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キャッチャー・イン・ザ・ライ みんなのレビュー

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みんなのレビュー304件

みんなの評価3.6

評価内訳

295 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

訳について語るべきか、物語について語るべきか、それが問題だ

2003/05/02 00:15

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:nory - この投稿者のレビュー一覧を見る

初めて「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは、たしか20歳くらいのときだったと思う。そのころ小説というものはどこか教訓的な意図がないといけないと思い込んでいた私は、この本を読んで胸のすく思いをした。
16歳の少年のシニカルな心の内を「イカした」話し言葉で描いたこの小説は、教訓めいたものを拒否し、その愚かしさをただ純粋に指摘している。それがとても新鮮だった。そして、何か生産的なことばかりしなくてもいいと頭の中のスイッチを切り替えられたのも、この小説がきっかけだったかもしれない。

そんな作品を春樹さんが訳し直すという。私にとってはベストマッチというものだ。
改めて旧訳を読み返してみると、あのころあんなに新鮮に感じた文章が、今ではもう16歳の少年の言葉としてはしっくりこなくなっている。これからも読み継がれていくであろうこの作品を、新たに翻訳するというのは必然だったかもしれない。

そして春樹訳についてなのだが、今回あえてそれを意識せずに素直に読んでみようと思った。読み進めるうちに、もう誰の訳かなんてことは関係なしにホールデンワールドにはまっていってしまったのだ。

ホールデンの目はある種の真実を写し出している。この世の中がいかにインチキに満ちているかということだ。そのインチキだらけの世の中を、非力な16歳はどうやって渡っていけばいいのだろう。アントリーニ先生にいわれた、『自分の知力のサイズを知る』ということを考えるべきなのだろうか(そのアントリーニ先生だってインチキ野郎なんだけど)。

そして、先生からはこういう一文も送られる。
『未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』

20歳のころ、大人になんかなりたくないと思っていた。今ではそんなセリフは口にすることはできない。だけど心のどこか片隅で、大人になんかなりたくないという思いは残っている。そして願わくば、春樹さんの心の中にもそんな思いがあってほしい。そうあることで、私にとってこの本の価値は倍増する。

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紙の本

昔むかしの「青春<ホールデン>体験者」へ、新体験のススめ

2003/04/28 01:54

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 今回の新訳の出版は、「青春経験者」にとって、ずっと自分の中で眠り続けていた作品を甦えさせられる貴重な機会である。私もまた、10代のころホールデン少年の物語を経験した1人であるが、それは多くの『ライ麦畑でつかまえて』読者の衝撃的な印象とは違い、ごくおとなしい読後感に終わった。
 同世代の男の子の「もやもや感」「いらだち」「挫折感」に興味はあったけれども、自意識過剰な年代だったので、異性の心情にピンとくるものは少なかった。「この子は、女性経験があるんだろうか」というドキドキで途中まで引き摺られたあと、「妹思いの少年の物語」というところに収まって、以来20年余り、そのイメージを定着させたままに来た。
 春樹版ホールデンが出たときに考えたのは「『ライ麦』って、今の私に読む意味があるのだろうか」という点だった。それはある意味、単純に「青春文学であるから、妙齢のマダムたる私には遠い世界」と、虚勢を張りつつ加齢というシビアな現実を認めることである。だが、その一方でもうひとつ、いつまでも成熟を拒否して社会生活に適応しにくい、自分の困った性向をほじくり返す怖さも意味していた。
「ホールデン君よりも、今や彼が尊敬していたアントリーニ先生の心境に近いのか、やれやれ」と感じながら読み通した結果、ぴしゃーっと冷水を浴びせられたように感じたのは、果たしてこれは、世間で言われるところの「永遠の青春文学」なのであろうかという疑問である。

 中流家庭の子息であるホールデンは、高校を何回目めかの放校処分にされることになり、退学前に寮を出て、自宅のあるニューヨークのアッパー・ミドル・イーストへ舞い戻る。夜を徹して遊ぼうとするうち、おしゃまな妹のフィービーに会いたくなって、こっそり家に忍び込む。
 妹に責められるようにして将来設計を訊かれた彼の用意した答が、タイトルの指し示す「ライ麦畑のキャッチャー」である。何千人かの子どもたちが遊んでいるライ麦畑の端で、崖っぷちになっている場所に立ち、落ちそうになった子どもを助けたい……という、意味不明の存在だ。

 人を煙に巻くこの返答について、今回初めて気づいたことがある。それは、アントリーニ先生がホールデンに渡すメモの内容に響き合うということである。
「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」——ホールデンの言うキャッチャーは崖を背にしている。だから、「命賭して」という、ぎりぎりの場所で体を張る重い意味が含まれている。
 でも、「高貴なる死」は先生が書いたように、決して「成熟」の判断材料ではない。むしろ、真に成熟して完成に近づいた人間であればこそ、大切だと思える誰かを救うため、何かを救うために命を投げ出せるものではないのか。
「ライ麦畑のキャッチャー」であるかどうかを判断される年齢にとうに達し、いざという試しの瞬間が来たとき、自分は果たして我が身をDedicationできるのか。この小説が問いかけてくるものは、思いのほか熟年向けなのであった。

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紙の本

恥ずかしながら

2020/03/04 02:47

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:るい - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹さんの本を読んだのは、初めて!
読まず嫌いだったのか!
五木寛之さんの本で、村上春樹さんと五木寛之さんの以前の対談を読み、いつかは読んでみようと思っていた矢先に、読書会の本がこの本になりました!実は、五木寛之さんも読まず嫌いで、この本が初めて!
「ライ麦畑でつかまえて」を高校の図書館で手にして、読み始めて、どうしてもその時は、文体が合わず、読み進められず、読むことを断念しました。それだけに、今回、この本が選ばれた事に、読み進められるか、心配しました!来週に迫って、読み進めると、文体のテンポが良くて、読み進めることができています!
高校ののときに手にした役での本も、手にすることが出来たら、そちらも読んでみたいと思います!
来週の読書会で、担当教授の講義が楽しみです!

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紙の本

不器用な、切なさが、ここに、あります。

2003/05/11 02:30

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投稿者:どくた - この投稿者のレビュー一覧を見る

サリンジャーと言えば、「ライ麦畑でつかまえて」が何しろ有名である。
多くの著名人が愛読書としてあげ、不思議な魅力がある一方、
学校の推薦図書として出会う機会があるほど、その文学的評価は高い。

その作品を、今一番日本で人気のある作家といってもいいだろう村上春樹が翻訳したのが本作である。
彼の文体はとても独特でかつ自然である。
それが見事にサリンジャーの文章とマッチしている。
世界に対する姿勢みたいなものの描き方が彼ら(サリンジャーと村上春樹)は似ているからだろう。
クールに構えているんだけど感じやすい、という。
さらに村上春樹は「僕」という一人称の口語体の文章をよく使うが、この作品自体ももともと一人称で口語体であるということが訳がマッチしている一つの要因かもしれない。

さて、推薦図書などと言ってしまうと、それだけで敬遠してしまいたくなる人もいることだろう。
しかしそういう人にこそまさにこの作品はうってつけの小説だと思われる。

主人公のホールデンは16歳。
いくつかの学校を転々とし、今度もまた追い出されることになる。
なにしろ学校に関わるあらゆるものが大嫌い。
勉強が嫌い。寮のルームメイトが嫌い。先生が嫌い。校長が嫌い。
それどころか目に付くもの全てにうんざりしているような少年。
好きなものといえば、兄のDBや弟のアリー、妹のフィービーくらいだ。
世界との折り合いがうまくつかなくて、でもそれをどうしたらいいかもわからないでいる。

そういった感覚って、程度の差こそあれ誰しもどこかで感じるものじゃないだろうか。
見ようによってはホールデンはどうしようもない甘ったれにも見えるけど、やっぱり憎めない。
生意気で強がりで泣き虫でどうしようもないんだけど、そうなんだよな、と共感してしまう部分があるのだ。
納得できない物事に直面して、なんで? と思うのはみんな経験のあることだろうが、多くの人はそれをうまく処理しながら生きている。
つまり軽く捉えてしまうわけだ。
たいした問題じゃないと。
ホールデンはそのそれぞれに見事に真正面からぶつかっている。
そしてうまく処理することができず、ことごとく切なくなってしまっているのだ。
その様はひどく惨めで不器用に映るが、彼が真摯に生きようとしているからこそなのかもしれない。

この話には、すごい冒険も、とんでもない事件も、めくるめくラブストーリーも描かれていない。
わくわくしたり、涙をぽろぽろ流したり、というのとは違う。
ただ、色褪せるないことのない、ちょっとした切なさが残るだけだ。

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紙の本

「キャッチャー」と「デクノボー」

2003/05/07 16:33

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投稿者:T−MIHO - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「ライ麦畑でつかまえて(野崎孝訳)」はいまでもちゃんと本棚にあるのに全く覚えていなかったのは、その昔(1970年)ファッション感覚で買ってはみたものの、たぶんホールデン・コールフィールドの不器用さにうんざりして途中で投げだしてしまったからだと思う。当時の私にとって、彼はただのハタ迷惑なガキで、だから彼のガールフレンドには同情さえしたと思う。
 だいいちこの題名のわかりにくさ。中味と全然ちがうじゃない、とも感じていたにちがいない。
 それが、「ザ・キャッチャー」という主語に変わって何か納得できそうな気がして、今度はちゃんと全部読んだ。そして(最愛の妹)フィービーに問い詰められた ホールデンが、ようやく「ライ麦畑のキャッチャーになりたい」と告白する場面(P.280)になって、このせりふはどこかできいたことがある、と思いだしたのだ。
 「雨ニモマケズ」
 サリンジャーが宮沢賢治の同類だと思うのは自分でもちょっと突飛だとは思ったが、考えれば考えるほど似ているので書評を書く気になった。
 第一にホールデンとフィージー。心から愛し合いだから互いに必要とし合っている点で、賢治と妹のトシの関係も同じである。
 だから賢治はトシを喪って『未成熟なるもののしるし』である『大義のために高貴なる死を求める』ことにのめりこむ。
 「グスコーブドリの伝記」のブドリは、「火山を爆発させて大気中のCO2を増やし、冷害を救う」という高度な技術を完成させながら、「最終スイッチを押す」というおよそ「無価値な」〜そんなことができるなら遠隔操作ができるはずだ〜大義のために高貴なる死を選ぶ。それは妹ネリの身に起こった悲劇を二度と起させないためなのだ。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に訳者の解説がないことを、村上春樹はそれが不可能であったことをわざわざ書いている。
 三十年前の野崎訳には解説があるが、そこには「サリンジャーは自分の正体を人前にさらすことをひどく嫌い(中略)家の周囲には高い塀をめぐらして外にはめったに出ず、ほとんど世を避けたような恰好で暮らしているそうだ(後略)」と書かれている。
 一方の賢治は、羅須地人協会の活動を通して実り少ない奮闘を続けた結果若くして死んだ。それは、文字通り未成熟なもののしるしとしての死だったと思う。
 そしてそれが「大義のために卑しく生きる成熟」への敗北として認めざるを得なかったのが「雨ニモマケズ…」という「メモ」であり、死を迎えた賢治がなお捨てきれなかった「想い」だろう。
 「ミンナニ デクノボートヨバレ」て東に西に南に北に走り回る姿は、「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで(中略)よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どこからともなく現れ」るサリンジャーのキャッチャーに通じる。
 どっちみち、人は「未成熟」な無垢のまま生きることはできないのだ。しかしサリンジャーもまたそれを認めたくなかったにちがいない。短いエピローグ(P.352)がそのことを語っているように思う。

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紙の本

回転木馬に乗る君を、ただ見ていたかった

2003/05/07 00:27

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投稿者:深爪 - この投稿者のレビュー一覧を見る

初訳は1964年だったのですか。実は私の生年です。で、これまで読む機会がなかったなんて。ていうか読まなかったなんて! ここに書評を寄せている方々の中では、どうやら稀有な例のようです。やはり不朽の名作なんですねえ。恥ずかしさを通り越してすがすがしく感心する次第です。

ですから村上さんの訳について、既訳と比較してうんぬんという感想も書けないですが、単に新しい読者の獲得という意味のみにおいても、意義ある試みと感じました。この作品の言わんとするところが、現代においても充分に通用しうることが実証された、そんな類の堅実な仕事ではないでしょうか。

私もですから40になろうかって歳の頃なんですけど、でもたとえば主人公と同じ16歳の時にこれを読んだとしたら、たぶん「なんじゃこら? これのがどこがいいんだ?」って思ったに違いありません。世の中はインチキや欺瞞に満ちていて、ろくなもんじゃないってことにはもう気づいていたかもしれない。でも、まだ自分はこれからだし、これからいろんなことが起こるわけだし、みたいなことを思っていました。学校ではそこそこだけど、別に学校がすべてじゃないし、自分もいつかは何かができるだろうって漠然と思っていました。ホールデンのように酒もタバコもデートも夜遊びもやりつくして、やれやれ何も見つからない、誰もわかってくれない、っていう状況とはずいぶん距離感を感じたことと思います。

大学生のとき、初めて海外へ出て一月ほど旅をしました。でたらめな旅で、でも旅先でさまざまなバックパッカーの人々に出会い、ともにいろんな経験をし、いろんな話をしました。大半は同じ「卒業旅行」に来てる学生でしたが、中にはずっと年輩の人も何人かいました。自分の父親ほどの歳の人もいました。それはちょっとした驚きでした。定職に就かず、旅をして、お金がなくなったら働いて、また旅をして。行きたいところ、見たいものはまだたくさんあるし…。そんな話を聞きながら、へえ、こういうのもありなんだ。その気になればどこへだって行けるし、どんなふうにも生きられるんだ。そんな人たちを実際に見たのは初めてだったので、新鮮な気持ちでそう感じました。と同時に、でもどこまで行っても、きっとどこにも行けないんだ、とも感じてしまっていました。初めて貧乏旅行のようなことをしてみて、この経験は自分の人生にとってきっと大いにプラスになるんだろうな、とか思っていたところだったので、ちょっと複雑なものがありました。

終章近く、ホールデンとフィービーのエピソードを読みながら、ふとそんなことを思い出しました。この美しく味わい深いエピソードに至って初めて、この小説は本物だ、と納得できた気がします。回転木馬に乗りたがるフィービー、それをただ見ていたいホールデン。そのどちらの心情も痛いほどわかる気がするのです。でもそう思えた私は、まさしく今の私です。「どこまで行っても、きっとどこにも行けないし、自分以外のものにもなれない」ってことを本当の意味で知ったのも、まだここ近年のことですから。

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紙の本

村上春樹は自分自身の言葉でホールデンの世界を再構築している

2003/04/27 19:11

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投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る

この小説はもうしっかりと評価の定まった名作であり、かつ関連した評論も多く、僕ごときがとやかく言う隙はない。だから今回は野崎訳と村上訳の比較と言う1点に絞って書いてみたいと思う。

原文を読む前に僕が一番気になっていたのは、野崎孝が「インチキ」と訳した単語は何だったのかということであった。この言葉は僕が野崎訳を読んだ時にとても印象に残った強い言葉だった。かつて山本夏彦が、「インチキ」という言葉がよく使われるがこれは「いかさま」と言うべきだ、みたいなことを書いていた。そのことからも判るように、「インチキ」というのはそう古い言葉ではない。ただ山本夏彦にとっては比較的定着していない表現であっても、僕の年代にとっては逆に決して新しい言葉でもなかった。その新しくない言葉が僕に対してはとてつもなく強いインパクトを残した。主人公ホールデン・コールフィールドが忌み嫌うものごとを見事なまでに的確に表わしていた。僕は当時この言葉に強く惹かれた。

さて、この「インチキ」は原文ではphonyである。僕にとっては未知の単語であったが、辞書を引くと「インチキ」という訳語が最初のほうに出てくるので、決して気を衒った訳ではないことが判る。しかし、それでも僕は村上がこの単語を何と訳すのかをものすごく楽しみにして「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を手に取ったのである。ところが、何のことはない、村上訳でもphonyは「インチキ」だった。それはそうだ。この強い言葉は他に訳しようがない。

次に気になったのはFuck you!である。野崎はこれを苦し紛れに「オマンコシヨウ」と訳していたが、誰でも知っているようにこれは罵り言葉であって、決して字面通りに性行為を勧誘する意味はない。村上がこの難しさをどう解消するか──それが僕の第2の興味であった。が、こちらも何のことはない、「ファック・ユー」とそのまんまである。それはそうだ。無理して変な日本語に置き換えるより、そのままのほうがよほどニュアンスは伝わるだろう。

ことほどさように村上訳はけれん味がない。そして、何よりも驚いたのは、村上の小説に頻繁に登場する「やれやれ」という表現が、この翻訳小説の中でも頻出していることだった。調べてみると、これはBoy!だった。なるほど、「まあ」でも「おいおい」でもなく「やれやれ」と来たか。これではまるで村上自身の小説を読んでいるのと同じである。

そう、村上はまるで自分のオリジナル作品を書くようにこの小説を訳している。作品の大意と言うか雰囲気と言うか真髄と言うか、一番大切なものを伝えるために自分の文章表現力を駆使している感がある。だから、原文で同じ単語であっても訳語が違うケースも多々見られる。

僕が野崎訳を読み直してみて一番がっかりしたのは、ここで使われている日本語がどうしようもなく古くなってしまって引っ掛かって仕方がないことであった。落語に出てくるような江戸弁が出てきて、読んでいて笑いそうになるようではいかにも支障がある。

発表当時、この小説は「将来、この時代のアメリカの若者がどんな言葉遣いをしていたかを知るための博物的価値がある」と言われたらしい。村上の訳は決して1950年前後の若者の言葉ではない。かと言って現代日本の若者言葉とも程遠い。しかし、それでも村上の訳によってこの小説は格段に読みやすくなったし、そのことによってこの小説はさらに長く日本の読者に愛されることになるだろう。

村上自身は決して当時の言葉や現代の若者の口の聞き方を再現するために訳しているのではない。この小説が描いていることは現代にも通用する──そのことを伝えるために、彼は自分自身の言葉でホールデンの世界を再構築しているのである。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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春樹版、ライ麦畑でつかまえて

2003/04/17 14:43

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投稿者:vataijyu - この投稿者のレビュー一覧を見る

サリンジャー屈指の青春小説を村上春樹の訳で読める本作。
主人公の語り口調で綴ることの多い作家であり、
大げさに表現できない、些細な感情を巧みに表現できる春樹だからこそ、
この作品の核であるホールデンの大人と子供の境目で揺れ動く感情、
独特の雰囲気を上手に伝えてくれます。
今までの主流であった野崎 孝訳と読み比べてみると、
心象表現だけでなく口調の違いなども結構あるので楽しめるはず。
ちょっと古いなあと思っていた名詞なども現代にあわせてあるので、
とても読みやすいと思います。
初めて読む方にはこちらの訳を是非オススメしたいです。

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2004/10/07 22:45

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2004/12/31 04:53

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2005/01/12 11:48

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2005/03/14 11:08

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2005/05/07 23:16

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2005/05/08 14:34

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2005/05/11 01:53

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