投稿元:
レビューを見る
ためらいの美学がここにある。
二つの価値観の間で揺らぎ続けることは耐え難いけれど、
一つの考えに着地して安心するよりもずっと誠実で知的だと思う。
常にわが身を省みる姿勢。
それがぼくの理想だ。
投稿元:
レビューを見る
平岡諦氏のプロフェッショナル・オートノミーについての議論を読む。なんだかなあ、と思う。
http://medg.jp/mt/2010/08/vol-266-15.html
僕には日本医師会の真意は分からない(会員なのに、変ですよね)。そこに陰謀史観(患者の人権をないがしろにしておけ)があったかどうかも不明である。でも、平岡氏が主張するような
日本医師会の国内向け情報操作
↓
日本語という壁による「世界の常識」からの鎖国状態
↓
日本の医療界の「ガラパゴス化」
↓
日本の医療界の閉塞状況(医療不信、医療崩壊)
は、明らかに「言いすぎ」である。ほとんどの医師は医師会が訳した倫理マニュアルなんて読んでないし(僕も読んでなかった)、医師会が百歩譲ってそのような陰謀史観をもっていたとしても、日本の医療界が「それがゆえ」に閉塞状況になったりはしないからである。それに、平岡氏は指摘していないが、WMAは各国の事情に合わせた価値の多様性を尊重している。世界の医療倫理がみな画一的に同じであるべきとは主張していない。スローガンはあくまでスローガンである。平岡氏の主張によれば、日本の医療がことさらに他国の医療に比べて非倫理的ということになるが、そうである根拠を僕は知らない(倫理的な問題が皆無とは言わない。他国に比べてとりわけ、、という意味である)。
WMAはautonomyを以下のように説明している(マニュアルより)。そこでは医師の自律が尊重されているが、「患者の人権を擁護する」ために、とは書かれていない。また、患者のautonomyも大切にすることがうたわれているが、それは医師のautonomyの「目的」ではない。
Autonomy, or self-determination, is the core value of medicine that
has changed the most over the years. Individual physicians have
traditionally enjoyed a high degree of clinical autonomy in deciding
how to treat their patients. Physicians collectively (the medical
profession) have been free to determine the standards of medical
education and medical practice. As will be evident throughout this
Manual, both of these ways of exercising physician autonomy
have been moderated in many countries by governments and
other authorities imposing controls on physicians. Despite these
challenges, physicians still value their clinical and professional
autonomy and try to preserve it as much as possible. At the same
time, there has been a widespread acceptance by physicians
worldwide of patient autonomy, which means that patients should
be the ultimate decision-makers in matters that affect themselves.
This Manual will deal with examples of potential conflicts between
physician autonomy and respect for patient autonomy.
平岡氏は患者の人権擁護が全てに優先する医療倫理の重要事項であるとする。そしてそのために医師のプロフェッショナル・オートノミーが存在するのだと。平岡氏がそのような倫理観を持つことに僕は反対する気はない。しかし、そのような見解が世界の基準なのだから、それを追随しない(と平岡氏には見える)医師会はけしからん、というのはおかしい。
倫理は、どこどこにこう書いてあるから正しい、とか間違っているというものではない。他者に規定される倫理は、それこそ平岡氏の引用されるカントによれば、正しい倫理(あるいは道徳)とは呼べないのではないか。ジュネーブ宣言、ヘルシンキ宣言もそのような文脈で参照されるべきで、一意的に「ジュネーブにこう書いてある」と丸のみすることが世界標準というのではない。倫理もクリティカルに吟味しなければならないのだ。平岡氏の強硬な人権擁護絶対主義、医師会陰謀史観には「ためらい」がない。断言口調である。僕は倫理に関して、断言口調はそぐわないと思っている。倫理については首をかしげて、どうしよう、、、と悩み続けるのが現場のリアルな医療倫理である。
というわけでやっと本に入る。
「ためらいの倫理学」は内田さんの事実上のデビュー作である。久しぶりに読み直してみたが、ものすごく新しい。文体は今よりシャープでより攻撃的だが、本質的には当時も今も言わんとするところは変わっていない。
それは、自分の「正しさ」に対する健全な不安である。それが「ためらい」である。
したがって、自分は正しいに決まっており、相手は間違っているに決まっていると断言する上野千鶴子や宮台真司に内田さんは容赦がない。さらに興味深いのは、正しいに決まっている、と主張するような奴らは間違っているに決まっている、、、、あれ?俺も同じ話法使ってんじゃん、と自分に突っ込みを入れることも忘れない。
予防接種は「効く」のか?、と「患者様」が医療を壊す、で僕はこれらの本の多くは内田樹さんのパクリである、、と書いている。でも、ためらいの倫理学を読み直して、その見解が誤りであることが分かった。ほとんど全部パクリでした。今書いている2冊の本も、たぶん延々とパクリを繰り返すと思います。
投稿元:
レビューを見る
正直に言うと、内容はよく分からなかった。
内田樹が出した最初の単行本という体だったが、「やはり学者だったのか」という感想。笑
彼のガチな評論というものを初めて読んだ気さえする。
普段の至極わかりやすい文章に比べ、難しい引用や術語が多く難解だが、それでも部分的に分かる箇所を拾えば十分に楽しめる。
なぜか彼の文章は、分からなくてもストレスなく読み続けられてしまう。不思議である。
そして、何か頭がよくなった気がしてしまう。非常に不思議である。
最後のカミュ論のところで、殺人の是非について書いてあったのが少し面白かったかな。
あとは難しかったけど、内田樹ファンとしてその処女作を読む経験はしておいて良かったのかなと思っていて、結果的には満足している。
投稿元:
レビューを見る
今から10年前の本だからか、内田樹が最近の著書と比べてずいぶん攻撃的だなあと思った。笑 あと内田樹の本を読んでて初めて反論したくなった箇所があった。でもそのゴツゴツ感が、なんか良い。
投稿元:
レビューを見る
内田樹の最初の単書らしい。最近のものに比べて若干わかりづらいのは、彼が今ほど多数の読者を想定していなかったからかもしれない。
ともあれ本書の中で彼自身がレヴィナスやデリダ、ラカンらのことを「非常に難解で、全て理解しているとは思えない」と示唆しているように、彼の中心にあるのは「自分が知らないということを知ることの大切さ」という事だと思う。だからこそ倫理という大層なことを語るのに「ためらい」があってしかるべきだと考えるのだろう。極論は目立つので大きく左右に振れがちなのだが、その間のどこかに真理があると信じているからこそ、弱々しく、ためらいがちな意見になってしまう。その事を恐れずに肯定することで世の中はまともに進んでいくように思う。「論語・擁也」に見える孔子の言葉「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」というのもこれに近いのかも知れない。
投稿元:
レビューを見る
戦争論の部分がいちばん役に立った。ちょうど考えていてうまく整理できていないところだったので。国内の死者の魂を鎮めることと対外への謝罪を同時に行うことができればそりゃいちばんいいと思う。けれど、果たして可能なのか。といえば、不可能だろうと答えざるを得ないが、そこに向かっていこうと試みることはできると思う。フェミニズムへの言及はあんまり納得できない。どうして、そう考えるのかと思われるところがあった。カミュに関しては、サルトルとの論争もざっくりしか知らずあまりきちんと読んだことがなかったので、しっかり読んでみようと思う。
投稿元:
レビューを見る
内田先生の最初の著作。「戦争論/戦後責任論」、「フェニミズム/ジェンダー論」、「他者/物語論」に関したトピックを扱っているが、一貫して主張されているのは、
「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ」(p.349あとがきより)
ということだった。自然科学の世界にいる身の実感として、全くその通りだと思う。
トピックにもよるけれど、「私は知っている。なんであなたたちは分からないのか」と言い切ることができる人ほど信用できない。
話題になっている領土問題や原発再稼働などにも当てはめることができるのではないかと思う。
あと、カミユの「異邦人」が読んでみたくなった。
投稿元:
レビューを見る
白か黒かどちらといえない「あいまいさ」をわかりやすいことばで語っています。
目からウロコの本です!!
【熊本学園大学:P.N. S・H】
投稿元:
レビューを見る
内田樹本はほとんど読んでいる。日垣隆さんの『つながる読書術』で紹介されていた、この内田本は、読んでいなかったので、購入。
最近のうちだ本より少し難解。内田さんが、売れっ子になる前い大学の紀要などに投稿したものも含まれているためだろう。
(1)(フェミニズムに対して)、もし性差のもたらす弊害を実質的に廃絶することを人々がほんとうに望んでいるのなら、「性差については語らない」というのが、一番効果的な方法だろうと思う。(p219)
(2)(ラカンを例にして)読者が「テクストに意味がわからない」のは、ほとんどの場合、それが読者に理解されないように書かれているからである。(p260)
何がかいてあるかわからない本ってありますよね。でも、日本語に翻訳してある場合には、訳がわるいこともあると思うな。
(3)現在、世界的な規模で進行している拝外主義的なナショナリストたちや原理主義者たちのプロパガンダは、つきるところ「私は私であり、他者は他者である。その間に架橋することは不可能である」という古くて新しい命題に収斂する。(p290)
だから困るんだよね。原理主義は。お互いに何を考えているかを理解することから、対話は始まるはずなのに。
内田処女作のみずみずしさがあふれている本です。
投稿元:
レビューを見る
前に読んだ2冊とも内田樹さんの名前が出てきた為,読んでみた。内田さんの発する言葉にただうなずいた。自分が思っていたり悩んでいるようなことを言葉にしてくれたような。
20代残りわずかな期間に出会えたことに幸運を感じた。
投稿元:
レビューを見る
現代思想のセントバーナード犬・内田樹のデビュー作。
戦争論やフェミニズム、途中のジャック・ラカンあたりは頭から煙が出そうだったが、なんとか読了。
アルベール・カミュの「異邦人」刊行とレジスタンス参加が同時期で、「異邦人」の主人公ムルソーと、思想家としてのカミュの内在的な関連性についての考察は、こんな読み方があるのかと、非常に興味深い。
「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性」より、「自分の愚かさを吟味でき、疑うことができる知性が好きだ」という著者の意見。後の作品でも、その基本スタンスは変わることがなく、空気を読まないといけない社会へのラディカルな異議申し立ては、とても明快かつ痛快。
投稿元:
レビューを見る
デビュー作。今よりも文体がキツイ。個人に対する攻撃が結構多いから、これは確かに批判されてもおかしくはないかな。面白いし、言いたい事に筋は通ってるから納得はするけど。
投稿元:
レビューを見る
内田先生のデビュー作。内田作品はこれまでちょうど10冊読んだが、なぜかデビュー作だけはスルーしていた。内田先生自身が述べているが、先生は専門外(たとえば本作品では性)の問題も積極的に俎上に載せ、それを私のような素人にも実に分かりやすく捌いて提供してくれる。その手並みは理路こそ入り組んでいるものの実に鮮やかで胸にストンと落ち、落ちない場合でも読者を思想に駆り立てる。その理由は数多いる専門家と呼ばれる人たちが自分の専門性や知性の高さをひけらかすのに専心するあまり、結果として読者を置いてけぼりにしているのに対し、内田先生にはそういう厭らしさがなく(あっても周到に隠されている)、専ら読者との間に架橋することに意を注いでいるからではないかと思う。「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」(349ページ)。内田先生のこのスタンスを100%支持する。
投稿元:
レビューを見る
内田樹の本を読むのは今年これで3冊目。カミュのことについて書かれた評論が収録されており、自分が高校生(?)の頃に「異邦人」や「ペスト」を読んだ時のことを思い出しつつ、作品にそんな哲学的省察が込められていたことに新鮮な驚きを感じました。
投稿元:
レビューを見る
「知性」とはなにかを考えさせ、自らの思考力、判断力を鍛えるための良質なテキストが満載です。
p.25
私たちは知性を計算するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定に入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。
p.42
私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計算する。自分の博識、公正無視、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。