紙の本
“こどもの疑問”をめぐる記憶
2002/05/26 18:23
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
文庫版解説でドナルド・キーンが「世界の文学を広く読んでもクイちゃんほど、面白みをそなえた少年は少ないだろう」と書いている。クイちゃんというのは本編の語り手の「僕」こと「中野さん」の五歳になる息子圭太のことで、著者によるとそのモデルはうちで飼っていた猫なのだそうだ(『アウトブリード』に収められた「『季節の記憶』の記憶とそれ以降」)。
そういえば「僕」の家から道をはさんで三軒先の松井さんのところに生後半年くらいで迷い込んできた猫の茶々丸とひたすら遊ぶクイちゃんは、たしかに猫を思わせる愛らしさときかん気と臆病さと無邪気さをもっている。そのクイちゃんがおばあちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらって、「猫はもう死んじゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃんだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどうしても納得できないところからこの作品ははじまる。
その後かわされる「僕」と松井さんや美砂ちゃんや蝦乃木との会話──茶々丸のアタマのちっちゃさや人生の一回性、機能と構造、自由律俳句や「世界」と触れ合うこと、言葉がシステムとして閉じられていること、自我と自意識の関係、量子力学にまつわるわかりにくさや混乱は無意識の中で起こっていることを普通に意識しているときの論理や時間性の中で考えようとすることから起こる混乱と似ていること、有機体の複雑さの奥に流れつづけるほとんど無機的といっていいような現象のこと、「世界」や「時間」は「死」の置き換えであること、定義とリアリティと物事の変化をめぐる考察、等々──はすべてこの「子どもの疑問」をめぐる「堂々めぐり」であって、この堂々めぐりが続くかぎり、保坂和志が創造した小説に流れる時間は、クイちゃんにとって「赤ちゃんだったパパ」ともう死んじゃった「猫」がそうであるように、永遠のうちに置き去りにされ、記憶として存在しつづけていくだろう。
以下は余談だが、『もうひとつの季節』の「物事の変化」をめぐる会話のなかで「頼朝八歳の頭蓋骨」の話が出てくる。養老孟司の『人間科学』にも「頼朝公六歳のみぎりの頭骨」という小咄についての言及が出てきて、いずれも、変化するものと変化しないもの、養老本のキーワードを使えば「実体」と「情報」がクロスする重要な場面転換を担っている。『季節の記憶』(中公文庫)の解説を養老氏が書いている、といった表面的な切り結びを超えて、保坂和志と養老孟司の二人は何かしら深いところでつながっているように思えてならない。
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「季節の記憶」のサブテキスト的小説だが、登場人物が素敵すぎて僕はこれ一冊だけでも大丈夫です。猫を抱きたくなる。
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わたしは保坂さんが好きで、いちいちゆっていることも笑えてうなずけて、読んでて楽しいことは楽しいんやけれども、それとこれが傑作かってゆうのは別の話で、保坂さんでゆえば猫に時間のナントカとかカンバセイション・ピースとかプレーンソングあたりになって、でもたとえばキヨシロさんが歌っていたりするとなんかほっとするみたいに、保坂さんのをよんでいるのは安心する。さらに、心に残るとかはまた別の話になって、タイミングなんかがばっちりやと全然傑作でもないし上手くもないようなのがはまったりもするし、もひとつ、ぴったりはまるようなのは、半分寝ぼけてよんでたってちゃんと残るからあんまり気負う必要はない、ってこと。話それてた。猫が年下とか対等じゃない関係とか季節のシリーズにきづかされたことはいっぱいあって、読んでて好きは好きなんやけど、ほかのみたいに動きがあんまりなくって(ほかのは特になにもおきてなくてももっと動いている)、頭でっかちな印象、それをクイちゃんの存在がやわらげている。
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この人のやつ読むといい感じに調子狂う。で心地よくなる。はずだけどこれは前作よりか短くあっさり終了。まとまってる感じ
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「季節の記憶」の続編的作品。物語としてはたぶん4.5日間程度の話で、読んでいて「季節の記憶」ほどの絶頂感はない。「季節の記憶」を読んでいると感じるあの絶頂感は、あの長さだったからこそ出てきたのだろうか。正直、この作品ももっともっと長く長く続いていけば、もっともっと面白くなっただろうに、と少し残念な気分になった。けれども、この作品の頃の保坂さんのモードってのは、何か少し読み取れる。(06/11/4)
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「もうひとつの季節」は谷崎潤一郎賞を受賞した「季節の記憶」の続編。
まあ結局続編に過ぎないので別に読まなくても良いかと。「季節の記憶」の方が視点や考え方も鋭いし、やはりそっちを読んだほうがいい。
猫を返しに行く話で本は幕を閉じるが、美沙ちゃんとの中は別に進展しないし、クイちゃんが成長しているようにも思えない。続編というよりまた別の話では。
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『季節の記憶』の続きというか一緒というか・・・
登場人物が大きくなったり違うことしたりはしていなくて
一匹ネコが増えただけだから、あまり続きという感じはしない。
頭がよくて、丁寧な人は素敵だなぁというのが、感想。
しかし前作で「はらはら」と書いていたところを
「ハラハラ」と書くようになったのはなぜかしら。
小説の中では時間がたっていないけど
実際はふたつの小説の間に3年とかの時間があったからかしら。
こっちの解説はドナルド・キーン。ん〜。
この人をバカ呼ばわりするわけにはいかないけど
あんまり合わないみたいです、私とは。
「哲学」って「哲学」と呼ばれたときから何かを失う気もする。
私がひねくれものだからだろうか、そうだろうか、よくわかんない。
前作に比べ、大分短いので、欲求不満が残る形となりました。
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前作『季節の記憶』の続編。
『季節の記憶』ほどの面白さはないかな。
やっぱり圧倒的に短いし。
ただ『季節の記憶』になかった挿絵がたくさん挟まれていて、それが良い味だしてます。
息子どうなってるんだろう、いまごろ。
(・・って勝手にクィちゃんを実在の子供にしちゃってるけど、大丈夫なのかな?)
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やわらかな、のんびりした時間を過ごさせてくれる一冊。
松井さん&美紗ちゃん兄弟がいいなぁ。
子どもって、表現する術を知らないだけで、
結構色んなことわかってるんだよね。
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すこし最後は猫を動かして冒頭部分からの問題の『解決』にこだわろうとしたのが、「わかりやすくて面白かった」で済ませてよいものかとも思ったが、わかりやすくしないと勿体ないような小説だったかもしれない。いろんな人が手にとるといいなと思う。
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「季節の記憶」の1ヶ月後くらいのお話。
登場人物たちの哲学的な会話は相変わらずで、分かるような分からないような会話が続く。楽しい。新たに猫の茶々丸が加わり、夕食時の描写がにぎやか。鎌倉に住みたくなる。
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前作「季節の記憶」の続編。
大きく変わる部分は無く、変わらない日常の中で変わらず思考しつづける話。
主人公の息子のクイちゃんと猫の行動が本当に魅力的で、その描写だけでも読む価値があると思うけど、鎌倉でいい大人が好き勝手に生活している雰囲気がとても心地いい。
前作を読んで気に入った人なら読んで損は無し。
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『季節の記憶』の続編。解説はドナルド・キーンさん。
「時間」について考えることが多い。終盤で猫の茶々丸が「迷い猫」として探されているという展開になった時は、今までにない、ちょっと大きなできごととして、読んでいる私の目の前にも立ちはだかってきて、同じ目線で一喜一憂した。居心地のよい関係の一部が喪失するかに思えたけれど、そんなことはなくてちょっと安心した。
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作中に出てくる野菜スープみたいに、読むとほっこりしてしまう。
冒頭から、クイちゃんはでんぐり返りに励んでいて、あいかわらずかわいらしい。朝食からクイちゃんは質問を飛ばしまくっている。
「ねえ。パパ。あの写真はパパが赤ちゃんだったパパ、なんだよねえ」・・・
「ねえ、パパ。猫はどうしたの?」
「猫かあ。猫はもう死んじゃったな」
「え! 死んじゃったの。ヒョエーッ!」
「じゃあ、赤ちゃんも死んじゃったんだ」
「赤ちゃんはパパになったんだよ」
五歳のクイちゃんは、パパにも赤ちゃんの時代があることをだいたいは理解しているけれども、実際に赤ちゃん時代のパパの写真をみても、ちょっとそれがパパだとはうまいこと理解できないみたいで。この微妙な感覚を、クイちゃんを通して表す保坂和志という人が、私はますます好きになってしまう。
大人達がちょっと真面目な話をしているところで、猫の茶々丸が炬燵に飛び込み、クイちゃんも茶々丸を追いかけて駆け回ったりして、会話が中断されたりするのも、小説を読んでいるはずの自分もその場の空気を共有しているような感じがして、終始心地いい。
茶々丸を元の飼い主と思しき人のもとへ連れて行くかどうするかのくだりでは、僕と松井さん美紗ちゃんとおんなじ気持ちになってドキドキドキドキした。
これから先、『さらにもうひとつの季節』みたいな続編が出ればいいのになと思う。
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大人の童話のようでありながら、哲学的内容が随所に現れてきます。でも、なんといっても魅力的なのは、主人公とその息子クイちゃん、便利屋の松井さんとその妹、それと猫の茶々丸。この四人と一匹の関係のほんわりとした温かさが羨ましい。このような関係の永続性をつい願ってしまうのですが、悲しいかなそれは叶えられないものです。だから、その刻その刻の束の間の関係が愛しく、振り返ると切なくなるのです。