投稿元:
レビューを見る
一昔前、柘植久慶という元フランス傭兵部隊の人のノンフィク本を結構読んでいて、そんなイメージを持って読んだのですが……。あ、あと、新潮文庫で出ていたA.J.クィネルの『燃える男』とか。
2000年前のギリシア時代の傭兵とか、ローマ時代の傭兵とかの殺伐とした背景をざっくり切り取った内容で、大まかすぎて面白いやら何やら今ひとつな印象です。近世に入ったら、面白くなることを期待。
投稿元:
レビューを見る
流れを掴む程度で良いので傭兵の歴史について知りたい。と思っていた時に出会えたこの本は読みやすくわかりやすく、ヨーロッパ軍事史に深く食い込む傭兵という存在を知る入口が欲しかった私の要望に十分応えてくれました。そういえば『アルプスの少女ハイジ』の原作ではアルムおんじが傭兵稼業をやっていた設定があったような? なんて事も思い出し、ハイジの舞台となったスイスでは傭兵輸出が国家産業だった時代が長い間あった歴史背景を改めて知り、無茶に思えたその設定が実は自然な成り行きだったという事も今になってようやく理解できました。
投稿元:
レビューを見る
中世から近代にかけての戦争をマイルストーンとする歴史を、傭兵という仕組み・制度を通して概観できる。最終章が少し軽んじられた印象。
投稿元:
レビューを見る
弟くんからの紹介本、というか強奪本。
『民間防衛』について熱く語ったら紹介してくれました。
相変わらずよく分からん引き出しを持ってる子である。
まず、言いたい。
巻末に年表が必要だと思うの!絶対。
時代感覚が分からんまんま読んでしまったよ…。(調べろよ。)
今まで概観で歴史を見てきてるので、ひとつの視点から見直すのは面白いよね。
「宗教」という視点ではやってみたことあるけど、「軍事」から見るのも面白そう。
まあそのためには概略の知識が必要だけどさ。
スイスの永世中立国としての固い決意は、400年にわたる「血の産業」を経た故なの…か?
惜しむらくは。
軍事(傭兵)の変遷から近代ナショナリズムを考える、ッてゆうテーマは凄く面白いと思ったけど、その割にはソコについての内容が少なくない?というコト。
フランス革命が端緒、という結論…?
投稿元:
レビューを見る
傭兵の歴史について簡潔にまとめた本。
スイスはユグノー戦争でフランスから時計職人が逃げてくる前までは、傭兵しか産業がなかったとか、へぇと思うことが多かった。
近代軍の父がルイ14世と言うのも意外だった。
傭兵の兵站とか徴収とか以外と判らない部分も明らかになっていて、非常に面白かった。
投稿元:
レビューを見る
ハプスブルク家12の物語と並行して読んでてあの戦争の裏でこんなことが!と舞台裏の一幕を覗いたようで中々楽しかった と思ったら参考文献に本書が
投稿元:
レビューを見る
「ナショナリズムの成立の仕組みをそのナショナリズムとは無縁の傭兵たちの歴史を見ることで逆説的に探った」一冊。
投稿元:
レビューを見る
傭兵の歴史を追うことで近代ナショナリズム成立を探る、は面白い視点なんだけど。
ヨーロッパ通史を前提に進むから、その辺がうろ覚えな私は「この時代のこの国、どこと仲良しだっけ?」「なんでこの王様、この国にしゃしゃって来るんだっけ??」とストレスフル。いい復習になりました。。。
「ナント勅令」で追い出されたユグノーがスイスの傭兵産業から時計産業への転換契機となった、ってのが印象的だった。
投稿元:
レビューを見る
古代よりヨーロッパでは国家間の争いにおいて戦争のプロフェッショナル集団である傭兵は必要不可欠であり、職業として認められていた。スイスでは国民に軍事教育を施し、傭兵として輸出するほどであった。さらに傭兵を使った略奪をスポンサー付きのビジネスにしたり、雇い主の国王の名で勝手に徴税したりと。
究極のブルーワーカーである傭兵だが、戦争が終わってしまえば、不要どころか抹殺されてしまうこともあった。それに対して傭兵側は戦闘する互いの傭兵が話し合い、わざと戦争を長引かせて、ギャラをもらい続けることもあった。
本書はそんな様々な傭兵の変遷の歴史を紹介する。
現代では、国家間の戦争は国民の愛国心のぶつかり合いであり、国民による正規軍が担う。カネで雇い主をコロコロと変える傭兵の出る幕は少なくなったが、ナショナリズムを持った傭兵という新たなタイプが求められているようだ。
投稿元:
レビューを見る
傭兵の興亡という視点からの欧州史。傭兵の歴史の概略。
ランツクネヒトやヴァレンシュタインあたりは単語しか知らなかったので点が線に繋がった。
ルイ14世のナントの勅令廃止がスイスでの時計産業の発達の基盤だったとは全く知らなかった。
投稿元:
レビューを見る
二千年史とあるが、中世ヨーロッパのみが主題で残りはおまけ程度。出典の記載が明確であり、特に邦訳がない本からの引用が多い点については評価できるが、著名な傭兵の人生に焦点を当てるでもなく、当時の情勢・生活を詳細に解説するわけでもなく、中途半端。戦闘教義の進化過程やそれに伴う傭兵の位置づけの変化が薄っすらと見えてくるのが、雑誌の袋とじを切らずに覗いているようで逆に気になってしょうがない。書き口は悪くないので、新書以外での著作を期待。
投稿元:
レビューを見る
面白かった。
ヨーロッパでの傭兵の成り立ちから、傭兵全盛を迎えその後、組織戦になっていく過程で傭兵が廃れていくまでを描いた作品です。
傭兵がどのように徴募され、いくさに送り込まれていくかも書かれています。
投稿元:
レビューを見る
書題の通り、古代オリエントから19世紀の国民国家の形成まで、西洋世界で用いられてきた傭兵、つまり「金のために自らを軍事力として売り渡してきた人々」の歴史を通して、「祖国のために自ら望んで軍事力となった人々」を主戦力とする近代国家のナショナリズムの形成について論証しようとした書。
“ しかしそれにしても不思議だ。「途方もない数の人々が自らの命を投げ出そうとした」ナショナリズムはどのようにして出来上がったのか? この「ナショナリズムの由来」(大澤真幸)を探る旅は途方もなく長く険しい。
この長い旅程にある男たちがたたずんでいる。地域愛郷主義のためでもない、ましてや祖国のためでもない。ひたすら己が食うため、生きるため、金のために、つまりは近代国家の祖国愛はむろんのこと、近代以前の地域愛郷主義ともまったく無縁に戦ってきた傭兵の群れである。彼らは王家の私利私欲が剥き出しな武力衝突となる無数の王朝戦争の際にも決して一つの特定の王朝に忠誠を誓うことはなかった。それでいてナショナリズムが生まれる近代以前、戦争は彼ら傭兵たちが主役であった。というよりか傭兵は古代オリエント以来、市民軍、封建正規軍、徴兵軍と並ぶ最も基本的な軍制の一つであった。つまり古来、戦争とは忠誠、祖国愛といった観念とは対極に位置していた傭兵たちによって担われていたのである。それがいつしかナショナリズムにより途方もない数の人々が祖国のために身を捨てる国民戦争に変質したのである。であるならば、これら傭兵たちの歴史を覗けばひょっとしたら近代のナショナリズムの仕組みが逆説的にほの見えてくるかもしれない。
本書はこんな淡い期待のもとに書かれた。”(本書5頁より引用)
著者の意図がどこまで果されたのかについては、失礼ながら疑問が残ると言わざるを得ない。ベネディクト・アンダーソンの出版資本主義により、ラテン語のような聖なる言語が俗語に取って代わられることと、俗語による読書家層が各国民・各民として、自らの住む行政単位の人々に「ネイション」を見出す過程に、とりわけアンダーソンが重視していた18世紀末のラテンアメリカのクレオール(クリオージョ)達による先駆的なネイション形成と、本書の傭兵の話がどのように結びつくのかは定かではない。ラテンアメリカの植民地時代にスペインの戦争に動員されたパラグアイの「イエズス会国家」に住む先住民族グアラニー人の戦士達は、本書で言う「傭兵」だったのか?あるいは、ラテンアメリカの独立革命に動員され、見放されたガウチョや黒人といった層の人々は、どこまで近代国家の国民軍であり、どこまで傭兵だったのか。1806年にブエノスアイレスにイギリス軍が侵攻した際に、イギリス軍を攘夷したポルテーニョ民兵隊はどこまで「ネイション」だったのか。以上は私がラテンアメリカに特別の興味を抱いているゆえの疑問だが、せっかくベネディクト・アンダーソンを叩き台とするのならば、やはり一章ほどで良いので章を割いて、西洋世界の傍流的な流れとしてのラテンアメリカの兵制とナショナリズムについて書いて欲しかった。
と、ここまで私の個人的な不満だが、それを差し引けば、本書はヨーロッパを中心とした西洋世界にあって、
“ つまり売春と傭兵はともに、やがて古代ギリシャ、ローマ、キリスト教文化と発展していくヨーロッパ文明の礎を築いた古代オリエントの時代に既に自分の生身を切り売りして銭を手にする哀しい職業として存在していたのである。売春と傭兵家業の最大の共通点はその古さにあるというわけである。だとすれば、「売春が世界最古の職業ならば、俺たち傭兵は世界で二番目に古い職業についている」(『傭兵部隊』ジェイムズ・マギー)という二十世紀のある傭兵隊員の科白もあながち間違いとはいえないだろう。ともあれ、傭兵制は古代オリエントにおいて、最も基本的な軍事制度の一つに組み入れられていたのである。”(15頁より引用)
という、自らの身体を金に変える点で売春に次ぐ古さを持つ、傭兵という仕事について、豊富な知見を提供してくれる本となっている。とりわけ本書で興味深かったのは、中世南ドイツのランツクネヒトのように、自由を求めて傭兵部隊に加わった人々が、絶対主義国家が形成された近世にあっては、完全に国家権力の手駒でしかなくなったしまったという点の指摘だった。
なお、著者は親切なことに、「本書の種本」(本書224頁より引用)として、次の四冊を挙げているので、興味がある方はこれらの書に当たってみるといいかもしれない。
・アルバート・ホッホハイマー『裏切られて、売られて』(邦訳なし)
・ラインハルト・バウマン『ドイツ傭兵(ランツクネヒト)の文化史』(新評論)
・京都大学文学部西洋史研究室編『傭兵制度の歴史的研究』(比叡書房)
・藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)
内容に関して少しだけ概略すると、冒頭で売春と共に触れられている古代オリエントの傭兵制の後、アテナイを例とした古代ギリシャの都市国家の兵制は当初は市民による志願兵制だったが、アテナイそのものの帝国化と共に、市民階級が戦争や疫病などで経済的基盤を失って没落するとともに、都市国家は軍事力を傭兵に頼るようになる(本書16-23頁)。私が本書で興味深かったのは、ギリシャの後のローマや、ルネサンス時代のイタリアの都市国家フィレンツェなど、西洋世界の都市国家でこの例が何度となく繰り返されている点についての指摘だった(29-33頁、56-57頁)。
都市国家以外の中世ヨーロッパの傭兵制は、カール大帝が築き上げた封建制度の中の正規軍だった騎士階級から、中世ヨーロッパの経済成長による貨幣経済の進展を背景に、相次ぐ戦乱の中で土地によらず金によって自らの生命を軍事力として売るということが常態化したとのことである(38-48頁)。また、14世紀にスイス農民兵部隊がハプスブルク家の皇帝軍を打ち破ったことを契機に、スイス傭兵の評判が高まり、1474年にフランス王国とスイス傭兵隊の契約が結ばれた(72-76頁)。スイス傭兵に次ぎ、南ドイツ出身の傭兵「ランツクネヒト」は中世後期~近世ヨーロッパの傭兵として名を馳せた((86-110頁)。本書ではランツクネヒトについて詳しく記されている。
“……軍隊に制服が導入されたのは近代以降のことだ。つまり傭兵たちは皆てんでんばらばらの格好をしている。つぎはぎだらけのみすぼらしい者も���れば、少し金回りのよい者は派手に着飾っている。
ランツクネヒトの世界に飛び込んでくるのは故郷で食い詰め、定住社会に背を向けた連中が大半である。彼らは故郷にしがみつくことでそこそこ食べていける小心者たちを負け惜しみを兼ねて思いっきり馬鹿にしたがる。やつらには自由がない、と。そして彼らは村を離れ、都市を離れて得た「自由」をとてつもなく異様な衣装で表現するのだ。"
(本書93-94頁より引用)
“ ランツクネヒトのアイデンティティーの根幹をなしているのは「自由戦士」像である。兵士たちはよんどころない事情で傭兵稼業に身をやつしていても、ランツクネヒト部隊に身を投じるかどうかは基本的には兵士たちの意志による。ここに兵士たちの共同決定権の根源がある。軍隊史上稀に見るランツクネヒト部隊の民主制が傭兵隊長を始めとする軍当局の様々な締め付けにより単なる擬制に過ぎなかったとしても、その擬制を存続させ得るエネルギーが兵士たちにはあった。だからこそ彼らは軍当局の理不尽な命令には不服従をもって応えたのである。”(本書125頁より引用)
ランツクネヒトは「自由」を求めて傭兵になった人々の集まりであったが、近世に入り17世紀の三十年戦争で萌芽的に芽生えたナショナリズム(167-168頁)や、ヨーロッパの諸王国の絶対主義化により、次第に傭兵から「自由」が失われ、18世紀には君主の命令で死地に赴く戦争の駒となっていった(185-187頁)。
他方、17世紀前半にオランダのマウリッツの下で進んだ軍制改革は、プロイセンを筆頭にヨーロッパ中に波及し、傭兵に頼る戦争のあり方を時代遅れのものとしていった。ヨーロッパ初の士官学校であるオランダのジーゲン士官学校の開校が1616年、プロイセンの陸軍幼年学校の開校が1704年、イギリスの士官学校の開校が1747年、フランスの士官学校の開校が1776年(194頁)。ヨーロッパ主要国は、絶対主義時代の終わり頃に、傭兵隊長ごと傭兵部隊を金で雇う方式から、自前の士官学校で育てた将校に兵卒の指揮を執らせる方針に切り替えていた。
1789年のフランス革命勃発後、1792年9月20日にヴァルミーの戦いでフランス革命軍がオーストリア・プロイセンの同盟軍を破ったことにより、傭兵に頼る絶対主義の軍制は終わりを迎え、国民軍の時代が始まった(206-210頁)。19世紀に入ると、古代オリエント以来基本的な兵制であった傭兵制は廃れ、自由の名の下に拡大した徴兵制による国民軍が戦争の主役となる(214頁)。ただし、事実上の傭兵部隊である外国人部隊を作り出したのもフランスであった(215頁)。1831年にオルレアン朝のルイ・フィリップにより創設されたフランス外人部隊はその後の帝政や共和制への移行後も存続しつづけ、フランス帝国主義の植民地戦争の最前線に投入されることになる(215-217頁)。
本書の最後の本の数頁に、フランス外人部隊に身を投じた人々の、出身国にいた際のデータについて触れられているが、意外なことに医者や法律家のような専門職や、イギリスやモナコやセルビアの王族の姿がそこには存在する(218-219頁)。
“ かつてランツクネヒト部隊には食い詰めた都市プロレタリアートや貧農が食うために群れをなして入隊してきたが、なかには都市貴族の子弟、れっきとした���民、職人、学生、富農の連中がわざわざ飛び込んできた。いずれも静謐な定住身分社会に飽き足らぬ冒険野郎たちである。
フランス外人部隊に身を投じた君主一族や門閥の子弟、医者や学者や音楽家もその類であろう。そして逃亡ドイツ兵の大部分も、恐らくは巨大な機械に変質した近代の国民軍という組織の持つ個を圧殺する原理に背を向けたのであろう。”(本書219頁より引用)
ひょっとしたら傭兵というあり方は、殺生を身に課すことで自由を生きるという生き方の選択だったのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
学者が日本語で書いた文章は形式張っていたり賢く見せたいだったりで読みにくいことがあるが、本書は読みやすい文章でスラスラ読めた。
著者の専門は中世から近世のようで、古代や現代の情報は薄い印象(というより中世〜近世がかなり厚い)。
私は「傭兵と言えば三十年戦争」と思っていたのでその様子が詳しく記述され、そして思っていた以上に酷い有様で書いてあったので満足している。
同時期に読んでいるフォン=クラウゼヴィッツの『戦争論』が軍人の立場から書かれたものなら、本書は戦争経験も徴兵経験も無い純粋な学者の側面から書かれたもので、その対比は面白かった。
特に、クラウゼヴィッツが著書のところどころで絶賛しているフリードリッヒ大王を、したたかで冷酷(サイコパス的にも読める)な人物として書いているのは面白い。
「傭兵=食い詰めの厄介者」のイメージだったが、イメージよりももっと酷く、平時には即座に野盗化するので定期的に戦争をしたり、十字軍で外へ吐き出したりしているのも歴史の裏側を見ているようで、新たな知見となった。第4回の十字軍全体が盗賊化したのを不思議に思っていたが納得である。
非常にあっさりとしたあとがき(;平易な文章と合わせても自分を飾るためではなく、読者を考えて本書を執筆したのだろうなと思わせる、彼の講義を聴いてみたかったと思うような内容だった)で、傭兵についての資料の少なさや日本語翻訳がなされていない物が多いこともわかった。
これは傭兵が一般的では無くなったが故に研究対象として遠い存在となってしまったためなのか、倫理観に許されない行為のオンパレードだから研究の対象に適さないのか。どっちなのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
古代から近代、現代までの”傭兵”について、軽妙な語り口で解説している良書。
金銭で雇われて、命を賭けて戦地に赴く。
その動機はさまざまであり、また、時代とともに変遷していく。
スイスがなぜ時計の一大立国になったのか、その背景に傭兵集団があったとは知らなかった。
また、秘伝の砲兵技術をこっそり漏らしてしまった名もなき傭兵の話、同じ民族で戦う馬鹿らしさから戦争放棄する話とか、いろいろ興味深かった。