紙の本
思考の現場に立ち会う
2003/07/13 15:20
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投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書をじっくりと読んでみた。基本的な事項を押さえながらの対談なので、かなり勉強になってうれしい。現代社会は、「匿名性」を奪っているという東浩紀の指摘には、そうかもしれないと思った。
思えば、かつて19世紀に、ボードレールは、都市という空間は人を匿名の存在にさせるがゆえに賛美した。ベンヤミンもそうした都市の人のあり方をフラヌール(遊歩者)と論じた。時に、「私は〜〜である」という確固したアイデンティティを窮屈に感じて、そこから抜け出したいという欲望があるのだろう。誰でもない「私」になれる場所が、都市であったのだ。
しかし、現代社会では、もはやそのような誰でもない「私」になりたくてもなれないという。一つにテクノロジーの発達がある。何も監視装置を特別に設置しなくても、今や携帯の履歴をたどれば誰が何をしたか調べることが可能だ。インターネット上ですら匿名性を確保することはできない。権力が特別な事をしなくても、簡単に人を監視することが可能になったのだという。そして、セキュリティの問題もある。最近でも幼児が、また中学生が殺されてしまったように、ある日突然理由もなく、私たちの安全が脅かされる。この「理由がない」というのが現代の犯罪の特徴でもあるだろう。言い方が相応しくないかもしれないが、犯罪に遭うのは、「運」の問題なのかもしれないのだ。そんな不安定な社会状況において、セキュリティが求められるのは当然のことなのだろう。少々の自由が犠牲になっても、安全を確保したい。それが現代社会だ。
この本を読むと、明らかに現代社会に何か変化が起きていて、これまでの権力論や自由論ではとても太刀打ちできない状況があるということが分かる。そこで、新しい概念を考えないとならないのだ。新しい権力(=環境管理型権力)に対して、それをどのように問題化し、どのように解決していくか、このあたりまさに「現代」を哲学しているという感じの本である。
二人に共通しているのは、現代社会が旧来の概念では説明不可能で、そこで新しい概念を作り出そうとしていることだ。なぜ、概念を考え出さなければいけないのかといえば、そうしないと現代社会に何が起きていて、何が問題になるのか見えてこないからだ。私たちは、現在の高度な情報技術を背景にした環境管理型権力に対し、おそらく「何か」を感じている。だが、旧来の概念ではそれを捉えきれていない。一方で、着々と環境管理型権力は私たちの生活の中に侵入してきている。
理論や概念は、一見すると抽象的で難しくて、生活には役立たないのではと言われる。しかし、理論や概念というのは、かつてのような装飾的な「知」なのではなく、それらは今現在注目しなくてならない問題を指し示してくれるものなのだ。新しい権力の前で、何が問題なのか分からない状況でこそ、理論や概念を思考する人文系の学問が必要なのだと思う。本書は、その役割を十分に担っている。
紙の本
新たな自由論のための書
2003/04/30 11:33
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投稿者:匿名希望 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ある意味、歴史的な対談の書。ドゥルーズ&ガタリが分子的「群れ」と呼び、資本主義が規律訓練し得えず、その支配の網の目から絶えず逃走するとされた“期待の星”さえ管理しうる「環境管理型権力」の到来を告げ、いわば、旧来の現代思想の無効性を宣言しているかのようだからだ。
しかし、著者達は怯む事はない。著者達の思考は、その環境管理型権力からのさらなる逃走線の回路に向けられる。それが本書にみえる「匿名の自由」という概念だ。環境管理型権力の下では、我々は、個人情報を用意に握られ、誰も匿名でいることは出来ない。ならば、如何に「匿名の自由」を確保し得るのか? ------それを知るには本書を読むしかない。
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とても興味深い。自由とはなにか。規律訓練型権力と環境管理型権力。僕の意志は環境によって操られているのか??
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心に引っかかった部分と少量の自分のコメント
いろんなことがこの世界で起きているが、それが何であるかわからない。そのとき解明してくれるに違いないとあてにされる知識人というのがいる。それが現代風の「第三者の審級」。人がそこに「真理」を帰属させる超越的な他者。日本ではそれが長い間、文芸系の知識人によって担われていた。ところがそういう期待がなくなっていてこれも第三者の審級の失効、との事だが、これは論壇系知識人の追っかけの減少として現れているのかな。
規範や意味が効力をもつための論理的前提条件となるような、超越的あるいは超越論的な他者(第三者の審級)の効力が次第に減衰してきている。それは東の言葉では大きな物語の消滅と同じ。第三者の審級は、法とか権力のメカニズムの作動を支える根本的な要素で、それの不在というのは、権力の失効につながるはずだが、この時代には社会全体にある種の権力(管理)のネットワークがあらためてはりめぐらされてもいる。第三者の審級=神が不在になっている、そうしたときに人が想像していたのは無法地帯の出現だが、神がいなくなったらもっと強烈な管理のネットワークの時代がやってきた。
規律訓練型権力は価値観を共有し内面に規範=規律を植えつけ自己規制する主体を形成していく権力。例えば学校。
環境管理型権力は人の多様な価値観の共存を認めているが行動を物理的に制限する権力。例えばファーストフード店やファミレスの椅子の硬さやBGMの音量や冷房による室内の温度の調整。
現代人はきわめて動物的に管理されている。マクドナルドやセキュリティの強化にいたるまで、あらゆるレベルで環境管理型の秩序維持が台頭している。こういう状態がはっきり現れているときに、では自由な意志とは何なのか、というのはよくわからなくなってくる。誰に命令されたわけでもないけど、私たちは自発的に何かに動かされている。それは自由なのか不自由なのか。
「自由」とは、まず最初にそれが奪われているという感覚があって、その反対物として想定される概念なのではないか。ポストモダン社会の環境管理型権力は、自由そのものを増やすとか減らすとかではなくて、端的に「自由が奪われている」という感覚そのものを極小にするように働いている。だからこそ、私たちは、そこで、自由があるのかないのかもよくわからない状態に放置されてしまう。
ハンナ・アレントの「人間の条件」とネット初期のユーザーの実名での発言の尊重。
僕たちは、いつどこに行っても匿名になれそうにない社会を作ろうとしている。そしてこれは、必ずしも国家権力が主導している動きではない。監視カメラの設置なんて、むしろ商店街や住民が自発的にやっている。国家と市民のあいだに対立は存在しない。
管理型権力が奪っているのは固有名の記述に還元できない余剰ではないか。記述主義的還元というのが、ひとつの現代的な社会変容の方向であって、それが個人の精神症状として現れれば多重人格になってくるし、コミュニケーション環境の水準でとらえれば、個人情報によってわれわれが統計学的にアイデンティファイされているという現象になる。
排除は、人間の生物としての生存に関わる部分でだけ、つまり安全で快適な生活に関わる部分でだけ作用している、との事だが、たとえば2chの在日朝鮮人排除の思考などがあるのではないか。
住基ネットが機能を拡大する、自動改札機が導入される、監視カメラが設置される、そのときに私たちはこれは何かヤバいのではないか、何かが間違っているのではないかと感じる。その感覚を言葉にすると、今のところは、犯罪を行う権利だとしか表現のしようがないが、私たちは何かをそこで感じているわけだから、その何かを正当な権利として汲み上げてくる論理、犯罪を行う権利を別の権利に組み換える、人文的な「概念の作業」が必要になってくるのではないか。
個人情報を売って代価やサービスをもらう、個人情報を売って自由をもらう、そのどこがいけないのか。いけなくない。ただはっきりしているのは、にもかかわらず、これは何かが間違っているのではないかと、多くの人々が不安を抱えているということ。その感覚を言葉や論理に変えていかなければならない。つまり概念の発明が必要。
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2008.07 ちょっと難しいけどなんとなく、両著者の不自由な現代社会への危機感を理解することができたかな?
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大澤真幸と東浩紀の対談。そのテーマは<自由>。
われわれは取り敢えず自由な社会に生きている。
しかし、それは本当に自由なのか。大澤真幸も東浩紀も、広範囲に渡って例示を出し、
自由という一つのテーマのもと、フーコーの「規律訓練型社会」から「環境管理型社会」のシフトについて考察したり、
カフカの『審判』の話題を二人とも独自の解釈に基づいて、ささやかに火花を散らしたり、といったように
様々なキーワードのもと語られる二人の言葉は、対談だけあり生き生きとしている。
この対談が後に大澤真幸では『<自由>の条件』での仕事に存分に活かされており、その伏線とも言える一冊である。
口語体なので読み易いし、よく編纂されていると思う。さすが、NHK出版。
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内容としては東浩紀「情報自由論」の先取りの内容なので、東の発言については、その論考を噛み砕いて語ったものと解してよい。また大澤も同様の主張を様々な本で行っているので、大澤真幸(2008)『不可能性の時代』(岩波書店[岩波新書1122])などを参照するといい。
9.11以降、セキュリティ化と情報化・ネットワーク化が日常生活の細部にまで浸透してきた社会。ネットショッピングや検索などインターネットの利用により、住所や電話番号など住民票的な情報から志向や関心といった趣味判断に及ぶまでの個人情報を提供して便益を得ることが日常化している。こうした社会では、個人情報を担保にして不安の解消や便益を得ている事実が厳然として存在する。そのような社会では、プライバシー権から情報社会批判をするような旧来語られてきた言説は現状とずれていて意味を成さず、社会の変化に対して語られるべき言説や文学・哲学・思想が追いついていないことを対談で語っていく。情報社会が一層充実する中で失われるものや不安をもたらすものとは何なのか。果たして何を語るべきなのか。情報社会で埋もれている問題についての一端を垣間見るのに一読すると良い一冊。
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このタイトルじゃどう考えても私興味ないのに,読んでみた。
デリダもアガンベンもヘーゲルもアーレントも・・・あと誰だっけ,とにかく現代思想に一秒も触れたことがない紗くらが読んでもよくわかる哲学?の本。
対談て言う形がよいんでしょう。聴衆を意識して簡単にわかりやすく話してくれるのと,前提知識まで説明してくれるのがたいへんよろしい。笑
哲学って,大半の人にとって,なんのためにあるのかよくわからない学問で,賢い人ってなんか難しいこと考えてるよね,っていう程度にしか思ってないと思う。(紗くらもまあそんな感じ)
だけど,これを読んで,そうでもないのかもなあと思って。
人文科学の衰退と,社会科学や心理学の台頭ということが重要な問題として挙げられているんだけど,むしろそれを読んで,哲学者も社会学者も心理学者も結局同じで,現代社会とそこで生きる人々,起きている事象を対象に研究してて,そこから,「もっとみんなが生きやすい社会」を考えてるってことに変わりはないのね,っていう感想を持ちました。
標題にある9/11とか,オウムとか酒鬼薔薇とか,誰もが「身近」と思う社会の病理を題材に挙げているせいかもしれないけど。
もっと遠い場所にあると思い込んでた哲学者の役割が,意外と自分の隣にあることに気付いたとか,そんな感じでした。
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[ 内容 ]
9・11以降、人はセキュリティと引き換えに自由を権力に譲り渡し、動物のように管理されようとしているのではないか。
「安全」を求める人々の動物的本能が最重視される一方で、イデオロギーや理念などの人間的な要素は形骸化したのではないか。
従来の思想が現状への批判能力を失いつつある今、気鋭の二人が権力の変容を見据え、テロ事件から若者のオタク化までの様々な事象を論じながら、時代に即応した新しい自由のあり方を探究する。
現代思想の閉塞を打ちやぶる迫力ある討論。
[ 目次 ]
1 権力はどこへ向かうのか(虚構の時代と動物の時代;二層化する世界;人の顔が見えない映像 ほか)
2 身体になにが起きたのか(データベースと動物化;オウム真理教の二重性;生物的身体と政治的身体 ほか)
3 社会はなにを失ったのか(「安全に生きよ!」;ゾーニングとフィルタリング;どのような自由が排除されているのか ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「人文的な方法で解決するしかない」がちょっとアレだけど
面白かった。すっきりする。
管理社会/監視社会/アーキテクチャ/環境管理型権力/ハッカー倫理
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東さんと大澤さんは、監視カメラによる監視社会や国民総背番号制などの議論をよくしている。テレビなどでは議論されないが、自由について議論することは、重要だと思う。この間「そうだこれから正義の話をしよう」がベストセラーになったが、正義や公正さを語るには自由についても議論する必要があると考えている。
ウォール街占拠デモやアラブの春など、世界では正義と自由の問題は大きなテーマになっていると思う。ただ、それが日本で起こらないのはやはり、自由について議論する風土がないからだと感じた。自由というのは、お上から与えられるものでなく、やはり個人・市民レベルで議論しなければ、自由に関する議論足りえないから。
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今でも十分読める本でしたがちょっと補足すると フィルタリングの話題において個人が任意にフィルタリングをやると言った話には現在では携帯を持ち始めた子供の場合は躾のため「親」がフィルタリングの有無を決めてしまうケースもあるだろう。そうなると自由を決める親はまさしく規律訓練方権力でアーキテクチャーは環境管理型権力である
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自由を欲するということは、自分のやりたいことが阻害されている、という感覚のことである。この本では具体的に自由とは何かを示すわけではなく、アーレントの示すアクションの領域から自由でない部分を探すことに焦点が当てられており、そのことが島宇宙化、偶有性の議論へとつながっていく。
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過去の著作からの繋がりも言及されつつ、『弱いつながり』に繋がっているのかなと思えるところが多々あったように思う
そういう一貫性みたいのは結構好き
しかし対談とかを読むたびに思うけど、いくら編集してるとはいえこんな長くてややこしいやり取りを口頭で行ってよくちゃんと認識できるな
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社会学者の大澤真幸と思想家の東浩紀が、3回にわたっておこなった対談を収録している本です。
「自由を考える」というタイトルが示すように、管理社会の問題が中心的なテーマとなっています。本書のもとになった対談がおこなわれたのは東が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を刊行したころでしたが、その後彼が『一般意志2.0』(講談社文庫)で展開するテーマがすでに明瞭なかたちで論じられています。同時に、東の初期の評論であり、現在は『郵便的不安たち#』(朝日文庫)に収録されている「ソルジェニーツィン論」に関心がつながっていることも語られていて、オタク論から東の思想に触れたわたくしにとっていささか把握しづらかった東の思想の領域が、かなり明瞭に見わたすことができるような気がしました。
対談のなかで東は、大澤の弁証法的な議論の運びに対する批判をしばしば述べているのですが、たしかに弁証法的な図式に回収することで問題がクリアに見通せるようになることは否定しがたいように感じました。もちろんそのことにある種の危険性がともなうということも理解はできるのですが、東のほうも現代における「自由」について明瞭な結論を提示してはおらず、オープン・エンドのかたちで対談は締めくくられています。この点に不満をおぼえる読者もいるかもしれません。