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読了。内容が濃ゆかったなぁ…。天皇論は色々だからね。終章の「阻害された天皇を『断念』するために」は、読んでいて面白かった。そういえばこの作者、ちょっと前に憲法前文の書き換え運動ってのをしてたなぁ。
この本と、前作「定本 物語消費論」でよく見かけた人たちの名前をちょっとここにメモしておきますわ。あくまでも、メモですので。
吉本隆明(吉本ばななの実父)、宮台真司、福田和也、ジャン・ボードリヤール、江藤淳、くらいかな?まあ、柳田國男センセは、既にある程度読んでいるし、折口信夫センセはまだだけど存在は知っているから後回しということで(笑)。
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戦後の日本でサブカルチャー化していく天皇。屈託なく日の丸を掲げ君が代を歌う日本人たち。変容していく民主主義。これからの日本はどこにどう向かっていくのか?天皇はどうなるべきなのか?そんな話。
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昭和天皇が病に倒れたとき、皇居前に多くの女子校生が記帳に訪れました。そこで著者は、「天皇ってさ、なんか、かわいいんだよね」という言葉を耳にします。身の回りのものを「かわいい」で埋め尽くす消費社会の少女たちのまなざしが、テレビなどのメディアに登場する天皇を「かわいいおじいさん」というイメージで覆ってしまったのです。このとき、もはや天皇は、父性も歴史性も欠落し、ただイノセントな自分を写す鏡でしかなくなってしまっていると著者は考えます。
やがて1990年代に入り、イノセントなナショナリズムが隆盛を見ることになります。精神科医の香山リカは、この現象を「ぷちナショナリズム」と呼び、歴史や社会から疎外された人びとが「自己」を預ける「国家」を求めたのだと指摘しました。この議論を受けて著者は、天皇を「かわいい」という少女たちの姿に、香山の「ぷちナショナリズム」の始まりを見ています。その後、女性週刊誌に掲載される皇室写真で秋篠宮眞子内親王が中央に写っていることに象徴されるように、皇室はサブカルチャー的な想像力の中で消費されるようになります。ところが、保守系の論客の多くは、現代のナショナリズムから天皇の占める位地が溶解しつつある現実を直視していないと著者は指摘します。その中でただ一人、福田和也だけが、戦後の天皇制は保守論壇にとって「日本」というものをきちんと考えることを棚上げにする装置として機能していると喝破しました。こうした福田のスタンスは、左右の違いはあれ、戦後民主主義を虚妄として片付けるのではなく、私たちの「歴史」として引き受けなければならないという著者のスタンスと一致します。
そのほか、著者の三島由紀夫論、石原慎太郎論が収録されています。
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大塚英志は、江藤淳の少女フェミニズムについて考察するときに、上野千鶴子の男流文学論での発言を引用することがある。上野千鶴子が『成熟と喪失』を高く評価しているくだりなのだが、その発言に対して大塚英志は「上野にとっての『成熟と喪失』が「涙なしに読めない」のは、江藤が上野の同性さえ理解し得ない上野の中の「わたし」を67年の時点で正確に言い当てているからである」と論評している。この文章は私の心の中にずっと残っているのだけれども、それは私にとっては全くもって大塚英志に対して当てはまるからなのです。大塚英志の文章を読んでいると、ふと、この人はなぜある種の女性自身でさえ言語化できていない内面のひずみに、ここまで正確な言葉を与えられるんだろうと不思議になることがある。大塚英志の評論は非常にジャンルの幅が広く、横断的かつ多彩な側面を持っており、それは数々の方面で数々の功績があるでしょう。でも私が常に最も注目してしまうのは、このフェミニズムがすくい取れなかった、言語化できていないある種の少女性に対しての鋭い分析なのでした。そして氏の著作を読めば読むほど、その思想の輪郭が見えてくるようで最近は大変嬉しい。
さて、少女たちの「かわいい」天皇である。かわいいという単語は今やありとあらゆるモノ・コトの形容詞として用いられ、私はその用法について、そして「かわいい」という単語自体にものすごい興味を持っているのだけれども、少女たちが天皇のことを「かわいいよね」と言ったところから、大塚英志の批評家としての生活が始まっていることはやはりとても示唆深い。それらは「彼女たちの連合赤軍」や「少女フェミニズム的戦後」、りぼんのふろくや乙女ちっく、少女マンガへの一連の考察に後々広がっていく。大塚英志の「かわいい」は、自分が少女たちを対象として客観視して感じる「かわいい」と、傷つきやすく弱い主体としての自分を仮託する意味での「かわいい」が二重に含まれているからこそ、真に批評性のある少女たちが発見されているのではないかと改めて感じた。そして、その傷つきやすい私というのは、狭義の少女たちだけではなく、現在のポリコレ的左翼などの異常な弱者・マイノリティーへの肩入れなどをみていると、その少女性は拡大しているように思えてならないのです。それにしても、論壇デビューとなる文章はまだ語り方が定まっていないようで後半と比較すると随分エッセイ的で、私はそのやや揺れがあり、論ずるよりも文学性に傾いている文章も魅力的だと思った。
しかし、この本を読んで驚いたのは、意外と?表題の少女たちのかわいい天皇という部分は序章にすぎず、中盤からはかなり濃密な天皇論が展開されていることである。特に後半のナショナリズムを考えるための文学論(三島由紀夫・石原慎太郎)などは本当にページをめくるたびに新しいところへ引っ張られる驚きの連続、特に三島由紀夫の著作をディズニーランド論として読み解こうとする部分などは圧巻だった。こういうひらめきと直感の力は大塚英志の大いなる魅力のひとつなのだった。そして福田和也との対談などから見えてくる「疎外された天皇論」、このあたりはかなり踏み込んで日本��天皇とどう対峙するべきか、そして国民はどうなるべきかという部分が論じられており、それは非常に啓蒙的かつ教育的な内容で、大塚英志の知識人としての矜持や、メディア人として「送る側」であるという確固たる意思を感じるのだった。