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紙の本
「律義なせつなさ」をかかえた人たちの素敵な肖像
2003/02/21 18:48
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:服部滋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
くらしが/夢のように/なってから/夢はほとんど/みなくなった/ねむっているとき/わたしはたぶん/はっきりと/現実的に/どたりと/希望もなくねむっている(辻征夫「睡眠」全篇)
カフカの夢日記を思わせるような詩だ。辻さんには「老婆殺し」や「学校の思い出」「ジャックナイフ」といったカフカっぽい散文詩があって、じっさい「ジャックナイフ」にはカフカの小説「兄弟殺し」が引用されていたりもする。
現代詩文庫の『辻征夫詩集』に清水哲男さんが「”辻クン”のジャックナイフ」という文章を寄せていて、辻さんのことを「私にはなんとなくせつなさが洋服を着て、せつなさがネクタイをしているような印象を、いつも受けてきた」と書いている。そういえば、ボヘミア王国労働者災害保険局法規課職員フランツ・カフカにも、清水さんのいう「律義なせつなさ」がうかがえるような気がしないでもない。
清水さんは「彼の前に出ると(略)誰だって自分のほうがヤクザな生きかたをしているように思ってしまうのではないか」とも書いている。「そんなせつなさを”辻クン”は生得のものとして曳きずっているような気がするのである」と。それを「親和力」と清水さんは呼んでいるのだけれど、どうやら辻さんもまたそうした「律義なせつなさ」を感じさせる人たちに惹かれるところがあるようだ。本書の表題ともなったセロ弾きのゴーシュにしても、いや宮沢賢治にしてからが、そんなせつなさを曳きずっている人じゃあるまいか。
本書は二年前に急逝した辻さんの遺稿集で、詩の話、詩人の話、日常のくさぐさを活写したエッセイからなるのだけれど、「詩はかんたんにいえば滑稽と悲哀ではないだろうか」と書いているように、本書のいたるところにネクタイをしたせつなさのような「滑稽と悲哀」への親和がうかがえる。小沢信男さんの句集にふれた文章を読んでいて、そういえば小沢さんも、いや、ぼくの大好きな小沢さんの小説「わが忘れなば」(傑作だ!)こそ、「滑稽と悲哀」そのものじゃないかと思ったりした。
——この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ
そうでしょう、辻さん。
ぼくはいささか「せつなさ」に、あるいは「滑稽と悲哀」に拘泥しすぎているのだろうか。だけど、滑稽とも悲哀とも無縁のような谷川雁の肖像を描くときでさえ、辻さんの筆にかかるとたちまち滑稽味と一抹の哀愁とを帯びてくるから不思議だ。思潮社の編集者だった辻さんが仕事の依頼で雁さんを訪問し、なぜか喧嘩になってしまう。号令一下、九州から荒くれ男を招集して思潮社を潰してしまうぞと脅す雁さんに対し、辻さんは「売れない詩集の束を雨あられと」投げつけて応戦する自分を夢想する——。
柳澤慎一さんにふれた文章がある。編集者と一緒にビールを飲みに入った浅草のお店で、辻さんは柳澤さんのジャズ演奏と歌に出会う。柳澤さんはかつて一世を風靡したエンタテイナーで名バイプレイヤー、「ひょっこりひょうたん島」や「奥様は魔女」の声優でもあった。柳澤さんもまた「律義なせつなさ」を感じさせる人のひとりだ。編集者の勧めであらためて柳澤さんと会って話を聞くことになったのも、自分と同じ一族の匂いをかれにかぎつけたからかもしれない。
柳澤さんは二年前に『明治大正スクラッチノイズ』という本を上梓された。軽妙洒脱な文章でつづった大衆芸能文化史。とてもオモシロイ本で、あまり人に知られていないのがもったいなくてならない。本書『ゴーシュの肖像』もまた置いている書店は少ない。こんな本こそbk1で取り寄せて多くの人に読んでもらいたい——柳澤さんの本の編集をお手伝いさせていただいたぼくとしては切にそう願わざるをえない。辻さんに柳澤さんの本をお見せできなかったのが、いまはかえすがえすも心残りである。 (bk1ブックナビゲーター:服部滋/編集者)
紙の本
短文の一つ一つが心奥にじわっととどく
2002/02/26 22:15
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投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ぼくは詩の読み手ではないが、岡田隆彦、吉増剛造、長田弘、辻征夫らはたまたま同年ということもあり、学生時代から注目してきた。岡田隆彦はたしか50代で他界、辻征夫も一昨年、逝った。辻の場合は死の前年、一般的にはいささか風変わりだが、考えようによってはいかにも彼らし小説と短篇集『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』(新潮社)、『ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像』(書肆山田)の2冊を世に問うた。晩年は作家の道を歩むのかなと思っていたら、長い闘病生活の後、逝ってしまったのだ。彼の死後、『貨物船句集』(書肆山田)も出たので、おそらくこれが最後の本だろうと考えていたら、またまた分厚いエッセイ集が刊行された。
内容は、1990年から00年まで、さまざま新聞雑誌に書いた単行本未収録の文章を、ほぼ全篇集めたものである。辻征夫の文は、詩も散文も平易、内容も肩肘張ったものではない。しかし、本質を見抜く眼力には確かなものがあり、それが魅力の一つにもなっていた。彼は、あるエッセイで書いている。詩とは何かと。
ここに一人の男がいて、彼は外に出る。むろん書斎にいても、半坪にも満たぬ洗面所でもかまわない。が、ここでは一例として外に出ることにしよう。場所は自然のただなか、山が見え、森があり、風が吹いている。「このとき男が発する言葉、これが詩の<始まり>である。それは、単に、ああという音かもしれない。ああいいなああああという吐息のようなものかもしれない。あるいは、こんな言葉かもしれない。「海だべがど、 おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい/ホウ/髪毛 風吹けば/鹿踊りだぢやい」「これは宮沢賢治の小品だが、これを、宮沢賢治が作ったというと、ちょっとちがう。たまたま宮沢賢治という肉体をもった一人の男が山野に立ったとき、こういう言葉がその肉体を通り過ぎた、ということなのである」。
そして辻征夫は、ある冬、夜半から下痢に苦しんだ話を挿入する。朝まで何度も手洗いに立ち、その度に居間を通り抜けた。居間の円形の木のテーブル上には、「読みかけの本や紙片、色鉛筆や万年筆などが乱雑に置いてある」。何度目かの時、「卓上の紙片と色鉛筆を手に取り、手洗いで十数行の詩句を一気に書いた」。それは子供の頃から好きだった海と海賊の出てくる詩で、「下痢はおろか手洗いの狭い空間を暗示する要素」すらない。「いったいこれはどういうことなのだうか」「人間の内部では何が起きているかわからない。何が起きていても不思議はないと考えながら、辻流現代詩の<男>は、ごく普通に生きている」。
谷川俊太郎の詩集を論じた文に、こんなものもある。
「ホテルの窓から私の見ているのは水平線/飢えながら生きてきた人よ/私を拷問すればいい」(谷川俊太郎「鳥羽2」より)。「これらはみな自分を糾弾せよという挑発であって、こういう挑発には敏感に応えるのが礼儀というものだが、社会は鈍感なので、谷川俊太郎を最も口あたりのいい、ここちよい詩人だと思いこんじまっている。気の毒でならない」。彼は別のところで、「詩とはかんたんにいえば滑稽と悲哀ではないか」と書いている。辻征夫のようなタイプの詩人が少なくなった昨今、短文の一つ一つが心奥にじわっととどく。
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