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フッサール、ハイデガー、道元、西田幾多郎といった思想家たちにかんする著者の論文を収録している本です。
本書のキーワードになっている「超越的覆蔵性」ということばは、ハイデガーの「アレーテイア」(非隠蔽性ないし不覆蔵性)に由来しています。著者はまず、フッサールの時間論について検討をおこない、「流れる時間」と「立ちとどまる時間」が一つとなっていることを見届けます。つづいて著者は、これと同様の構造が、ハイデガーによって見いだされた存在者と存在のあいだの「存在論的差異」においても認められると主張し、これを「露現」と「覆蔵」という概念によって解明しています。
次に著者は、東洋の宗教思想の検討へと移ります。中心的に論じられているのは道元で、「本証」と「妙修」の関係を、すでに論じられた「露現」と「覆蔵」の関係になぞらえて理解する見方が示されるとともに、西田幾多郎や田辺元といった近代日本の哲学者たちによる道元解釈が参照され、哲学的な観点から道元の思想についての検討がおこなわれています。また、『大乗起信論』が初期禅宗にどのような影響をあたえたのかという問題についての考察もなされています。
ハイデガーの哲学について論じられている箇所では、辻村公一による「有」と「時」などの訳語体系が採用されていることからも明らかなように、本書における著者の立場は京都学派の宗教哲学に近しいものです。思想史的な立場からは、本書のような解釈の妥当性についてどのような評価がなされるのかわかりませんが、道元の思想をみずから受け止め考えようとする読者にとっては有益な内容を含んでいるのではないかと思います。