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日本の毛沢東主義者による、「自然」という概念の形成を追った書。本書は著者が1999年に死去した後、遺稿集をまとめて出版したものである。
第一部「ひどく乱れた「自然」という言葉」では、1990年代の日本やアメリカ合衆国に於ける、コマーシャルや環境保護運動の中で雑多に用いられる「自然」概念の乱用が整理される。第二部「「自然」という概念」では、1990年代に英語のnature、日本語の「自然」という言葉の概念が整理され、第三部「「自然」概念の形成史」では、中国、日本、ヨーロッパの古代から18世紀に至る哲学者や思想家の用例の中で、現在用いられているnatureの意味での自然という概念が形成されてきた様子を追った思想史となっている。
ざっくりと本書を要約すると、中国では古代から19世紀末まで、3000年近い用例を通して「自然」という言葉は「自ずから然り」という意味で用いられ、英語のnatureの概念は生まれなかった(172-197頁)。日本での「自然」という言葉の用いられ方も、「おのずから」を出ることは、後述する安藤昌益の用例を除いて古代から訳語の定着する19世紀末まで存在しなかった(242頁)。
著者は、”東洋的に表現すれば、自然とは「天地」と「万物」との総体である”(39頁より引用)と定義した上で、漢語の「天地」と「万物」は別々の概念として捉えられ、両語の意味を合わせた自然界=natureという概念は、ついに中国では生まれなかったことが確認される(166-167頁)。
ヨーロッパでは、古代ギリシアの「フュシス」という言葉が、「自然界」=natureとして捉えられることもあるが、この説は
”……しかしこれは近代人の錯覚である。近代ヨーロッパでフュシスをnatureと訳したことによって、古い昔から「自然」概念が存在し、それがフュシスであったと思いこまれたに過ぎない。
しかし実体的な対象的外界をあらわす集合名詞である現代語の「自然界」と、古代のフュシスとは、じつは意味内容をまったく異にする。フュシスは実体的な「自然界」というよりは、「存在のいわれ」「実在の原理」といった抽象的内容の言葉である。強いて古代のやまと言葉に求めれば、「うみなす」とか「むすひ」とかに近く、「おのずから」と大差あるものではない。”
(本書248頁より引用)
として否定される。
“ ヨーロッパにおいても「自然」概念は昔から存在していたわけではない。古代の素朴と、中世の神学支配のもとでは、「自然」概念は成立すべくもなかったのである。
対象的外界の総体を「自然」と呼びはじめるのは、明らかにルネッサンス以後である。
いわばヨーロッパ人は、中世神学の頑迷固陋と闘いながら「自然」を見出すのである。”
(本書262頁より引用)
と、16世紀のシェイクスピアから18世紀の啓蒙思想家までの思想が検討される。本書ではあ、現在まで続く「自然界」の意味でのnatureを確立したのは百科全書派のディドロだったことが結論付けられる(308-310頁)。
なお、著者はレオナルド・ダ・ヴィンチ(263-264頁)と安藤昌益(220-226頁)が、それぞれ孤立しながら「自然界」=natureの意味での自然を発見したことを論じているが、いずれも後が続かなかったことを残念がっている。
そして、ディドロの確立した「自然界」=natureの訳語に、それまでの漢語の「自然」という言葉を当てたのは森鴎外であり、概ね明治22年=1889年頃であったことが結論づけられている(237-242頁)。
なお、著者は第一部でディープ・エコロジー派やガイア論を批判しつつ、「人間が自然を守る」ことに際しての心構えを述べている。興味深いので引用する。
“ 自然は絶えず変動するものであって、自然それ自体が「自然を守る」ことはあり得ない。「自然を守る」とは、そもそも人間の行為であり、人間の自然改造力による。人間の自然改造力が、自然を破壊するばあいと、自然を守るばあいとがあるのである。「砂漠緑化」のばあいは、人間の自然改造力が直接に自然と立ち向かっている。だが、資本の乱開発による自然破壊に抗して自然を守ろうとするばあいは、人間と人間との闘いを通じて人間は自然と関係する。
「自然を守る」ということは、矛盾をはらんだ行為だということを、大前提として踏まえておく必(←31頁32頁→)要がある。それは自然それ自体が巨大な矛盾運動をしているからである。
そうでないと、なにごとも自然のままにというだけで一切の人為を排する無気力な無為の思想や、自然を絶対視し神格化する宗教になったり、あるいは自然との「調和」「共生」「一体化」という無内容な抽象語を並べたてて事終われりとするようなことにもなろう。”
(本書31-32頁より引用)
“ 概してエコロジー派は自然の恵みのみを強調し、自然の脅威を見落としている。自然には、「天恵」「天徳」も「天滋」「天祐」もあるが、他面では「天怒」「天害」も「天患」「天災」もあり「天刑」「天罰」さえもあることを忘れていることが多い。センチメンタルな甘ったるい心情でつきあえるほど自然はひと筋縄のものではない。だからコンラート・ローレンツは「悪の自然誌」という副題の『攻撃』という書物を書いた。”
(本書56頁より引用)
ジャイナ教徒に関する記述など(47-50頁)、疑問に思う点も存在するが、「自然を守る」ということについて考え上で読んで損はない一冊であった。