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ところでエポケーという言葉を聞いたことがあるだろうか。エポケーとはドイツ語でEpocheと書く。意味は「判断中止」。そうは言ってもなんだかわからないであろう諸君に初心者向けに説明すると、エポケーとは新しい視点から世界を見直すということであり、世界はかくあるという素朴な思い込みをいったん捨て去るということなのだ。エヘン、と自慢しいになろうと思うたけど、これはウケウリ。実はそういうことが表紙に書いてあるのだ。わての知識じゃおまへん。
で、そういうことを学習したところで考えてみると、「素朴な思い込みをいったん捨て去る」っていうのはこれはかなりたいへんなことだ。私たちは日々あたりまえのこととして日常を生きている。いちいち疑っていたらまどろっこしくってしょうがない。目が覚めたとき「人間は朝起きたら顔を洗って、歯を磨く」なんていう素朴な思い込みを疑ったら、悩んじゃって夜も眠れない(あれっ?変な文だな。まっいいか)。私たちのやってる教育だって「教師がいて生徒がいるのが学校」という常識に疑問を感じたら仕事ができないだろう。しかし、日々ジョーシキに流されている身としては時としてそうした主体性のない日常を見直すことも必要だよね。だって学校の中には問われたら説明しにくいことっていっぱいあるからね。どうして四月から新学期が始まるのか、運動会とか体育祭はなぜするのか、なぜ中学校で因数分解を学ぶのか、どうして国語の教科書って抜き書きばかりなのか、みんな音楽を楽しんでるのに何で学校で音楽を教えるのか等々…言い出せば枚挙にいとまがない。だけど私たちが無条件で信じ込んでいた思い込みを疑うことがなければ私たちは気がつけば悪魔に魂を売っていたことにだってなりかねないのだから。
編集の土戸敏彦って九大で教育哲学を教えているセンセだ。教育哲学というだけでわれわれ凡人は「あっ、むつかしい」とパブロフの犬的に拒絶するとか「ふん、哲学で何がわかるって言うんだい?」とひねくれてみるとか、そんなふうに反応してしまいますよね。それが「素朴な思い込み」なのですよ。土戸センセの書いた『冒険する教育哲学』(勁草書房)を読んでみるといい。目からウロコものですよ。伝え聞くところによれば『踊る大走査線』と同じくらいおもしろいとか…。
その土戸センセが編集したのだからおもしろいに決まっている。まず、冒頭から「〈道徳〉は自明か」とくる。ほら、「自明か」なんて言われると自明だと思い込んできた自分が恥ずかしくなってしまうだろう。要はそんな感じで「現代における〈道徳〉再考」が語られ、「教育の中の〈道徳〉」に言及され、「子どもの根源的な問いにどう答えるか」という処方箋が示される。ついつい読み耽ってしまうのだ。執筆者もいろいろいて、『かいほう』に「羅針盤」を書いている新谷センセも参加している。「『心のノート』考―道徳教へのいざない」なんて挑発的な章で自己批判も含めた同和教育の批判までしているし(えっ!)、さらに「愛国心教育という〈道徳教育〉」という章ではあの福岡市での「愛国心」通信簿を取り上げている。福岡大学のやんちゃ坊主といわれている勝山吉章センセも「教育改革論議の中の〈道徳〉の正体とは」とか言って新自由主義について好きなことを言ってる。
要は道徳についてはある種の反抗的な教師にとっては道徳が特設されたときから仕方なく手を抜きながらやればいいなんて手を抜いていた部分でもあり、その結果が「同和」教育の教材と『心のノート』の区別もつかない自分であったり、ナショナリズムを総括してないから問題意識もなくワールドカップで日の丸に酔う組合教師や組合教師であるがゆえにワールドカップに反発して子どもから疎んぜられてしまったり、挙げ句の果てに強引で見識のない教育改革に無批判に(もしくは反発というアリバイを作りながら)便乗していったりするんだろうな。そんな知的刺激でいっぱいだ。じゃ、どうしたらいいかって。それは自分で考えなきゃ。そのための読書だもんね。
とは言え、実際に道徳っていうのはおざなりにやっているととんでもないはめに陥る。生とか、死とか、生きる意味とか、そういう根源的な問題について子どもたちはやっぱり真剣にぶつかっている。読者諸氏にしても中・高校生のころに死を考えたことはなかったか。そんなとき「『生命の大切さ』をどう教えるか」(寺岡聖豪)に目を通したところで「第Ⅲ章 子どもの根源的な問いにどう答えるか」を読むとよい。「死ぬってどういうこと」(土戸敏彦)、「なぜ学校に行かなければならないのか?」(山岸賢一郎)、「人は一人では生きていけないのか?」(福井直秀)、「人生に意味はない?」(石村華代)なんてことが論じられている。この一冊を読んでおけば生徒に困った質問をされても答えられるよね。
こういう問題をもっと深めたかったら池田晶子『あたりまえなことばかり』(トランスビュー 一八〇〇円+税)がおすすめ。楽しく哲学をして少しは生徒より賢くなったら池田晶子『14歳からの哲学―考えるための教科書―』(トランスビュー 一二〇〇円+税)を生徒たちに奨めてあげよう。センセイが尊敬されることまちがいなし。
ところでこの〈きょういく〉のエポケーシリーズだけど『教職研修』30周年記念で企画したMOOK、つまり雑誌と本のあいだみたいなものなのだ。『教職研修』の別冊としては破天荒な内容なので他の巻を見ると第一巻は広田照幸編集『〈理想の家族〉はどこにあるのか?』だ。父性の復権だとか、母性愛神話、三歳児神話のような家族へのプレッシャーやら非行と家族を結びつけたりする動きに対して新しい家族のゆくえを模索するものになっている。
第二巻は小沢牧子編集『子どもの〈心の危機〉はほんとうか?』だ。これは読みごたえがある。なぜかって。昨今、子どもが手に負えなくなったらとりあえず心理屋さんに回してしまうということをしてないだろうか。そうした背景に何でもかんでも心のせいにしてしまって一件落着にして責任逃れをしていないだろうか。まず第一章で「〈心理主義化〉する社会」と題して「心理主義批判」を行っている。心理主義とは「心理学的な視点から社会的現象を理解すること」であり、「個人心理が理解できれば……対人関係や社会を『よい』方向に導くことができるという信念」や「態度」をさす。しかも、「ここでいう心理学とは専門家ではない人が『心理学』と認識している知識」であり、それは「臨床系心理学者や精神科医が提供する知識を指す」と巻頭論文からすごいことを言っている(森真一「〈心理主義〉の時代」)。
このことは私たちはよく知っておくべきことだ。つまり〈心理主義〉は一種のカルトだと言っているようなのだ。しかも、第二章は「加速する学校の〈心理主義化〉」として学校教育現場に浸食してきている〈心理主義〉の魔の手について述べられている。「〈心の教育〉とはなんなのか」(小沢牧子)では心理主義批判の立場から「心のノート」による教育が前述の新谷センセとはちがった視点で批判しているし、「『教育改革』のなかの『個性の尊重』と『自己決定』を問う」(篠原睦治)では言うまでもなく個性化の問題に言及し、ね「教師のカウンセリングマインドは必要か」(佐々木賢)は教師は「心理学」的技巧に走るより普通の大人であることを提唱している。あの東京シューレの奥地圭子さんも「登校拒否の原因は〈心〉か」不登校に対する心理主義的対応を非難している。
この巻の編集をしている小沢牧子さんは『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書+税)という実におもしろい本を書いている。この本は臨床心理学を問い直し、「心の専門家」の問題を論い、蔓延する心理主義を真っ向から批判したしかも手軽な新書本だ。第二巻と合わせ読むといいだろう。
★★★★ 何てったって目からウロコのシリーズ。ともかくあたりまえを疑うこと、そうすれば混迷する現代の教育状況を切り開けるだろう。「同和」教育だって常識を疑うところに来ているのかもね。