サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

e-hon連携キャンペーン ~5/31

hontoレビュー

ほしい本の一覧を見る

ためらいの倫理学 戦争・性・物語 みんなのレビュー

文庫

予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー72件

みんなの評価4.1

評価内訳

69 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

内田樹は思想界の筒井康隆である。

2007/10/08 19:20

12人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る

この賛辞を著者が喜んでくれるかどうかは分からないが、「内田樹は思想界の筒井康隆だ。」と思う。

 『私は「邪悪な」人間である。
 自分を「邪悪な人間だなあ」としみじみ思うことがよくある。
 他人が苦痛に歪む顔を見ているときに、爽快感を感じることがある。』(p.272)と書くとき、内田樹は筒井康隆である。

 『政治的私見を述べるものが「私が正しいことを認めろ」と主張することは、合法的である。しかし、「私が正しいということを認めないものからは政治的権利を剥奪しろ」と主張することは、合法的ではない。』(p.65)と書くとき、内田樹は筒井康隆である。

 『宮台の言い分だと、知的前衛たるものは、そのような人々の行動にひそむ重大な社会学的な意義が理解できなければならないらしい。女子高校生の生態に詳しいことくらいのことで、なんでこの男はこんな威張っているのか、私にはよく分からない。』(p.188)とまるで『腹立半分日記』なのが気持ちいい。

 そして、『なぜ私は審問の語法でかたらないか』は、『みだれうち犢書ノート』である。

 この本を読むことで得られる最大の知見は、『さまざまな社会的不合理(性差別もその一つだ)を改め、世の中を少しでも住みよくしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。』(p.146)である。これを悟ることが知識人には難しい。しかし、これを悟れなければ真に知識人にはなれない。

 人間の暗部と向き合い、なおかつそれに囚われることなく、帰還する。その力を持った人物のみが語り得る人間の真実が、彼らには見えているのである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

聴きたいことは内田に聴け!

2010/08/19 01:08

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:nanako17girls - この投稿者のレビュー一覧を見る

 電車のつり革広告を見てるとどこの出版社も「内田、内田」の文字が出ている。内田先生は器用な人なので、どんな内容にも深い造詣を持っている。なので、出版社的には使いやすいのかもしれない。しかし、ちと芸がない気もする(読んでないのに)。「どうせ、面白いものは書籍化されるし、雑誌を買うほどでもないかな~~~」と、小銭を気にしてしまう(ブログも読めるし)ここで矛盾を感じてしまう。「内田先生の対談は読みたいけど、書籍まで待つか」「わざわざ捨てることになる雑誌にお金を払うか」。つまり、雑誌が内田樹の広告になっている、という現象。おそらくそこでお世話になった出版社(編集者)から書籍が発行され、利潤を生んでいる。よく考えてみればコミックとかもそうだよな~~~。雑誌連載され、コミック刊行。つまり、ここで力を持ってくるのがコンテンツの責任者(編集者)ということになってくる。Amazonのように7割を印税に、という事態になったら雑誌はなくなる。ならば、どこで名を売るか、内田先生のようにブログで発表する、というスタイルが主流になりそうだ。

 元々、Amazonは本の流通から始まった。「ユビキタス」という言葉通り、理想の未来があるのか?それとも、食いつぶされるのか?それとも、「日本語」という最後のナショナリズムが変化をするのか?欲望は常に絶望をともにする

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

何度読んでも論理展開のおもしろさに引きこまれる

2003/09/09 15:25

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:pipi姫 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 単行本は既に買って読んだというのに、新しいテキストが4本入って高橋源一郎の解説文も掲載されているとか聞くと、ついつい買ってしまったではないか。わたしってほんとうにウチダ先生の忠犬ハチ公みたいやねぇ。

 といいながらまた悪口を書いてしまいそうな悪い予感が…

 本書は二度目に読んでもやっぱり面白い。今回新たに加わったテキストのうち、「有事法制について」などはその論理展開の見事さに舌を巻いた。
 曰く、「単純計算すると、わが国が「有事」を経験したのは「有史」以来4回。平均のインターバルは182年。……次に日本が外国武装勢力に本格的に侵略されるのは2309年頃である」から、今の日本は「有事」に直面する前提などない、今は「無事」なのだ、とな。

 ウチダ氏は、「有事法制」を「無事法制」だと言い切り、賛成する者も反対する者も全員が「ほんとうに日本の国家主権が危機的な状況」など絶対に来ないということを気楽に信じている、と述べる。だから、有事法制に対しては「情けない」と自嘲する以外に批判の方途がないという。本気で有事法制に立ち向かうには、徹底した軍事大国化の道しかないそうだ。
 なんかもう天晴れな論理なので、わたしはその牽強付会の解釈にも「恐れ入りました」とほんとうに恐れ入った。

 本書の内容詳細については既に単行書と文庫に優れた書評がついているのでそちらに譲るとして、今回改めて感じたことを手短かに述べよう。

 ウチダ氏のおもしろさとわかりやすさの最大の理由はそのユーモラスな文体にあるのだが、これが高橋源一郎にそっくりであることを知ってしまった(今ごろ知ったのかと突っ込まないよーに)。寡読にして高橋源一郎の作品を知らないものだから今ごろ気づいたが、飄々として控えめでその実きつーいことをきっぱり言う。この物言いが読者を惹き付けるのだろう。

 だが、「私は審問の語法で語らない」とか「『私は正しい』ことを論証できる知性」はよくないと言いつつ、ご自分でちゃっかりその位置取りを守っているのだから、ちょっとズルイ。「私は自分が間違っているかもしれないという留保をいつも担保しているよ」と言うことによってしっかりご自分の後背地を守っている。頭のいい人だ(まあ、こういう論はつきつめれば循環論法に陥るのでやめておく)。

 また、「私はよく知らない」とか「わからない」と何度もウチダ先生は言うが、実は「知らない」ということを知っているというのはすごいことだ。すっとぼけているようでいてそうではない。このあたりの奥義も読者の腋の下にこちょこちょと指が届くような心憎さである。

 ウチダ氏の魅力はユーモラスな文体にあるだけではなく、「とほほ主義」とご自分でおっしゃる「ためらい方」にある。つい耳を傾けたくなるような深遠な反省の思弁を謙虚さのオブラートに包みつつ辛辣に語る、その批評精神の鋭さではないだろうか。

 こうしてまたわたしは、なんじゃかんじゃと文句を言いつつ、悪魔に魅入られたようにウチダ先生の虜になったのであった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

笑いとユーモアの思想

2003/09/04 16:33

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る

単行本をすでに読んでいたのだが、旅先の本屋で見つけて旅のともにと買ったあと暇を見つけて拾い読み、結局帰りのバスの中で最初から最後まで読み通してしまった。
やはり面白い本である。面白い以上に、私にとってとても重要な本なのだ。

〈とほほ主義〉という言葉がある。それは「従犯感覚」と要約されているが、具体的にはこうだ。

「たとえば、日本の政治システムを批判するとき、私たちはつい弱腰になる。それは批判している当の本人が久しく政治に関わる言論の自由、集会結社の自由を保証され、選挙権や被選挙権を行使してきた結果、いまの政治システムを作りあげてきた一人だということを、骨身にしみて知っているからである」298頁

国家と個人の関係について、上記の文章には違和感もあるが、その言わんとするところについてはとてもよくわかる。自分の立場を正義によって正当化し、検察官のごとくふるまうことを氏は徹底的に回避する。その感覚が私にもよくわかるのである。日常の生活のなかで、さまざまな判断を迫られることもあるが、そのとき、正義や超越的な価値によって判断することを避け、できるだけ自分の好悪を根拠にすることにしているのだが、そんな時に出会ったこの文章は、まさにすっと納得できることだったのである。
自分の絶対性を留保し、いつでも自分は他人から批判されうるし、自らの言説そのものによっても逆批判されかねないという態度を自らに課すこと。こう言い換えることもできるだろうこの「とほほ主義」を、私は後藤明生からも学んだ。
自分が相手を笑うことができると言うことは、自分が相手からも笑われる可能性があるということをいつも自らの世界観の中心においていた「楕円の世界」の小説家後藤明生である。
この感覚をユーモアと言うこともできるだろう。自らが自らを笑うことのできる知性をユーモアと呼んで差し支えないと思うからだ。そう考えると、内田樹と後藤明生はともにユーモア、笑いの人であったということに気がつく。
私はそういうユーモアが好きだ。

本書で氏が問題にするのは以下のようなことだ。
ソンタグは実際に戦地へ行ってない人間が戦争について語ることを禁止すること、マルクス主義やフェミニズムが不敗の論理構造を持つこと、サルトルが植民地の人間に謝罪し改悛したことにより他の知識人に対して審問の権利を手に入れたこと等々。

そんななかで氏が立ち上げようとするのが「ためらいの倫理学」である。
カミュの「異邦人」「反抗的人間」「ペスト」などやレジスタンス活動、対独協力者粛正への助命嘆願などをもとに、カミュの「反抗」の思想を「ためらいの倫理学」と名付けその思想的意味を鋭利によみがえらせる本書の白眉である。
「異邦人」の殺人の場面が、一対一の状況で相手が攻撃してくるならばこちらは相手を殺すことができる、とする平等性のモラルによって駆動されていることを確認し、そのカミュが戦後の粛正という社会という第三者の介入する「裁き」への助命嘆願に署名するというねじれを見ていくこの論考は、カミュの「反抗」の論理を鮮やかに取り出してみせる。

「なんらかの「全体的」な真理や、異論の余地なき正義の名の下にテロルが執行されるとき、テロルに条理があることを認めている場合でさえ、ぎりぎりそれが現実のものとなるとき、「真理の暴力性」や「正義の過剰な峻厳さ」に「なんだかいやな感じがしてたまらなくなる」人間の心の微妙な動きを、カミュは「反抗」という言葉に、あるいは「顔」という言葉に託している」330頁

「正義のためらい」—殺すものと殺されるものが顔を合わせるとき、そこにある「殺すな」という訴えが、「ためらい」を生み、それが暴力を限界づけるという、その「ためらい」を思想の準位に繰り込む試みである。

これらの思考は、私の思考や漠然とした感覚の中心にまで食い入る刺激がある。再読してもなお。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

2004/11/06 22:55

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/02/16 05:49

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/09/04 15:17

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2006/02/14 00:44

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2006/07/16 22:25

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2007/04/22 10:16

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2008/02/08 00:25

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2007/05/17 23:43

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2007/05/18 10:26

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2007/08/03 20:01

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2007/10/14 11:57

投稿元:ブクログ

レビューを見る

69 件中 1 件~ 15 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。