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「お任せ」から離脱する可能性を示す一つの傾向は、最近しばしば出会うようになった「セルフ・メディケーション」という概念です。自分の健康には自分が責任を持つ、禁煙はもとより、日ごろの鍛錬なども含め、できるだけ病気にかからないように自ら努力をする、さらには、風邪をひいても、直ぐ医療機関にかかるというのではなく、自分で出来ると思われる治療は自分でしようというのがこの概念の骨子です。(p.11)
あまり極端に人間の都合だけを考えた遺伝子組み換えを行ってはいけない、特にそれを自然界の中に放つことには大きな危険がある、ということだけは私はかなり強く感じています。一方で、虫害や病害に強いとされるジャガイモや大豆を食べたからといって、われわれの健康がおかしくなるということは、もちろん十分な検査(例えば医療品の場合の臨床実験のような)をした上で、という条件は大切ですが、基本的にはあまり考えられないと私は思っています。(p.77)
そういうものを「所有する」と言う時の所有という構造は、どのように可能なのだろうかという問いがあるわけですよね。「患者の自己決定権」という言い方をした時にも、例えば臓器移植について、「自分は自分の肝臓をそんなふうに使われるのは嫌だ」と臓器移植をしないことを表明した立場と、「自分の臓器なのだから、死んだあと、脳死したあとはどこかに役立ててください」という立場とは、どちらも論理は同じなんですね。その論理の裏側にあるのは、臓器なら臓器、もっと大きなことを言えば自分の身体は自分の所有物であるという「所有の構造」の問題が、そこで非常にはっきりと表れるわけです。(p.136)
結局、一つの問題から入っていっても、行き着くところはやはりここでも別の問題と関連しているなという感じは確かに受けますね。やはりそれは、生命という問題を―それは必ずしもヒトに限らず、動物にしても植物にしても含めてもいいのですが―生命というのはやはりわれわれにとって特別な存在であって、自動車とかコンピューターいうのを相手にしている時とは、やはり少し違う考え方になりますね。それが出発点であると同時に、着地点でもあるのではないでしょうか。なかなかすっきりした結論を導き出すのは難しいのです。(p.142)