日本が核を持たない国としてやることでしょうね。現存の核に関する条約のおかしいところは、要するに核兵器を持つてるやつは持ったままで、持ってないやつに、今後はもう持つなって 言ってるわけですよ。そんなバカな話はないわけです。それでは、持ってなかった国は「おまえらが減らさないんだったら、俺らだって持つよ」って言いますからね。しかも、その発言権の順序が、武力の保有に比例するような状況がそのままにされてるんですから。
そうじゃなくて、例えば200発の核を持っている国があるなら、その200発を何年何月までに100発に減らすことをね、核兵器を持たない国が提案する。そのかわりとして、俺たちも核を持たないと約束する。こういう条約じゃないといけないわけですね。
自衛戦争以外のことをしない憲法を持つ日本にとっての積極的な国防とは、そういう提案をし、そして約束させるっていうことになるんですよ。
核、あるいは核兵器っていうものはね、今の科学の発達から言えば、つくろうと思っ
てつくれない国っていうのは、まずないんだと思わなきゃいけないんですよ。(中略)そんなことをね、あたふたと政治家とか学者が先頭になって、核兵器を持つべきだとかって言うのも、同時に、これまではきちんと議論してなかったから今後はすべきだ
と言うのも、どちらもナンセンスだと思いますね。
p146…夫婦とか家族とか、決まったひとりの相手と生涯を貫いてる人もいることはいるんだけど、それはいいことでも何でもないわけでね。相当ガマンをしながらって感じでやってるんですよ。
ガマンをして結婚生活が壊れなかったというのは、別に立派なことでもなんでもあり
むしろ、お互いに「そんなんじゃイヤだ」とか「また違う相手とやってくさ」とかを繰り返していくほうが正直というか、本当なんだと思いますね。間違った選択だったと、しまったと思った時にガマンして耐え忍んでやっていくというのは「ひとつの
やり方」にしかすぎないわけですから。
これは、どっちがいいっていうことじゃなく、うまくいってる時もあるし、もうダメ
なんじゃないかと思ったら離れてもいいんだし。夫婦や家族でも同居せずに、好きな時に会うっていうやり方も、今という時代なら、非常に現実的な方法だと思います。
だいたい、日本だと「親子三代の家族が
一緒に暮らす」っていうのが老人の理想だって、統計なんかで出てくるけど、西洋の場合だと宗教ですね。家族ではなく、教会につながりを求めてるんです。
自分の家族に何かを求めるというようなことは、もうとっくに諦めているというか、あっちのほうが、厳しくてキツイところにいってるんですね。
(中略)そうしてみると、まだ、日本のほうがいくぶんマシだっていうか、牧歌的なところが残っているんですね。
p159…素質が問題になるのは、一丁前になってから
僕は、自分でもあんまり好きじゃねえなってところは、もうほっといていいと思うんですよ。
それで、ちょっとでもいいから「これは長所だ」と思えるところだけ、伸ばしていけばいいんじゃないかと思いますね。
いつも言うことなんですが、結局、靴屋さんでも作家でも同じで、10年やれば誰でも一丁前になるんです。だから、10年やればいいんですよ。それだけでいい。
他に特別やらなきゃならないことなんか、何もないからね。10年間やれば、とにかく一丁前だって、もうこれは保証してもいい。100%モノになるって、言い切ります。
ただし、10年やらなかったら、まあ、どんな天才的な人でもダメだって思ったほう
がいいってふうにも言えるわけです。九年八カ月じゃダメだって(笑)。
それから、毎日やるのが大事なんですね。要するに、この場合は掛け算になるんです。例えば、昨日より今日は二倍巧くなったとしましょうか。で、明日もやると。そうすると二×二の四倍で、その次の日もやったら、また×2で八倍になる。だけど毎日やらずに間を空けると、足し算になっちやうんです(笑)。
掛け算でも足し算でも、まあちょっとの間は変わりはないと思うかもしれないけど
「2+2+2…」と「2×2×2…」と長くやればやるほど、全然違ってきちゃうんですよ。毎日、なんかちょっと、机の前に座るとか……まあ、これは小説の場合です
けどね。もし、この方面を目指そうっていうなら、机の前に座るっていうことだけは毎日やったほうがいいですよ。やって10年たてば、必ず一丁前になります。
これについちゃ、素質もヘチマもないです。素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって以降なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメだってことですね。
途切れたらそこで足し算になっちゃうし、まあ、無理することはないから、今日も机の前に座ってみたっていうくらいのね、こういうことは毎日やったほうがいい。
僕は自分に近い職業の例として、作家のことで言ってますけど、これは何でも同じでさ。10年毎日やれっていうと、何かえらく努力しろみたいなことを言ってるようだけど、そうじゃないんです。努力しようがしまいが、とにかく毎日、ぼーっとしててもいいから、毎日を10年続けるんですよ。
p166…自分の領域を知るって難しい
僕自身はこんな原則をもってるんです。
自己評価ってあるでしょう?自分が自分で、こういうことが得意だとか、こ��程度
のことができるとかの評価をしますよね。その自己評価が正しいか間違っているかは別にどっちでもいいんですよ、あくまで自己評価なんですから。
それで、その自己評価よりも下のことだったら、何でもやっていいって考えてるんで
すね。
人やモノを評価するにあたっては、その原則を逆に当てはめる。人に対して「あいつ
の自自己価ってのは、ここらへんだろうなあ」って俺が思っているのがあれば、それ以上のことをやろうってヤツはダメだってのが鑑定基準ですね。
このことは、自分の経験からわかったことですけどね。自己評価のもうちょっと上の
見せかけくらいだったらやっていいんじゃねえか、みたいに思ってやったことは、ことごとく失敗したんですよ。
岡本かの子は、よくそれに近いことを言ってました。要するに、銀座の真ん中で裸で寝っ転がっちゃうようなことができなきゃ小説なんか書けやしないよ、書くべきじゃないよって、盛んに言ってましたけど、まったくそのとおりなんです。みんな、何か見かけ以上に偉いみたいなふうに思いこんでるからロクな小説、書けやしない。自分の、自己評価より上に見られるようなことはやっちゃいけないんですよ(笑)。
小説家で言えばさ、湾岸戦争の時に文学者の声明みたいなもんに署名した人の中に田中康夫と高橋源一郎がいたでしょう。それはそれでいいんだけど、このふたりは、その後の振る舞いが違いましたね。田中康夫は、阪神大震災に行って、何か偉いモンみたいな、すげぇこと言いだしましたよねえ。これはもうダメだって俺は決めました。こういうことをしたら『なんとなく、クリスタル』みたいな小説はもう書けないですよ。自分が恥ずかしくって。小型の大江健三郎みたいなものを書く以外には方法がなくなっちゃってね(笑)。たくさんおもしろいところがあった人だけど、今までにも、同じようなこと言ってるやつはたくさんいたじゃねえか、と。
高橋源一郎ってのは、逆ですよ。この人は江川卓とテレビで競馬評論とか、野球の話
とかやるようになりましたよね。さすがだなあって、僕は思いました。そういうことをやってる分には、高橋源一郎が、少し真面目な顔して、小説書くってことになったら、これはできるわけですよね。僕はこっちのほうが、いいんだって思いますね。
自分でも、そういうところで失敗をしてきて、経験的に言っているわけなんだけど、
歌でも映画でもお笑いでも、だいたいその基準でわかりますよ。ビートたけしとか、坂本龍一さんなんかも、危なっかしいとこありますねえ。せっかく天才的な領域にいるのに、おいおい、そっち行っちゃダメだぜってほうに、得てして行っちゃうんですね。
タモリは自分の領域ってのをよく分かってる人ですね。もう少し自分は高級なことができるぜってとこがあるんだろうけれど、
それを出さないでっていうか、『タモリ倶楽部』みたいな限定されたところで、あれ?意外だなって感じを出すに止めていますね。でも、そっちの「俺はできるんだぜ」の芸だけ見せてたら、やっぱりダメなんですよね。んなのたくさんいるぜってことになっちやうんですけど、タモリはその領域を強固に守っているんですよ。
これ、けっこう難しいことなんですけどねえ。
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(2024/03/19 2h)
装丁と中身が合ってない!
表紙を一見して殺伐な雰囲気を感じ取っていたのですが…、実際はオジサンふたりが各テーマについて和やかに語り合っているという本ですね。
糸井重里の吉本隆明アゲがしつこくて癇に障った。
印象に残っているのは「ネット社会」と「言葉」の章。