紙の本
リアリティの探求
2001/11/12 21:46
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
現場に居合わせないと語れない事実がある。現場にいては見えない論理がある。事実を蹂躙する論理は妄想の翼を消耗させ、論理から遊離した事実は根絶やしにされ忘却の闇に沈む。
日本にいて著者は「現実遊離感」を悪化させつづけてきたという。それは非自由・非平等・非博愛の日本社会の因習のためであると同時に、現場に居合わせない者が紡ぎ出す出来合の物語と、現場を垣間見た者が性急に語る粗雑な論理、つまりメディアと政治における想像力と言語の貧困がもたらしたものだった。
《おそらく僕は、膨大な言語情報(正確には言語というより、音の羅列でしかない情報なのだが)を「知っている」と思っている。しかし、それらを触ったことも食べたこともない。より根本的には考えたこともない。僕はこれまでほとんどすべての情報をその実際と関連づけることができなかったのではないだろうか》(フラッシュバック「分断された音の記憶」)。
私は『カブール・ノート』を書くことによって、日本で壊れた精神の瓦解を拾いつづけていたのかもしれない。──著者はあとがきでそのように書いている。人は結局、自分のことしか書けない。だから、人の魂を撃つ。現場で遭遇する事実と、現場を離れてこそ培える論理を融合する希有な精神の質をもった山本芳幸によるリアリティの探求の記録。
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UNHCRカブール事務所長だった経歴を持つ方の著書なので
期待して読んだのだが・・・
目新しい事も特に書いてなかったし、なんだか拍子抜け。
こういう種類の書籍はどうしてもアフガニスタンの歴史、
著者の略歴、著者の仕事内容の紹介になりがちだと思うが、
もっとUNHCRならではのリアルなエピソードを読みたかった。
興味のある方はこちらをどうぞ。
http://www.i-nexus.org/gazette/kabul/index.html
【図書館】
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メディアでは分からない,現地の事を知る事の出来る良書.
現地で仕事をしてる・していた人にしか分からない・語れない事が,著者の視点・経験を通じて書かれており,決して机上の空論ではなく…
この本を初めて読んだ7年後,気になって山本さんの本を検索してみました.
本としては入手は厳しいけれど,ネット上でいくつか読めるので,気になった方は,検索して読まれる事をお薦めします.
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2001年刊行。著者は国連難民高等弁務官カブール事務所所長。ソ連のアフガニスタン侵攻が1979年。以来事実上、断続的な戦争状態であるアフガンであるが、著者は1993年以来、東京にいた期間を除き、隣国パキスタンにて勤務。そういう意味で、パキスタン・アフガニスタンの生の空気を伝えるには絶好の立ち位置にいる人物である。ただ、やや身辺雑記の様相が強く、さらには叙情と叙事との切り分けが余りなされない文体のためか、意見・事実の峻別が難しく、内容が散漫になってしまっている。惜しいなというのが正直な感想。
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19年前に書かれたアフガニスタンの状況を描いたノンフィクションです。
ジャーナリストではなく、国連の職員であるが故に、フラットな視点というよりも、実際に苦難に直面している人の救済に駆け回る人だからこその忸怩たる思いがにじみ出ています。自問自答に等しい部分もあり生々しい感情が見えます。
僕自身、同時多発テロの頃は何も考えず、正義のアメリカ、卑怯なイスラムという構図を鵜呑みにしていたと思います。
報復としてアメリカがミサイルを撃ち込んだと聞いても、一般市民の巻き添えが有っても仕方がない等と心の何処かで思っていたような気がします。思い出せない位にさほどの関心が無かったのだろうと思います。
声が大きい側(影響力という意味で)が正当性を主張すると、その正当性が正義という箱に落とし込まれて大義名分になります。
この声が大きいというのは主にアメリカでありました。これからはアメリカの覇権も揺らぎ世の中がどうなっていくかは分かりませんが。
タリバンが正当性を主張、アメリカが正当性を主張。どこまでも平行線のまま、本書から数年後ウサマビンラディンはアメリカに殺害されます。
国際社会にとってはテロリズムの旗頭をようやく摘み取ることが出来た、という事になりますが、イスラム社会と西欧主体(主にキリスト教)の社会との溝は一層深まったと思います。
本書では実際に現地で死に直面している人々が次々と死んでいく中、表面上の数字を右から左へ動かして満足する国際社会への怒りと諦観が感じられます。寒さと飢えで顔がネイビーブルーに変色した子供たち。彼らに一枚の毛布を掛けてやることが出来ずにいる自分。仕組みを超えることが出来ない自らへの怒り。
タリバンとアメリカは考え方が似ていると本文で何度も引用されていましたが、自らの普遍性と妥当性を疑わず多様性に心を向けることをしない非寛容は誰の心にもあるような気がします。
ファクトフルネスという本が非常に流行っています。どうも世の中は少しずつ良くなっているという事をデーターで示してくれている本のようで、僕もいずれ読んでみたいと思っています。
しかし、一部の人々が勝手に決定して制裁を加えたり、実際に物理的な攻撃を加えたりすることを止めることが出来ない社会が良くなっているとはとても思えないんですよね。この本から19年。状況が良くなっているのかどうか僕には判断付きません。
同国に関しては先日「わたしはマララ」という女性への教育を主張してタリバンに撃たれた少女の本を読みました。その本を読んで状況が良くなっているように見えなかったんです。マララの存在はイスラム女性のこれからには福音ですが、どうしてこんなにも人が人に寛容に相対する事が出来ないのか甚だ疑問です。
結局の所国同士の争いに民間人が巻き込まれるという事自体が、人間の限界点を示しているような気がしてなりません。強い方が勝つという一方的な理屈の中で何千年もやりくりしてきた人間社会が、いつの日かアップデートされた社会構成を見つけるのではないかと、子供の頃漠然と思っていたような気がします。どうもこれから1000年たってもそんな事は起こらないのだろうと悲観的な気持ちになります。
いい本というのは内包されている情報以上の物を我々に与えてくれます。この本もその情報というのは既に過去の物であります。しかし現在に至る地続きであることがとても感じられる本です。広く手に取って頂きたい本の一冊です。