紙の本
現代思想おたく向けのSF蘊蓄話
2003/06/23 10:15
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投稿者:mistypink - この投稿者のレビュー一覧を見る
この対談に関しては、既に多くの賞賛が寄せられている。
確かにおもしろいし、刺激を受ける。だが、読後漠然とした不満が残るのも
事実だ。見当はずれな言いがかりを承知の上で、その現実に対する感度に
ついて批判を試みたい。
端的に言えば、「世俗的で対症療法的な『現場主義』」に対して「ボトム
アップ式に理論をたたき直す」試みがあまり成功していないのではないだろ
うか。
たとえば『審判』の「掟の門」や『収容所列島』との関連で語られるスターリニズムの不条理性、確率や数値化の言及を読めば、現代のビジネス人は苦笑するしかないだろう。中国等の工場に対抗してリストラを進める国内生産基地や消費不況の中でノルマを達成しなければならないセールスにとって、不条理は現実以外のなにものでもないのだから。日々の作業は時間効率性を追求され、能力査定で個人の商品属性は計数化される。転職の自由はある。しかしそれを現実化するには資産、社会福祉、労働力商品としての自己の優位性が担保となる。確定記述の束として属性管理されながらも匿名で交換可能であるが故にそこで生きるしか選択肢がないのだ。東が情報管理社会のモデルとして参照する自動改札機ではパンチ音を鳴らす駅員もまたデリートされていた。
東は消費社会論の重要性を指摘し、すぐに市場と言い換えているが、80年代ポストモダニズムの消費社会論はあたかも下半身のない身体のように、生産や流通を捨象して成立していた。オタク産業化の延長線上にリナックス革命に言及するが、オタク的映像の進化がスポーツ用品のCMを商品から自由なスポーツそのものの表現に達したとしても、製品がインドネシアや中国の出稼ぎ労働者によって製造されていることに変わりはない。情報資本主義の矛盾を見逃しているというのではない。認識される現実、参照先が一面的なのだ。多様性や自由の認可とそれと気づかれぬ管理の二面性は市場の全体性を考慮すれば当然のことでしかない。
東はまた、フクシマを引用して、プライベートな優生学を止める方策がないという指摘を鋭いと言う。現に出生前診断に悩む家族にとってそれは「おもしろい話」どころではない。現実がとっくに問題意識を追い越している。
あとがきで大澤はコロンバイン高校事件とコソボ侵攻の同時並行性を挙げ、内在する敵と戦争の関係を指摘する。それを言うならば、ジュリアーニのニューヨークがゼロ=トレランスの実験場だった、つまり棍棒で浄化された安全都市に飛行機が激突したことに触れなければならないだろう。
「冷戦崩壊期のスノッブなシニカルな消費社会」の後に出現したのは、世界的競争の血なまぐさい世界だったように思われる。無論ヴァーチャルな次元で血の匂いや暴力性は巧妙にフィルタリングされてはいた。そこでは生権力の影である死権力が優生学とセキュリティを携えて主導権を握る。もはや自由というものも、気が付けば畜産処理場という猶予期間を<平穏無事に生き延びる自由>に切り下げられてしまった。
この対談で欠如しているのは「第三者の審級」でも「大きな物語」でもなく、現実認識なのだ。このままではポストモダニズムの語彙でポストモダニズムの限界を語る近過去SF談義でしかない。
紙の本
面白いけど、こういう言葉遣いでよいのかなあ?
2003/04/30 21:18
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投稿者:GG - この投稿者のレビュー一覧を見る
ポストモダニズムとは何か。著者の一人東浩紀は次のように要約している。それは「マルクス主義を継承し、記号論や精神分析の概念をもとに組み上げられた難解な理論」である。大いにもてはやされたポストモダニズムの言説も今ではすっかり影をひそめ、2003年の現在、言論界では現場主義が幅をきかせている。そうした流れに掉さし、実感主義に対して理論を再導入するために本書の対談は行なわれたと、彼は述べている。都合三回に及んだ共同討議は果たして所期の目的を達しているだろうか。
頭脳明晰な二人のことだから何をどう問題にしたらよいのかはハッキリ捉えられている。理論が現場に有効打を浴びせるための最も良い方法は、適切なキーワードを発明することである。そのフレームで現実を思いがけない視点から分析してみせる、これである。その昔マルクス主義は<疎外>を用いて世界をクリアカットに分析してみせ、文化状況全体へ強い影響を与えた。現代日本を分析するキーワードの候補として、大澤は<第三者の審級>、東は<動物の時代>といった概念を用意し、議論は<本質的偶有性>や<匿名の自由>へと深められていく。議論の過程で、デリダ、アーレント、アガンベンなどの諸説が要領よくまとめられ、引用されている。
そうした議論は(ポストモダニズムの通過者には)それ自体十分面白いし、新しいことを知る楽しみも与えてくれる。しかし、最初に掲げられた高い目標からするともの足りない。早い話、大学生の読者が本書を読んで社会理論の勉強に燃えるだろうか。その昔、浅田彰の『構造と力』に年若い読者がわけもわからずにアジられて、パラノだスキゾだと友人との会話でもつい使ってしまったようにはいかないだろう。実感主義に抗するだけの強さを、理論の言葉はもう持てずにいる印象だ。
その原因も著者たちはもちろん認識している。現代思想のタームというのは、たとえ表面上は批判を行なっていても、本質的には冷戦崩壊期のスノッブなシニカルな消費社会を人間社会の最終形態として捉えているからである。つまり9・11以降の現在へ至って、批判の言葉の方が現実よりも後ろに来ているのである。サイバースペースを論じる過程で、大澤真幸は「批判よりも権力の現実の方が先へ行っちゃってる」と述べている。そして、僕らが模索すべきは権力よりもさらに先へ行く道だとも。
その意気やよしだが、実際のところ、本対談は最良のポストモダニズム(80年代風言説)でしかない。
本書は今後刊行される二人の論文、大澤真幸『<自由>の条件』と東浩紀『情報自由論』のあらかじめの脚注というトリッキーな性格も持っている。上に批判めいたことを書いたが、本書は80年代に自己形成したおじさんの読み物としては十分面白かった。ベタな現実への目配りがより優れている点において、東の新刊の刊行を楽しみに待ちたい。
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とても興味深い。自由とはなにか。規律訓練型権力と環境管理型権力。僕の意志は環境によって操られているのか??
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心に引っかかった部分と少量の自分のコメント
いろんなことがこの世界で起きているが、それが何であるかわからない。そのとき解明してくれるに違いないとあてにされる知識人というのがいる。それが現代風の「第三者の審級」。人がそこに「真理」を帰属させる超越的な他者。日本ではそれが長い間、文芸系の知識人によって担われていた。ところがそういう期待がなくなっていてこれも第三者の審級の失効、との事だが、これは論壇系知識人の追っかけの減少として現れているのかな。
規範や意味が効力をもつための論理的前提条件となるような、超越的あるいは超越論的な他者(第三者の審級)の効力が次第に減衰してきている。それは東の言葉では大きな物語の消滅と同じ。第三者の審級は、法とか権力のメカニズムの作動を支える根本的な要素で、それの不在というのは、権力の失効につながるはずだが、この時代には社会全体にある種の権力(管理)のネットワークがあらためてはりめぐらされてもいる。第三者の審級=神が不在になっている、そうしたときに人が想像していたのは無法地帯の出現だが、神がいなくなったらもっと強烈な管理のネットワークの時代がやってきた。
規律訓練型権力は価値観を共有し内面に規範=規律を植えつけ自己規制する主体を形成していく権力。例えば学校。
環境管理型権力は人の多様な価値観の共存を認めているが行動を物理的に制限する権力。例えばファーストフード店やファミレスの椅子の硬さやBGMの音量や冷房による室内の温度の調整。
現代人はきわめて動物的に管理されている。マクドナルドやセキュリティの強化にいたるまで、あらゆるレベルで環境管理型の秩序維持が台頭している。こういう状態がはっきり現れているときに、では自由な意志とは何なのか、というのはよくわからなくなってくる。誰に命令されたわけでもないけど、私たちは自発的に何かに動かされている。それは自由なのか不自由なのか。
「自由」とは、まず最初にそれが奪われているという感覚があって、その反対物として想定される概念なのではないか。ポストモダン社会の環境管理型権力は、自由そのものを増やすとか減らすとかではなくて、端的に「自由が奪われている」という感覚そのものを極小にするように働いている。だからこそ、私たちは、そこで、自由があるのかないのかもよくわからない状態に放置されてしまう。
ハンナ・アレントの「人間の条件」とネット初期のユーザーの実名での発言の尊重。
僕たちは、いつどこに行っても匿名になれそうにない社会を作ろうとしている。そしてこれは、必ずしも国家権力が主導している動きではない。監視カメラの設置なんて、むしろ商店街や住民が自発的にやっている。国家と市民のあいだに対立は存在しない。
管理型権力が奪っているのは固有名の記述に還元できない余剰ではないか。記述主義的還元というのが、ひとつの現代的な社会変容の方向であって、それが個人の精神症状として現れれば多重人格になってくるし、コミュニケーション環境の水準でとらえれば、個人情報によってわれわれが統計学的にアイデンティファイされているという現象になる。
排除は、人間の生物としての生存に関わる部分でだけ、つまり安全で快適な生活に関わる部分でだけ作用している、との事だが、たとえば2chの在日朝鮮人排除の思考などがあるのではないか。
住基ネットが機能を拡大する、自動改札機が導入される、監視カメラが設置される、そのときに私たちはこれは何かヤバいのではないか、何かが間違っているのではないかと感じる。その感覚を言葉にすると、今のところは、犯罪を行う権利だとしか表現のしようがないが、私たちは何かをそこで感じているわけだから、その何かを正当な権利として汲み上げてくる論理、犯罪を行う権利を別の権利に組み換える、人文的な「概念の作業」が必要になってくるのではないか。
個人情報を売って代価やサービスをもらう、個人情報を売って自由をもらう、そのどこがいけないのか。いけなくない。ただはっきりしているのは、にもかかわらず、これは何かが間違っているのではないかと、多くの人々が不安を抱えているということ。その感覚を言葉や論理に変えていかなければならない。つまり概念の発明が必要。
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2008.07 ちょっと難しいけどなんとなく、両著者の不自由な現代社会への危機感を理解することができたかな?
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大澤真幸と東浩紀の対談。そのテーマは<自由>。
われわれは取り敢えず自由な社会に生きている。
しかし、それは本当に自由なのか。大澤真幸も東浩紀も、広範囲に渡って例示を出し、
自由という一つのテーマのもと、フーコーの「規律訓練型社会」から「環境管理型社会」のシフトについて考察したり、
カフカの『審判』の話題を二人とも独自の解釈に基づいて、ささやかに火花を散らしたり、といったように
様々なキーワードのもと語られる二人の言葉は、対談だけあり生き生きとしている。
この対談が後に大澤真幸では『<自由>の条件』での仕事に存分に活かされており、その伏線とも言える一冊である。
口語体なので読み易いし、よく編纂されていると思う。さすが、NHK出版。
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内容としては東浩紀「情報自由論」の先取りの内容なので、東の発言については、その論考を噛み砕いて語ったものと解してよい。また大澤も同様の主張を様々な本で行っているので、大澤真幸(2008)『不可能性の時代』(岩波書店[岩波新書1122])などを参照するといい。
9.11以降、セキュリティ化と情報化・ネットワーク化が日常生活の細部にまで浸透してきた社会。ネットショッピングや検索などインターネットの利用により、住所や電話番号など住民票的な情報から志向や関心といった趣味判断に及ぶまでの個人情報を提供して便益を得ることが日常化している。こうした社会では、個人情報を担保にして不安の解消や便益を得ている事実が厳然として存在する。そのような社会では、プライバシー権から情報社会批判をするような旧来語られてきた言説は現状とずれていて意味を成さず、社会の変化に対して語られるべき言説や文学・哲学・思想が追いついていないことを対談で語っていく。情報社会が一層充実する中で失われるものや不安をもたらすものとは何なのか。果たして何を語るべきなのか。情報社会で埋もれている問題についての一端を垣間見るのに一読すると良い一冊。
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このタイトルじゃどう考えても私興味ないのに,読んでみた。
デリダもアガンベンもヘーゲルもアーレントも・・・あと誰だっけ,とにかく現代思想に一秒も触れたことがない紗くらが読んでもよくわかる哲学?の本。
対談て言う形がよいんでしょう。聴衆を意識して簡単にわかりやすく話してくれるのと,前提知識まで説明してくれるのがたいへんよろしい。笑
哲学って,大半の人にとって,なんのためにあるのかよくわからない学問で,賢い人ってなんか難しいこと考えてるよね,っていう程度にしか思ってないと思う。(紗くらもまあそんな感じ)
だけど,これを読んで,そうでもないのかもなあと思って。
人文科学の衰退と,社会科学や心理学の台頭ということが重要な問題として挙げられているんだけど,むしろそれを読んで,哲学者も社会学者も心理学者も結局同じで,現代社会とそこで生きる人々,起きている事象を対象に研究してて,そこから,「もっとみんなが生きやすい社会」を考えてるってことに変わりはないのね,っていう感想を持ちました。
標題にある9/11とか,オウムとか酒鬼薔薇とか,誰もが「身近」と思う社会の病理を題材に挙げているせいかもしれないけど。
もっと遠い場所にあると思い込んでた哲学者の役割が,意外と自分の隣にあることに気付いたとか,そんな感じでした。
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[ 内容 ]
9・11以降、人はセキュリティと引き換えに自由を権力に譲り渡し、動物のように管理されようとしているのではないか。
「安全」を求める人々の動物的本能が最重視される一方で、イデオロギーや理念などの人間的な要素は形骸化したのではないか。
従来の思想が現状への批判能力を失いつつある今、気鋭の二人が権力の変容を見据え、テロ事件から若者のオタク化までの様々な事象を論じながら、時代に即応した新しい自由のあり方を探究する。
現代思想の閉塞を打ちやぶる迫力ある討論。
[ 目次 ]
1 権力はどこへ向かうのか(虚構の時代と動物の時代;二層化する世界;人の顔が見えない映像 ほか)
2 身体になにが起きたのか(データベースと動物化;オウム真理教の二重性;生物的身体と政治的身体 ほか)
3 社会はなにを失ったのか(「安全に生きよ!」;ゾーニングとフィルタリング;どのような自由が排除されているのか ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「人文的な方法で解決するしかない」がちょっとアレだけど
面白かった。すっきりする。
管理社会/監視社会/アーキテクチャ/環境管理型権力/ハッカー倫理
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東さんと大澤さんは、監視カメラによる監視社会や国民総背番号制などの議論をよくしている。テレビなどでは議論されないが、自由について議論することは、重要だと思う。この間「そうだこれから正義の話をしよう」がベストセラーになったが、正義や公正さを語るには自由についても議論する必要があると考えている。
ウォール街占拠デモやアラブの春など、世界では正義と自由の問題は大きなテーマになっていると思う。ただ、それが日本で起こらないのはやはり、自由について議論する風土がないからだと感じた。自由というのは、お上から与えられるものでなく、やはり個人・市民レベルで議論しなければ、自由に関する議論足りえないから。
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今でも十分読める本でしたがちょっと補足すると フィルタリングの話題において個人が任意にフィルタリングをやると言った話には現在では携帯を持ち始めた子供の場合は躾のため「親」がフィルタリングの有無を決めてしまうケースもあるだろう。そうなると自由を決める親はまさしく規律訓練方権力でアーキテクチャーは環境管理型権力である
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自由を欲するということは、自分のやりたいことが阻害されている、という感覚のことである。この本では具体的に自由とは何かを示すわけではなく、アーレントの示すアクションの領域から自由でない部分を探すことに焦点が当てられており、そのことが島宇宙化、偶有性の議論へとつながっていく。
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過去の著作からの繋がりも言及されつつ、『弱いつながり』に繋がっているのかなと思えるところが多々あったように思う
そういう一貫性みたいのは結構好き
しかし対談とかを読むたびに思うけど、いくら編集してるとはいえこんな長くてややこしいやり取りを口頭で行ってよくちゃんと認識できるな
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社会学者の大澤真幸と思想家の東浩紀が、3回にわたっておこなった対談を収録している本です。
「自由を考える」というタイトルが示すように、管理社会の問題が中心的なテーマとなっています。本書のもとになった対談がおこなわれたのは東が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を刊行したころでしたが、その後彼が『一般意志2.0』(講談社文庫)で展開するテーマがすでに明瞭なかたちで論じられています。同時に、東の初期の評論であり、現在は『郵便的不安たち#』(朝日文庫)に収録されている「ソルジェニーツィン論」に関心がつながっていることも語られていて、オタク論から東の思想に触れたわたくしにとっていささか把握しづらかった東の思想の領域が、かなり明瞭に見わたすことができるような気がしました。
対談のなかで東は、大澤の弁証法的な議論の運びに対する批判をしばしば述べているのですが、たしかに弁証法的な図式に回収することで問題がクリアに見通せるようになることは否定しがたいように感じました。もちろんそのことにある種の危険性がともなうということも理解はできるのですが、東のほうも現代における「自由」について明瞭な結論を提示してはおらず、オープン・エンドのかたちで対談は締めくくられています。この点に不満をおぼえる読者もいるかもしれません。