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書いてあることとか、その書き方とか、いろんな意味でとても影響を受けた一冊。この本をよんで、なんだ、当たり前のことばかり書いてあるだけじゃないか、と落胆できる人に、わたしはなりたい。
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もっと早くこの人の主張に出会っていればよかったと痛感せざるを得なかった一冊です。歴史認識やフェミニズム問題などになぜ著者が「ためら」うのか、何に「ためら」っているのか、非常に心の中にもやもやとしたわだかまりをすっきりさせてもらった印象が強かったです。最後にカミュ『異邦人』等の著作に見られる論稿も個人的に大ヒットしました。
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内田樹の本を読んだのは初めてだった。インターネットでブログを読んだ限りでは、なんとなくリベラルだけどたまに論旨がねじ曲がったり、変に政治的になったりするオッサンという印象だったが、一冊の本として提示されると、それなりに筋は通ってるし、思考法は理性的だし、なかなか良いと思った。これからもエッセイを見つけたら手に取ってみるつもりです。
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「考え方」を考えさせられる。
個人的にはこの本に出会い視界が開けたが、前向きな気持ちで読まないと「中途半端なことしか言ってない」という不快感に襲われるかも。
「先生はえらい」を読んで共感したならぜひ読むべき。
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ブログからの抜粋集。
内田さんのブログは拝見しているので、読みやすい。この人の語り口はやっぱり好きだ。
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ある主張がある。
その結論がたとえ正論であっても、微かに不信の念がよぎったり腑に落ちない何かを感じることがある。そういうことを感じ取る内田樹のアンテナはものすごく感度が強くてエリアが広い。そこでなぜアンテナが反応したのかを探り、その理路を書き起こすという知的作業が内田樹の得意技である。
内田樹の書くものは、それが批評を目的とした批評でない限り健全な読み物たる。
内田樹はほとんど二元論的フレームワークから脱することに自らの立ち位置を定めている。まえがきにあるように、「中間を取る」ことで妥協案を探す。「専門家」と「素人」のズレを顕在化させ、修正することに仕事を求める。一方で、というよりむしろそのせいで、内田樹は結局何を言ったのか輪郭が見えにくいことがよくある。それは内田樹の書くものが構造的にある人にとって自明の意見に安易に帰属することをためらわせるものとしての形をとるから。こういう形は捉えにくい。でも健全だと思う。
また、上の理由で内田樹自身の結論が別の場所で変形していることがある。十分起こりうる。一貫しているのはその立ち位置においてのみともいえる。
内田樹を読む醍醐味は、複数ある目に見えた回答のどれにも重ならないが、その中間で確かに存在する内田樹のロジックを追いかけることであり、その妥当性を読み手が読み手の内に求めることにあると思う。
「ためらいの倫理学」は内田樹のデビュー作で、(必然性はあれど)時事性を優先している感のある最近の著作とは違って普遍性のある題材に挑んでいる点で、内田樹のより基礎的な思索を見ることが出来る。「大学生を中心に人気を集める現代思想家」(?)というイメージは自分の中であまりポジティブに働かず、「内田本はジャンクフード」のレッテルを貼っていたけど、これを読んで内田樹のやり口にとことん惹かれた。人に勧めるとしたらまずの本からかなぁと思う。
09.2.4
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あとがきにこんな文章がある。
最初のほうのスーザン・ソンタグ批判から最後のカミュ論まで、言っていることはずっと同じである。それは何か、と言われても、さすがに一言ではうまく言えない。無理して言えば、それは「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということになるだろう(なんだ、一言で言えるじゃないか)(349頁)
ここに、本書の性格および著者の性格がすべてあらわされている。
ポスト・モダニストを批判すること(「最初のほうのスーザン・ソンタグ批判」)、
一方でポスト・モダニズムのの思想的対極と言える実存主義からも距離をとること(「最後のカミュ論」)、
ジャンルレスに語ることを自身のスタンスとしながら思考の核をはっきりさせていること(かぎ括弧部)、
そして平易でユーモアを含む文体。
こんな感じか。総合すると著者自らが「普通の感受性」(190頁)と呼ぶ思考となろう。それはすべての極端から距離を置いた、まさに「中庸」と名づけうるものである。君子の中庸と平民の中庸は区別されるべきだ、とはどこかのえらい思想家が言っていたのを覚えているが(誰だっけか?)、それぞれをポジとネガとしたとき、内田の「中庸」は前者に当てはまるように思われる。つまりいいスタンスじゃん!ということだけなのだが。
実際、内田の論述は読んでいてとても痛快。本来ラディカルとされる極端志向の思考を、「普通の感受性」でひっくり返していくさまは、ラディカルという言葉の意味を再度考えさせられるものだ。たとえばフェミニズムに関するなら、内田はそれを「対抗イデオロギー」である限り認めるが、「支配イデオロギー」としては断固拒否する、というように論じている。つまり、カウンターカルチュアとしてなら正統性があるが、それが本来目指すところの既存のカルチュアの完全転覆には反対するのである。これが意味するのは、つまるところ現体制における性の不平等を肯定する保守的なスタンスだと言えるが、「まぁ、妥当かな」と笑いながら読める(それこそ「とほほ」である)あたりが、内田の上手さなのだろう。論じる対象へ一定の理解を示しながら、それが目指す究極(フェミニストだったら女性の男性超克)はばっさり切って捨てる、というどっちつかずの論法。なるほど、対象からしてみれば一番嫌味ったらしい論法である。
しかし、この論法に創造性はあるのだろうか。あるともないとも言い切れることではないが、基本的には受動的な姿勢からの搦手で一本、という方法である、ヒーローにはなれそうもない。このようなスタンスが、じつは最も困難な立ち振る舞い方だということは、たしかであるが。
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発刊当時、単行本を買っていたが、09/12/27文庫本をあらためて購入。(本棚を眺めていたら文庫本もすでに購入済みであった・・・。結局3冊目。)
文庫化に際しての「はじめに」、高橋源一郎氏の「解題」を読みたくて。
内田のフェミニズムへの批判は、いつも胸の奥にストンとくるものがあると思い続けていたのだが、ときどきこれで良いのかと思ってしまうようになってきた昨今。
あらためて読みなおしている最中。(10/01/03)
二度目の読了。(10/01/07)
ふだん思っていることを思想化することにおいて内田さんはすごいと思う。
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今回の収穫は「とほほ感」です。
私の先生はよく「自分を責めるのではなくこの国の制度を憎みなさい」と言うけど、でも実は、その制度に私たちは加担しているわけであって、その制度を憎むということは共犯者である自分自身をも憎まなければいけなくて…と考えていく時にでる「とほほ感」。
内田樹と丸山眞男はなんとなく似ている感じがする。
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専門家と素人の間という内田氏のポジションは、テレビにはでない。なぜなら、テレビ的なニ項対立思考ではないからだ。非ニ項対立思考?それは日本国民のあたりまえの特性だ。だからこそテレビ番組をみたいのだ。
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何度目かの挑戦で、ようやっと読み終わる。要はわからないことがたくさんだから、決め付けちゃダメだよってことかしら。ウィトゲンシュタインは語りえないことについては沈黙しろと言った。
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この人は何を言っているんだろう、という部分が何箇所もあるがそれは僕が内田樹の持つ下地(語られる対象に関する知識背景)を持ち合わせていないというだけで、彼が全くわけのわからないことを言っているわけではない(当たり前か)。
それどころか少し高次な内容の話でも「おまえら俺の言ってることがわかんねーだろ、わはは」的な高慢な姿勢じゃないのも良い(それは彼がとほほ主義だからでもある)。あえてわからない風に書くやり方もあるらしいが(というと完全に誤解を招きそうだけどうまく表現できないので)、それは「なぜ私は審問の語法で語らないか」あたりに詳しい。
そういった細かい部分についてはわからないながらも、彼が思想的にはどういった位置づけであるのかは巻末の高橋源一郎の文章を読めばだいたいわかる。
要するに内田樹は『「極端」な意見が跳梁跋扈する恐怖の世界』に『(救世主のように)現れた、非「極端」の人』なのである。
それを示すような文章が「自由主義史観について」にある。ちょっと長くなるけど引用。
『もし中学生に教えるべき「この困難な時代を生き延びるための知識」があるとすれば、それは「声の大きい」やつの言うことを信じるな、ということに尽くされるだろう。風説を信じるな、メディアを信じるな、・・(略)・・いまこう語っている私の言葉を信じるな。このダブル・バインド状況に耐える知性を自力で研ぎ上げてゆくほかに、子どもたちが成熟し自立するための手だてはないと私は考えている。』
本当に頭が良いってどういうことだろうかを考えさせる文でもあった。話としては「当為と権能の語法」が、追記と併せて読むことで、とても面白かった。「戦争論の構造」とかはある程度長いのでエッセイとして読むには少ししんどい(もともとそのために書かれたものじゃないしね)。
(2006年05月19日)
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ここまで素直に自分の好みを書いているとは笑
内田さんの本を読んでぜひとも採用したいと思ったのは、「自分が無知であることから自分の思考をスタートしていること」だ。最近、レポートを書くとき、「べき」、「でなければならない」が増えて、自分でも違和感を持つことがあった。何かを論じるときには、対象を完全に知っているべきである、ということを無意識に考えていたように思える。
何よりも「ためらいの倫理学」に共感を覚えた気がする。最近、サルトル・カミュを好んで読んでいた自分にとって、非常にためになった。これを読むまで、サルトルに異常なまでに惹かれていた。一つ一つの事項に決断していく姿勢に、感銘を覚えていたように思える。しかし、同時に違和感を覚えていた。なぜ、そこまで、1つの姿勢を貫かなければいけないのか、と。また、カミュが何を言いたかったのか、さっぱり理解ができていなかった。その時は、「ペスト」、「異邦人」、「幸福な死」を読了し、「シーシュポスの神々」をかじり読みしていたが、さっぱりだった。そこに、「ためらいの倫理学」を読んで、少しサルトルへの偏愛が覚めたし、カミュへの理解が深まった。もう一度、カミュを読みなおそうかなぁ。。
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ちくまプリマーの「先生はえらい」を高校の時に読もうとして、その文体にイライラして10頁も読まずにやめたんですが、あの書き方はプリマー仕様だったんですね。
出てくる思想家さんとかの下知識がないから(だけじゃないだろうけど)わからん所はたくさんありますが、せやんなーと思いながら読みました。
私自身が内田さんが大学で相手にしている学生と同世代なので、「矛盾が書けない大学生」の話は身に染みるというかなんというか…。
内田さんの講義受けてみたいなと思って神戸女学院、若干考えたんですが、なんせ女子大…。絶対やっていけない自信がある。
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内田先生が戦争、性、物語について語る、初期のブログコンピレーション本。初期の本の方が文章が難しかった。内田先生はあえて苦手な分野のテーマでもこうして思考を巡らせている。やはり考えるって大切だ。
そして、先生の言う知性というものがわたしも好きだ。「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」