紙の本
行き止まりの激情
2009/08/30 16:01
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
冒頭から自然主義への激しい攻撃が始まって何事かと思いきや、むしろそれは当時の文壇、自然主義を消化しきれない作家達への苛立ちであると分かる。主人公はそんな人々からは距離をおいていて、崇高な精神の表現への渇望から聖的なもの、霊的なものを模索する。
100年戦争の時にジャンヌ・ダルクを護衛を務めたジル・ド・レー元帥は、その後領地に戻ったが財政欠乏により錬金術に走ったと言う。そして試行錯誤の末に、ある魔術師の言辞に従い黒ミサ紛いの残忍な儀式に溺れる。ジル・ド・レーは高貴な魂の持ち主であると同時に、領民を恐怖のどん底に突き落とす邪悪な狂気も併せ持っていたと思しきものがある。主人公はその伝記を手がけているところなのだ。
この伝記の後半からクライマックスにいたる部分が作中作のように、主人公の日常に並行して語られ、そのおぞましさと奇妙さの同居する精神世界に深く分け入っていく主人公は、中世から連綿と続く異端の儀式に辿り着く。主人公の周囲の閉塞したコミュニティに聖女のように侵入して来た女がその手引き役でもあった。卑俗な世間に対する批判的で攻撃的な思想、現代では失われてしまった繊細で強靭な芸術と精神の交わり、その対極にある欲情に堕ち込んでいく魂。引き裂かれた彼の日常がパリの裏通りで綿々と綴られ、しかし表通りでは市民達による熱狂的な政治運動が吹き荒れている。
彼の歩む迷路にまったく出口はなく、明るい道も無い。堕落した正統的世界にも、悪魔信仰の汚らしさにも幻滅してしまったら。
そうやって辿る青年の絶望への道。社会や自分の人生に対するのではく、思想の行き着く先にある絶望。しかしそれを書き記す小説と言う形態は彼の手に残っている。
そんな福音は喜ばしいのかどうかも分からない。
たしかに希望の小さな芽は、世界のところどころには見つけることが出来るが、確かなものと信じていいのだろうか。
どれだけ思考を巡らし、探索を深めても、不安の行き着く先は無く、自らが新しいものを生み出し続けていくしか無い。そうしたところで彼は中世を再現できるわけでもなければ、現代において評価されるとも分からない。そういった孤絶の中で進む道を定めようとする意思が、思想に仮託して表現されているように思う。
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ジャンヌ・ダルクの部下として戦い、若くして元帥にまでなった男
というより
恐怖!小児連続殺人祭り男!「青ひげ」の元ネタとしてのほうが有名な
ジル・ド・レ公のお話。
そこらにさほどロマンはなく、
人間お金があると…それがなくなると、果てしなくバカになるねえ、というお話です!
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神の裁きも救いも忘れて生きている人々。腐敗している教会や司祭。そんな時代に絶望しながら生きる主人公の小説家は、遥かなる古きよき時代を想う。中世フランス。その時代には神秘主義や悪魔信仰があった。占星術、魔術、呪詛といった超自然的現象が起こった。人は神を敬い、時には恐れ、時には冒涜した。信仰心と背徳と倒錯が隣り合わせで存在していた。そんな時代が生んだ稀代の大量異常殺人者・ジル・ド・レイ。小説家は、ジルが見た神を、狂気を、快感を、神秘を、想像する。
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主人公はジル・ド・レイの生涯を執筆する作者
なんかこんなの読んでたら賢くなるかな~程度で手に取ってしまいました。
そういうんじゃ無いのね、黒ミサや悪魔主義、ジル・ド・レイに興味があれば面白いのかな~
『さかしま』より入りやすかったです
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再読。
『さかしま』と続けて読むと頭がぼうっとするような気がするw
『さかしま』の衒学的な部分は主に芸術方面に向けられていたが、本作ではオカルティズムに向けられている。尤も主人公の態度は割と一線を画しているというか、ジャーナリスティックな眼差しでオカルトを見ていて、そこに溺れようとはしていない。この『地に足が着いている』感は『さかしま』の主人公には無かったもの(不倫も終盤でちゃんと精算してるしな~)。
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ユイスマンスが世を去つてから110年。代表作といへば『さかしま』、そしてこの『彼方』でせうか。
しかしなぜ『彼方』は、創元推理文庫に入つてゐるのか。いや、確かに同文庫には「怪奇と冒険」なる一ジャンルがあつて、その一冊として出版されてゐることは承知してゐるのですが、お陰で日本の読者には、本来の『彼方』が持つ味はひが伝つてゐないやうに思はれます。例へば白水社のUブックス辺りから出てゐるべき作品かと存じます。
まあそれは良い。ユイスマンスはその生涯に於いて、何度か文学的な転向(?)を重ねてゐます。
まづはゾラの影響下にある自然主義文学者として、次いでペシミズム漂ふデカダン派、そして悪魔的思想を背景に神秘主義に染まり(『彼方』は、この時代を象徴する作品)、最後はクリスト教に改宗してしまふ、といふ変遷を経てゐます。
主人公の作家デュルタルは、中世フランスの悪魔主義者・ジルドレー元帥の評伝をを物するために、現代でも生きている悪魔崇拝の数数を探求します。
ジルドレーとは、いかなる人物か。かつてはかのジャンヌダルクに協力して、オルレアンの戦ひにて戦果を挙げた功績などがあるものの、その後は錬金術や悪魔術に耽溺、果ては少年たちを拉致してはこれを凌辱・惨殺するといふ暴挙に出た人。被害者となつた少年の数は、800人ともいはれます。
さういふとんでもない奴の一代記を書くために、友人デゼルミーや鐘撞のカレー夫妻などと交流したり、シャントルーヴ夫人との不倫関係を利用して、現在に残る黒ミサを見学したりします。エコエコアザラク。それは黒井ミサか。
『さかしま』の主人公と違ひ、デュルタルはさういふ世界に首を突つ込んでも深入りはしません。あくまでもジルドレー伝記執筆のためと割り切つてゐるフシがあります。そのせいか、扱ふ主題の割には重苦しさや嫌悪感を感じず、悦楽と共に読み終へました。まあ個人的差異はあるでせうが。少なくともこの著者の作品中では、とつつきやすい一作と申せませう。
デハデハ、御機嫌よう。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-728.html
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別にあるゲームに関連して読んだわけではなし。
「たまたま」この本を取っただけ。
感情がまるでない、文章がパッキングされた感じの本。
なのでこういう奇怪な文章が苦手な人には
苦痛この上ないことでしょう。
しかもストーリーはないに等しいと来た。
ある文学界に背を向けた男が
青髭という存在に惹かれ、
それをテーマにする本を書いていた時に訪れる
様々な人の出会い。
時にそれは、狂信的に彼を愛すものに
取り乱されることとなります。
どうやらその女性はかなりの訳あり。
その訳ありがゆえに
関係は終わりを告げますが…
この世は不条理ばかりなのだよ。
人は堕ちゆくばかり。
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デカダンスの聖書といわれる『さかしま』の発表から7年後、ユイスマンスは、黒ミサ小説と異名をとる『彼方』を発表する。
『彼方』における主たる興味は、2つある。
ひとつは、この書物で語られる、ジル・ド・レへの興味。
もうひとつは、ユイスマンスの悪魔主義、魔術幻想主義への傾倒の過程である。
ジル・ド・レこと青髯と呼ばれることになる元帥が生まれたのは英仏百年戦争の最中である。
ジルは、西フランスに広大な領土を持つ貴族の嫡男として生まれるが、両親を早くに亡くし、後見人の祖父が亡くなって、ますます莫大な遺産を相続する。
当時のフランスの戦況は劣勢も劣勢で、狂王のシャルル6世の統治不能から国も乗っ取られかねない状況下であった。
后の、イザボー・ド・バヴィエールは、息子は不義の子であるというような発言をし、6世亡きあと、のちのシャルル7世は王太子と呼ばれ、田舍貴族たちの擁護を受けつつ、シノン城に閉じこもっていた。
そこへ、神のおつげを受けたというジャンヌ・ダルクという小娘が現れる。
ただ見捨てられた存在に成り下がっていたシャルルにとって、この奇妙な田舍娘の出現は、物珍しい出来事であったに違いない。
シャルルは、若い大貴族のジル・ド・レをジャンヌの護衛に当たらせ、ジルはジャンヌと共に出兵する。
奇跡のような勝利戦が続き、オルレアンを解放後、ランスで王太子シャルルをシャルル7世として戴冠させる。
戴冠を実現させてもジャンヌは、戦をやめようとしなかった。
決定的な負け戦の前に、ジル・ド・レは姿を消したといわれている。
しかし、囚われて火刑の決まったジャンヌを救おうとルーアンに乗り込み、その望みを果たすことができず、黒こげになるジャンヌをジルは目撃したとか。
ジャンヌ・ダルクという少女は、聖性を纏っていたという。数々の奇跡や勝利を目の当たりにしたジル・ド・レは、ジャンヌとの日々をどのように過ごしたのだろう。
ジャンヌが処刑されたあと、彼は自分の城に閉じこもった。
そして聖堂を建てた。
その聖堂は、ジョット、ルーベンスなど多くの画家も主題にして描いている、ヘロデ王の幼児虐殺によって殺された幼児の御霊を安らかにするために建てられたものだった。
イエス降誕を恐れてヘロデは、ベツレヘムの2歳以下の男児を一人残らず殺させた幼児虐殺は、新約聖書の中でも悲惨さが特に漂う箇所だ。
その聖堂に未成年の聖歌隊をおき、ジルは特に彼ら少年を可愛がったという。
そんなジルが、なぜ、数多くの少年を惨殺するようになったのか。
錬金術、黒魔術に興味を持ち、イタリア人の黒魔術師が城にやってきてから、黒ミサはますます、異常性を増し、幼児、少年を生贄にするようになったと言われているが、ジルはもともと男色者であったと言われており、儀式という意味だけではなく、少年を残忍な方法で殺害する時、性的快楽が伴ったのも間違いないようだ。
ユイスマンスは『彼方』で、主人公をジル・ド・レの一代記を書く小説家として設定し、彼の筆を借りて、ジルの生い立ちから栄光��悪行、ジャンヌと同じ火刑で生涯を終えるまで
を生々しく描いている。
友人の医者、サン・シュルピスの鐘撞き夫婦(ユゴーの創造したカジモドとは全く違うキャラ)浮気な夫人などを登場させて脇を固め、
ブーランをジョアネ博士として登場させている。
ユイスマンスは『彼方』執筆の資料や情報を得るためにブーランに近づいたと、澁澤は『悪魔のいる文学史』のなかで述べているが、ユイスマンスのそういう傾倒の兆しは、たぶん『彼方』執筆以前に芽生え、ブーランとの交流によりより深まったといえるのかもしれない。
ブーランに好意的なユイスマンスは、文中でブーランと敵対関係にあったガイタを叩き、ブーランが死亡した際は、フィガロその他の紙上で、ブーランの死因はガイタの呪いにあったと発表し、争いが繰り広げられた。
ガイダが亡くなり、これらは終焉を迎えたが、その後、ユイスマンスは改宗し、宗教題材の作品を発表したのち、ベネディクト派の法衣を着て死去した。
ゾラのエピゴーネンとして出発し、自然主義を捨て、『さかしま』で退廃的世界を構築し、『彼方』で魔術やオカルティズムにどっぷり浸かった作家は、ジル・ド・レとは違い、晩年は聖なる領域に近づこうとした。
ジャンヌ・ダルクは火あぶりにされながら「イエス・イエス・イエス」と三度、主の名を叫んだと言われるが、悪魔への生贄と称して幼児少年を大虐殺したジル・ド・レは、火に焼かれながら「ジャンヌ・ジャンヌ・ジャンヌ」と叫んだという。
聖なるものと悪魔的なものが交錯する時、必ずどちらかに勝負をつけたがる。
すなわち、どちらにも近づきすぎるデンジャラス・ゾーンに足を踏み入れた作家がJ-K・ユイスマンスだと思えなくもない。
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『さかしま』を初読した際、全身の神経が沸々と湧き立ったのを覚えている。
ユイスマンス文学の妙味を味わうと、あと戻りはできない、常にこの世界に浸りたいとさえ思わせてくれる、そこまで強烈な読書体験だった。
構成の乱雑さや話運びのかったるさは相変わらずあるものの、『彼方』のうちにはジル・ドレと悪魔崇拝の儀式、この二つを執拗なまで丁寧な描写で描いているというデカすぎる魅力がある。
近代オカルト芸術の重要作なことは間違いない。
どんだけ調べたんだよ。
アランムーアの作品とも通じるポストモダン性。