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はじめの一冊には適さないかもしれないけど、真摯に能を舞う方の言葉で紡がれる能についての文章は、味わい深かくて興味深い。能に親しめば親しむほど「メタファー」としてのこの本の意図するところに近づけそうで、ワクワクするような本!
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新書では数少ないと思われる能楽の入門書です。能に関しての本って、探してみると意外とみつかりませんでした。
第一章を読むだけで、能の基本的な知識や用語はだいたい身につけることが出来ます。面や能舞台の写真も載っていてわかりやすくすらすらと読むことが出来ます。
一曲の前半後半の間に、『間狂言』が入ることや、能舞台の下に音を響かせるための瓶が13個置かれているなど、知っておくべきことがたくさんです。
二章以下は能の歴史や専門知識などが書かれています。
能のテキストとシェイクスピアの劇の原文を比較して、「ブロッキング内に書かれる動き(想定)」と「台詞の中に含まれる動き(翻訳)」との二つの動きがあると解説しているのも面白かったです。
メタファー(比喩)についても興味深かったです。説明的な言葉は身体に浸透しにくい性質を持っていて、抽象的な達人たちの動きは比喩で書かれ、そこから演者の理解・読み込みを経て表現される、というものです。
この本から例を一つ抜粋をすると、
1)矢で的を射る。
2)矢で月を射る。
たったこれだけの比較で、メタファーの奥深さがわかります。
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秘伝書としての型附についての説明がある。
秘伝書の写真があるのが嬉しい。
能楽が好きではなかったが、
勉強の対象として、日本の文化を理解するのによいことが分かった。
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ふと能について知りたいと思ったとき
知らない自分でも一から知れたおもしろい本でした。
戦国大名が好んでいたという話しをよく聞いていたので興味を持ちましたが、なぜ能を好んだかはハッキリわかりませんでした(笑)
梅若さんは、600年続く梅若家に生まれ、3歳から能を舞っているそうです。この方が“TED TOKYO”という国際的な講演会で能を披露した動画を見てますます引き込まれました。
能は、ほぼ後ろの壁の松の絵だけで、後はほとんど装飾がないそうです。
なぜ惹かれるのか。シンプルだからか?
荘厳だからか?見たことないけど懐かしいからか?
とか、いろいろ考えながら読み進めていきました。
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みなさんは、「能楽」をどう思いますか?
「う〜ん、京都で学んでるんだし、能のような伝統芸術にも親しんでみたいなあ。でも堅苦しそう・・」。そうおっしゃるあなたには、この薄めの岩波新書をお薦めします。
梅若家に生まれた著者は、ロンドン大学で学び、レバノン人の女性と結婚し、英語で現代劇を創作するなど、文字通り「型破り」の能楽師。実はこの本、能楽が堅苦しく見えてしまう一因でもある「型」から能を解放しようという「型破り」の試みにあふれているのです。そして読者が、能楽も「内面」を表現する身体芸術なんだと思うようになったら、著者は「しめた」と思うに違いありません。梅若猶彦の明快な舞台を見たあとと同じ爽快感が得られる、斬新な能楽入門書です。 [ライフデザイン学科 脇田哲志先生]
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能楽師かつ研究者である梅若猶彦の著作。
能楽について全くの無知であった私には、本書で解説される能の独特な思考と演じ方はとても斬新に映った。お能のあの基本、超絶スローの動作にはちゃんとした理由があったのだ!(当然のことかもしれないが)。著者海若によれば、シテ(役者)が身体を動かさずに内部の衝動のみを引き起こしたときにはじめて、動いていないはずのシテ(役者)の身体を目にしているはずの観客に、シテ(役者)の内面の衝動が伝わる、というのだ。
本書は、能楽についての基本知識や成立背景、家伝の型腑の読解解説を織り交ぜながら、能の精神に関わる本質的な部分を紹介している。能は流派間で差異を誇張し合いながら生き残り、発展してきた部分がある。一方で、本書では能の「型」が「無形文化」として安定した社会的地位を築くために必要だったことは認めながらも、「型」を何よりも重んじて内側の精神を二の次にするという現在の「型」信仰を批判する。
「型」は身体の動きのパターンに過ぎない。重要なのは「型」ではなく、精神的な価値を内面から身体の動きに与えるということである。それが、「身体性によってのみ真実が具現化する」(p.113)ということである。しかし同時に、その心理の動きは観客はおろか自分にさえ隠さければならない。その思考が、世阿弥のいう「無心」である。この「無」の観念は、禅の精神を引き継いでいる。
世阿弥の「幽玄」は能楽の美的観念と捉えられがちだが、世阿弥による最高美は「妙」と「安心」である。「幽玄」はあくまでも鑑賞される側から見た姿であり、一方で「妙」というのは「形のない姿」のことで、表現者の内的な原理と鑑賞者の印象にまたがって機能する観念であるという。最高美の「妙」が「形なき姿」というのは、身体性なくしては成立しない能における「無」の境地と繋がっている。
本書を読み、気付いたことがある。私のこれまでの能の鑑賞の仕方では、いくら観ても何も見えてこなかったということだ。能を目にする機会はごくごくたまにあれど、私は必死で能の「型」を見ようとし、他方で余りにも緩慢に見える動きに飽き飽きして、お能の面白さが全く分からなかったのだ。伝統芸能に対する固定観念としての「型」の認識は、能に関して無知だった私にも例外ではなく、私も「型」に捉われてカタチだけの鑑賞をしていたのだ。動きの「意図」を内面の衝動に留め、身体を動かさずに観客に伝える。次に能を見るときは、型ばかり見ようとせず、能楽師の意図や精神を感じてみたい。
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能楽師であり演劇の研究者でもある著者が、能についてわかりやすいことばで解説している入門書です。
前半は、能の舞台や面などの解説や、能楽の誕生までの歴史がとりあげられており、基本知識が手際よく整理されています。
後半に入ると、「幽玄」や「型」をめぐえる著者自身の思想が展開されており、入門書だと思って手にとった読者としては、やや戸惑いをおぼえてしまいました。それでも、能楽の達人とパントマイムの達人が舞台の上でコーヒーを飲む演技をしたときに、どのようなちがいが生まれるかという問題提起を手がかりにして、能の本質にせまっていこうとする著者の議論には興味を惹かれました。
また、能における「型」の重視や、いわゆる日本文化論における「型」のあつかわれかたに対する著者の異議申し立ても、おもしろく読みました。ただ、くり返しになりますが、入門書としてはやや異色の内容だと感じます。
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著者自身も能楽観世流シテ方で、父も能楽師という著者が、能の演出について、能の表そうとするもの、能の歴史などとともに、能の本質に迫りながら能の世界について解説したもの。能の役者が何を考えて(「無心」だから考えず?)どんな動きをしているのか、という部分が興味深い。
これも能楽についてのレポートを書かないといけないので読むことにしたが、なかなか馴染みのない世界の話なので、たぶん読みやすいとは思うのだけれど、思った以上に読むのに時間がかかった。以下、印象的だった部分のメモ。
能の脇役は「ワキ」というけど、「『ワキ』は、ひじょうに重要な役です。(略)シテと決定的に異なるのは、ワキが生きている人物だということ点です。シテに遭遇するのは、現実に生きている人間である必要があるからです。こうして死者は生きている人間に魂の救済を求めるのです。」(p.10)という、こういういわゆる能楽の文法的なことを知るのが面白かった。上でも書いたが、役者の内面の動き、なんとも言えない感覚、というものは、それをやっている人にしか語れない部分だろうから、その部分の記述はとても面白く、価値のあるものだと思った。「動きをしないで、その内的な衝動のみを演じ手が実感する」(p.42)ことで、「身体の表面には微細でありますが変化が見られるという仮定にもとづいて、この翁の動作は型附によって指示されているのです。それは一風変わった身体的ニュアンスであり、空想の世界のことではなく、実際に理屈抜きの説得力をもつものです。これを本人が体現することと、観客が何かを感じることがどこかで一致する」(pp.42-3)ということで、この「理屈抜きの説得力」というのを、観客として感じられるようになりたいと思った。そのあとの、例えば「コーヒーを飲むしぐさ」を能楽でやったらどうなるか、の話のところで、「柔らかい左手をはっきりと内的に静止させ、実際の左手の動きはすこし曖昧にします。アクセントをつけての静止は厳禁です。それははっきり感の自己目的化となり、こっけいな印象を与えてしまいます。不用意なアクセントはつねに安っぽく目立つもので、その後がつづかなくなるからです。かといって、なんとなく静止するのは避けなければなりません。」(p.110)だそうだ。なんと難しい。似たところで、世阿弥も、「能の『高砂』は、急な曲だが、速くせわしないという状態は悪い。速いは転けるといって、間に合わないものである。もちろん遅いのも悪い。(略)上手が舞えばそのすばやい動きからでもゆったりとした印象を受け、それでいて間がぬけているわけではない。いろいろな芸能の本質を知っている者のすることは、いそがしくは見えないものだ。この比喩によって道を知るべきである。ことに、武芸の道において、早くせわしない動きというのは悪いのだ。」(pp.134-5)ということだから、おれは本当に武芸に向いていないなと思った。あとは「型」の問題。「型」の信仰(pp.93-96)って、日本人にはあるよなあ、と思う。「外部の型の重要性ばかりを説き」、「型を練習すれば、内面は後からくっついてくる」(p.94)というのは、割と説得力を持って語られる言説ではないかと思う。ところが「世阿弥は、その芸術論を見るかぎり、型への信仰は皆無であるとさえ思います。世阿弥の最高の美である『妙花』は『形なき姿』でした。」(p.95)というから、意外。型を無批判に受け入れ、型に依存する、というのでは本末転倒、というのは初めての視点だったが、納得できた。そして、なぜ型が発展してきたか、という理由は「昔の芸能者が専門性を増すにつれて、修練によって身体の動きを学習する必要上、動きを再生産するシステムを考えなえればなりませんでした。そのもっともてっとり早い方法が、動きに『名前をつける作業』でした。」(p.96)という部分も腑に落ちた。「初心者は修行を行い、定型は何らかの評価基準の確立にも貢献することができる」(同)ということで、型ができているかいないか、というのは割と便利だし、安心感を与える道具なのだなあと思う。「型の信仰」への批判、も面白かったが、能楽が求める「無」について、禅との関係での説明があるが、著者は「宗教と芸術の融合を説くのは、一般教養の段階では説得力があり、そのひびきはロマンチックでさえあるのですが、芸術が極度に発展し、また専門家した段階では両者の融合は容易ではありません。芸術家の直面する問題は、精神論だけでは解消することができないからです。なぜならば、そこにはかならず技術に関しての問題が少なからず含まれているからです。」(pp.139-40)ということだから、凡人の一般教養レベルで止まっている理解がおれにはいかに多いのか、と思ってしまう。もう宗教との関係とか影響とか説明されると満足、という。別におれは芸術家ではないから、それでいいのか、と思ったり。最後に、具体的な話題だけれど、「鏡」が危険、というのが分かりやすくて面白かった。昔、中学の同級生で剣道をやっている、ザ・ナルシスト、みたいな人が鏡の前でずっと自分と目を合わせながら素振りをやっているのを目にしてしまったのが忘れられない。「鏡には、実践家の動きや姿勢を修正してくれる合理性があります。しかし、鏡に映すということは同時に動き自体にわずかばかりの余計な自意識が混入する危険性をはらんでいるのです。まれにそれが『虚栄』にまで発展する場合があるのです。これが鏡のもつ魔力といえるでしょう。この虚栄が混入されてはならないのが、本来の武術の姿でしょう。」(p.173)
ということで、この本を読んだのはもしかしたら2か月くらい前のことで(6月から7月の前半は目が回る忙しさで、多少あった自由時間もブクログを書いている気力も全然なかったという、もうおれも歳なのかな、とか思う。読んだ本だけ何冊も溜まっているので、今それを消化しているところ)、読んだ時も難しいかなと思ったけど、書き出してみるとそれなりに今でも覚えている内容があることに驚いた。(22/06)
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禅、茶、能の相性が良いと感じるのも、三者とと内面を表現する文化だからか、と納得しました。内面と身体性の関係については、俳優さんなら、どのような感想を持つのかな、と気になりました。