紙の本
やっぱりラスト
2004/04/04 20:52
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投稿者:ASURA - この投稿者のレビュー一覧を見る
お屋敷に新しいお手伝いさんがやってきた。その人はとっても不思議な人だった。
よくある設定だと思った。でも逆に結末が予想できない。高楼さんのことだ、最後には何かとんでもないところが...。読み進め読み進め、それにつれて結末が更に分からなくなっていった。そして時は経ち時は経ち。
完全に高楼節にはまりいつの間にかとんでもない渦の中に佇んでいるようだった。
紙の本
たそがれ屋敷に新しくやってきたお手伝いのルチアさんは、どうしてなのか、水色に光っています。
2003/07/29 12:30
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投稿者:エーミール - この投稿者のレビュー一覧を見る
いったいいつのおはなしなのでしょうか。お屋敷というところからして、なんとなく古めかしい雰囲気で、お手伝いさんがいて、はかなげな奥様がいてという設定です。「もうずいぶん昔のことです。」というはじまりで、なんともこの世ならぬ世界に入り込んでしまったような感じになります。そして一歳違いのふたごみたいにそっくりな姉妹もなんともいえない不思議な雰囲気を作り出しています。その雰囲気に挿絵がぴったりとあっています。
全体がセピア色に包まれているというか、夢かうつつかうつつか夢かというようなまるで霧の中の出来事のような世界です。
大きな事件が起こるわけでは無いのです。新しく来たルチアさんというお手伝いさんが水色に光っているとその家「たそがれ屋敷」の幼い二人の娘が不思議がり、自分たちの持っている水色の玉とルチアさんがなんと似ていることかと驚いたりする、その想いが、本当のことである理由や証拠があって、よけいに不思議になり、ますます驚いてしまう、というようなストーリーです。でも、これはもしかしたら、忘れてしまっているけれど誰もが経験したことのあることなのかもしれないと思いました。幼い頃、大人にはわからないみたいだけれど、自分たちだけが感じることがあって、確かめてみたら確かな理由や証拠があって、自分たちはとてもよくわかったような気がして落ち着いて、でも大人たちは全く気がつかなかったような不思議な出来事。それが、記憶の奥深くに埋もれているような、そんな言葉に表しにくいもやもやしたそれでいて案外幸せな感じを、この物語はとてもよく表現してくれていると思います。一方で満たされない大人たちの身勝手な姿も描かれてはいるのですが。
そういうわけで子どもから大人まで、不思議と思ったり、ノスタルジックと思ったり、いろいろに読める物語ではないでしょうか。いっとき、特別な世界を旅してきたような気持ちになれますよ。
(エーミール/図書館の学校・児童書選書委員会)
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「どこか遠くのきらきらしたところ」を探す夢追い人も、「ここ」でしっかり生きていく人も、どちらを向いているかの差はあれど、幸せになりうる。
でも、その「どこか」が「ここ」だったら、いつも幸せでいられるのかもしれない。
といいつつ、幸せの形は人それぞれで、「どこか」を「ここ」にできる才能をもって幸せになる人だけが正しいのではなく、「どこか」はどこなんだろうかと「ここ」で考えつづける幸せもあったりする。
という寛容さが良いです。
詳しい感想⇒http://melancholidea.seesaa.net/article/14819741.html
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ここにレビューを書きました。
http://blog.goo.ne.jp/luar_28/e/3dcb501ebc9c094f49a810240e59ed4d
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恥ずかしながら初高楼方子。雰囲気のある語りで、でも雰囲気だけでとどめずに、幸福ってなんだろう、深く思いを致すこととはどういうことなんだろう、ということを、少しの苦みを交えながら描いてゆくのがすごいと思った。べつの作品も読みます。
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「ねえ、ルチアさん、なにかを飲んでるんでしょう?そんなふうに光る水色のもの」〈たそがれ屋敷〉と呼ばれる大きなお屋敷に、奥様と二人の娘、二人のお手伝いさんが住んでいました。そこにある日、3人目のお手伝いさん、ルチアさんがやってきます。子どもたちには見えていました。ルチアさんのたまごのような体が、水色にぴかぴか光るのが。
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私の好きな世界です。どことなく不思議な可笑しさがあり、また、絵もすごく合っています。絵と物語の世界が溶け合って、とてもいいです。
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綺麗な青い石、青い果実。
双子が夜に家を抜け出していくところは、挿絵の雰囲気もあって、とても輝いてみえる。
自分もこういう場所でこういうことをしてみたい、というのが読んでる間も読んだ後も感じた。
終盤でスウは勉強家になり、ルウルウはあの冒険が忘れられなくなり、
そういう所に何ともいえぬ感情を抱いてしまう。
互いに秘密を共有したのに、自分だけ置いていかれたような
あの時私たちは同じだったのに、相手は自分よりもっとずっと素敵なことをしている
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2013.4.22市立図書館
双子の少女たちにだけはきらきら光って見えるふしぎなルチアさん。
そばにいると、心にしまったなにかしら輝くような思いを表に出したくなるような不思議な存在。その秘密をさぐるべく、箱入り娘の双子が動き、そこにルチアさんの娘もまきこまれ・・・
「どこか」へのあこがれを「ここ」にあわせもっている静かな喜び、「どこか遠くのきらきらしたところ」で満たさているしあわせ。はたしてそれがだれにとってもほんとうのしあわせかということも含めて、登場人物たちと同じく考え考え読んだ。
今のわたし自身「ここ」にかかりきりで、「心ここにあらず」なあこがれの気持ちを失ってないかな、そればかりではふわふわと心もとないけれど、まるでないのはやはり味気ない「どこかへのあこがれ」。
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スゥとルゥルゥの住むたそがれ荘に新しく来たお手伝いさんのルチアさん。何故か二人にはルチアさんがキラキラ光って見えるのでした。
どこからも遠いどこか、ここではないどこか。キラキラ光り輝く時代。そんなこんなが不思議な感覚で書かれています。また出久根育の独特の絵が不思議な感覚を増していきます。
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11月の扉がきっかけで、だいすきになった高楼方子さん。不思議な絵の雰囲気とも素敵にマッチして、素晴らしい読書の時間を過ごせました。それにしても、水色の石…子どもの頃に、これと似たようなことがあったような気がするのだけれど…みんな、そういう思いで持ってるのかもしれませんね。「ここ」と「どこか」の話では、「つむじ風食堂の夜」での、ぼくと果物屋の若者の会話を思い出されました。
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表紙の絵の雰囲気のように、不思議な印象のお話でした。小さい頃だからこそ感じられた不思議や好奇心、そしてちょっとした冒険・・・、もうそんなことは忘れてしまってるけど、きっとあったんだよなぁ、思い出したいなぁなんて気持ちになるお話でした。
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「たそがれ屋敷」と呼ばれるお屋敷にすむ姉妹のお嬢様たちのところへ、
ある日ルチアさんというお手伝いさんがやってきます。
物語はこのあたりから始まります。
姉妹のおとうさんは船にのって世界中をまわっていますから
なかなか姉妹のところには帰れません。
姉妹にとってたまに帰るお父さんから聞く外国の話は
何物にもかえられない宝物でした。
そしてこのお手伝いのルチアさんが、
姉妹の宝物に共通する何かを持っていることに気がつくのです。
キーワードは水色。
姉妹の宝物の水色の宝石のような石と
ルチアさんの秘密の食べ物。
やはりどこかでつながっているのでしょう。
幼少の頃に夢中になっていたものや
幼いころの思い出に通じるもの、
そこから未来への夢を感じた大事なもの
そんなかけがえのないものを
慈しむ純粋な気持ちを思い出させる本でした。
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つんつく先生シリーズのたかどのさん、最近また見直されてきたらしい。
はじめて絵本ではない本作を手にとってみた。
話題になったから、というより、つんつく先生シリーズがあまりに個性的でいったいどんな頭だったらこんな絵本が作れるのだろう、と作者に興味があったため。
ルチアさん、はかなり幻想的な話で、読みつつどうやって話が収束するのかしら、とヒヤヒヤしたけど、突然終了してビックリ。
なんだか消化不良の感。
ルゥの成長後の姿も描いて欲しいし、ボビーはルチアさんの実子であってもいいのに、と思ってしまった。
実子がいても、お母さん感のないひともいるよ。
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表紙の絵柄が完全に私好みで、しかも高楼方子さんなので、迷わず図書館で借りたのですが、これがまた、意外な発見と喜びに満ちた宝箱で、私の中で確かに響くものがあり、購入しようと思いました。
正直、13章までは、ちょっと不思議な謎解きのような物語だと思っていたのですが、最後の2章で、突然、物語の主題が現れた時に、「ああ、これは見たまんまの形を問いかけてるのではないんだな」ということに気づきました。
大人になってから、何かのきっかけで、子供の頃の純粋で真っ直ぐでひたむきな─それが他人には全く興味の無いことだとしても─想像や喜びを、ふと思い出すことができたら、どう感じるのでしょう?
物語中のとある人物は、大人になってからのどうしようもない忙しさで、豊かな暮らしを得ることはできたが、時折、悲しくもなく楽しくもない、ひどく味気ない心でいることに気づきました。
そんな時に思い出したら、どう感じるのでしょう?
また、私の中で未だに消化しきれず、考え続けている、「ここ」と「どこか」の概念について、この物語では、とても興味深い捉え方をしています。
「ここ」にいながら、同時に「どこか」にもいる。
そんなことって、ありうるのだろうか?
おそらく、「ここ」というのが、わたしのいるところ、あるいは、現在のわたし自身だとすると、「どこか」というのは、ここではないどこか、あるいは、過去の純粋できらきらしていた、まっすぐにひたむきなわたし、なのかもしれない。
別に、大人になっても純粋な部分はあるはずなのに、なぜか、あの頃は純粋だったなと思うのはなぜでしょう。それとも私だけ?
きっと、形とか言葉ではっきり説明することはできないのだけれど、それでも確かにあったのですよ。分からないのに実感できる、見えないけど、かけがえのない大切なものを思い出させてくれた。
そして、もう一度、それを「どこか」として、私の体の中に取り込みながら、毎日を生きていけば・・・何としあわせな思いになることでしょう。
「どこか」というのが、遠い思い出でも、未だに探し続けていることでも、それは何でもよくて、それが現在の自分と過去の自分を引き合わせることになるかもしれないし、単に夢中になることがあることを、客観的な視点で見られる心の有り様を自覚することでもいいのです。
それは、自分が幸せだということを、自分自身で再確認することなのかもしれない。
そんなことを気づかせてくれただけで、私にはこの本が大切な宝物になりました。
それから、巻末に書かれた、「exlibris」は、「蔵書票」の意味があり、そこに名前を書いておくことで、永遠に私の本となり、それはスゥとルゥルゥの心が満たされた、水色の宝石と同じような、きらきらしたものに変わるように思われて、私の心もまた満たされるような嬉しさを覚えるのです。