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9月1日放送の『アンビリバボー』で、交通事故によって18年間の記憶を失ってしまったという著者のことを知った。私たちにとっては当たり前のことが、彼にとってはすべてが初体験。「常識」が定着していない、まるで生まれたての子供のような無垢な言動には、驚かされると同時に新鮮みがある。でも、部分的に記憶が蘇ったり、事故前と同様、絵の才能はあったり、記憶を失っても失わない部分があるというのが不思議だった。周囲の対応、特に母親は、子供を再び育て直すようなものだから大変だったと思う。手記からそれが見て取れる。草木染作家として立派に仕事をしている彼に会って話がしてみたい。
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本のタイトルがダサいのが、とにかく損。これは完全に編集者の判断ミス。そんなわけで、書名はこっちに置いておくこと。自分と同世代の人が書く物の中では、最近読んで最も面白かった本の一冊なのだ。
これは、18歳でスクーター運転中にトラックに激突するという交通事故に遭い、それまで生きてきた自分のあらゆる記憶を無くして、病院のベッドで目覚めた青年の手記。つまり、重度の記憶喪失の若者が、記憶が戻って欲しいと祈ったり、このまま戻って欲しくないと悩んだりしながら、自分を取り戻す数年間の青春記。本書はその若者、坪倉優介氏本人の手による実話手記なのだ。
事故に遭い、言葉の概念や過去だけでなく、あらゆる一般常識の殆ど全てを忘れてしまった18歳は、まるで言葉を覚えたての子供と同じだ。その子供が、少しずつ言葉を取り戻し、自分の言葉で日記を付け始める。それが本書のベースになっている。
本を開くと、前半は感じも殆ど使われず、たどたどしい平仮名で。そして、成長するにつれ、漢字を駆使し、自らの気持ちを形容する言葉遣いものびのび成長を遂げる。そんな若者の手で、本書に書かれた言葉はどこか詩であり、人生に悩む我々の心情の代弁でもある。
刻まれた一文字、一文字がとにかく素晴らしい。是非読んで欲しい。少なくとも、本文には登場しない「ぼくらはみんな生きている」なんて0.1秒で消し飛んでしまうような、素晴らしいフレーズや言葉の連なりがぽろぽろこぼれてくんの。
元々美大に通い始めていた筆者は、もう一度、美大を目指し、自然と対話をしながら、染め物の世界に身を投じる。そして自分がかつて、オートバイのジュニアA級ライセンスの持ち主であることを、記憶を失ってから初めて父親に打ち明けられ、親子でオフロードバイクのコースへ挑む。
巻末が近づき、筆者の人生は、染め物の世界の奥深さ、失われた記憶の中に仕舞われていた古い恋をすて、新しい恋に出会い、鏡に映る度に見知らぬ存在として疑っていた新しい自分にも慣れ、いわば記憶を取り戻すことよりも優先順位の高い事柄で囲まれている。新しい心の記憶と、古い身体の記憶が一致した瞬間、筆者はオフロードバイクにまたがり、父親の見ている前で一体どんな振る舞いを見せるか。彼にとっての感動的な、新しいスタートの一つが、そこにある。
そのスタートとは、我々一人一人にとっても実は同じであって。
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18歳でバイク事故。記憶は全て消えた。字も読めない。家族の顔もわからない。そんな彼が少しづつ過去を作っていく成長の話
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彼のことは、数年前にTVで観た。最近もまたどこかの番組で取り上げられたらしい。
18歳の時の交通事故によって脳に重大な損傷をうけ、機能障害を負った著者。
通常、機能障害による記憶喪失というと、短期記憶のエピソード記憶はやられても、作業記憶など長期記憶は無事なことが多い。彼の場合は、短期記憶のみならず長期記憶も障害を負ったため、たとえば「椅子」とか「ベッド」とかいった単純名詞や、トイレに行く、食事をするといった作業ですら、忘れてしまったのだ。これは18歳にして、頭の中身は赤ん坊へ逆戻りしたに等しい。実際、退院したばかりの彼自身がみた世の中は、きっと赤ん坊ならこんな風に見え感じているのだろうと思われるような表現ばかりだ。
これは、その壮絶な体験から、ひとつひとつ手探りですべてを新しく学び直し、社会生活を営むまでに復活した著者の手記である。
手記そのものは、生々しさこそ伝わって来るものの、巧拙でいえばむしろ拙く内容も散文的で、客観的に実態がありありとわかるという類のものではない。
だがその合間合間から、著者本人とそれを支える家族の想像を絶する努力と苦労や困難が垣間見え、どれほどの思いで事故からの数年間を生きてきたのだろうかと深く感じ入らずにはいられない。
投げ出さず、真正面から障害に向き合い忍耐強く闘い続けてきた著者とそのご家族に、心からの敬意を表したい。
あとがきで原田宗典氏が書いている彼の言葉が素晴らしく、涙があふれた。
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記憶喪失になったことで差別されることは厭わしいが、事故に遭ったことを自分自身が様々な言い訳に使っている。差別されるような態度を取ってきたのは自分自身ではないか。
ある日留年した理由を聞かれ、嫌々ながら事故で記憶喪失になった話をするが、最初は信じてもらえない。そんな風に見えなかったと言われ、いつも話をしてきたときと同じようにびっくりした顔をされるが、なぜか嫌な気持ちにならない。
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交通事故で、記憶喪失となった坪倉という青年の手記。
自分に何が起こったのか?
理解できないまま、自分のいた環境によみがえる。
そして、記憶は、すべて消えていた。
目の前のものから、順番に理解していく・・
なぜ何故そうなのか?
を繰り返し聞く。
ぴかぴか光るもの(おこめ)、
きらきら光るもの(おかね)、
青いご飯。
空の色。夕日の色。心の色。
「だんだん慣れてくると、みたままの色だけでなく、
心の色も見つけるようになる。
天気がいい日の空の色でも、
ほめられたときに見える色と、
怒られて見上げる空とでは、
色が違うように感じる。」
おいしそうな色。
目に飛び込んでくるものは、
やはり光であり、色である。
それを受けとめながら、自分のものにしていく。
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もし、今までの人生の記憶を全て失ったら・・・。不安ととまどいの中、一歩ずつ進んでいくさまは、人間の生命力、力強さを感じますね。
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#「口とおなかがすてきな感じです」「おいしいっていうんだよ」(『マップス ネクストシート』より)
#自分や家族の記憶はおろか母親/食べ物といった概念すら失ってしまった著者が、それでも残されていた言葉のありったけを使って世界を再構築していく、その12年間の記録。けむりがもやもやと出てくる光るつぶつぶ? かわいい顔をしているのがたくさんつまった大きな箱? その描写が何を指すのか気付いたときの、世界の上書き感は比類がない。『アルジャーノンに花束を』のような感動の〜、という惹句にひるむような人にこそ届いてほしい1冊。
(2009/07/30)
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小説より小説のような事実、ってのは世の中枚挙に暇がないけど、“記憶喪失”もそのひとつかもしれない。物語の中ではあっさり使われるそれを、実際に体験してしまった著者による生々しい手記。18歳時の事故で著者が失った記憶は、名前や家族の記憶に留まらず、数の数え方から食事やトイレなど生理現象そのもの、そして感情。その状況自体の恐ろしさが背筋を冷やすが、周囲の厳しさと優しさ、そして家族の難しさと供に乗り越えていく様が描かれ、記憶と社会との繋がりを考えさせられる。
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大学一年の時に乗っていたスクーターで交通事故を起こし、18年間の記憶をすべて失った著者の自伝。この本の終盤では12年程経っているようですがそれでも記憶は戻っていない様子。だだし、以前と比べ過去にはこだわらず、新しい記憶を大切に生きていきたいと締めくくっている。世の中には不思議なというか、奇跡的なことがまだまだあるんだと思いました。
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こうしたノンフィクションはほとんど読まないのだが、たまたま子供が買っていたのに目を通し、一気に読み終えてしまった。
確かに凄い体験である。いや、体験というのは正しくないのだろう。まったく一から始まったのだから。
最初は、食べることさえ初体験。単なる記憶喪失というより、本能部分まで障害を受けたようなところからのスタート。文字も分からないまま大学に通い、新たな自分を作り上げていく。ただ、この人が選んでた道が、美術の世界だったことは救いだったのかもしれない。相当悲惨な体験のはずだが、淡々と書かれているのが素晴らしい。面白いというと語弊があるが、多分(これも読まなかったけど)五体不満足も似てるのではないかと思う