紙の本
ペンの力
2004/02/25 21:17
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投稿者:本格派 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、児玉隆也というルポライターの生涯を追いかけた評伝である。
児玉隆也というのは、時の首相を退陣に追い込んだ月刊誌「文藝春秋」の伝説の特集、「田中角栄研究──その金脈と人脈」「淋しき越山会の女王」の後者の取材執筆者である。前者の著者はいわずと知れた知の巨人、立花隆だ。
昭和12年生まれの、児玉は、幼い頃に父親を亡くし、戦後の混乱期に、裕福とは言い難い状態の中、勤労学生として早稲田の夜学を出て、光文社に入社。「女性自身」編集部で、辣腕編集者として活躍していく。
編集長代理として「ドラマ人間」という骨太のシリーズ企画を成功させるものの、未曾有の組合闘争「光文社闘争」をきっかけに、昭和47年、34歳で退社独立にいたる。独立を決意するまでの描写は、会社をやめて独り立ちする者に普遍的な内面の葛藤が見事に掬い取られていて、興味深い。
フリーランスのルポライター。聞こえはいいが、注文が来てなんぼの厳しい世界だ。その文章と緻密な取材力には定評のあった児玉だからこそ、「サンデー毎日」「週刊TVガイド」「現代」と様々な媒体から活躍の場を与えられた。しかし、当時のライターにとっての最高の舞台は「文藝春秋」だった。児玉も数度原稿が載ったが、まだ、レギュラーライターいう立場ではない。常連執筆者にならなければ、一流とは認めてもらえない。
一方、「文藝春秋」編集長、田中健五は、時の首相を解剖しよういう大型企画を密かに目論んでいた。何人もの編集者を立花隆にあてがい、史上最強の取材チームを作った。田中角栄の「金脈」の全貌を描くのがこのチームの使命だ。その一方で、田中健五は、人間臭いドラマのある記事を一本欲しがった。児玉が、かつて「女性自身」の名物企画の中で、田中角栄の金庫番、佐藤昭という女性秘書を取り上げようと取材まで終えた段階で、田中角栄の圧力を受けて潰されたことがあったことに思い至る。
かくして田中健五と児玉は対峙する。田中健五の腹は、取材データだけよこせ、記事は編集部で書く、というものだった。ここで児玉は一世一代のアピールをする。
「自分に書かせてくれ」と。
その情熱に田中健五は折れ、児玉に賭けた。児玉はひと月弱という短期間に、旧知の取材記者二人に声を掛け、この大仕事に取り組む。
ここの男たちのドラマは、胸が熱くなるものがある。まさに本書のクライマックスだ。この時、児玉37歳。すでにガンという病魔は児玉の肺に着実に根を下ろしていた。
やがて発表された2本のレポートは、大きなうねりとなって日本の政局を揺り動かす。それは新聞にもテレビにもできなかった快挙である。筆の力で政権が滅びたのだ。
目もくらむ名声を得た児玉であったが、翌年の春、38歳になってすぐ、不帰の客となった。10歳、8歳、2歳の幼子を残して。その無念、いかばかりであったろう。
ルポライターは、検事や警官のような捜査権を持つものではない。しかも記者のように、大新聞や有名雑誌を看板に背負って、取材できるものでもない。「人から話を聞く」という仕事では、最も弱い立場である。児玉隆也はそのルポライターに誇りを持ち、地を這うような取材を敢行し、すぐれた文章で多くの素晴らしい記事を残した。
こうした矜持を僕たちはどんな仕事に就いていようと持たねばならぬ、そう痛切に感じた。本書は見事な快作である。
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タイトルどおり“伝説のルポライター”の評伝。出版社系雑誌記者の底力を見せつけられる。
取材とは何か。“特ダネ”はどうやって生まれるのか。児玉氏の具体的な逸話をもとに、読者の手にルポルタージュが届くまでの書き手の思いが伝わってくる。
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ネットで「児玉隆也」と引くと、この表紙画像が出てくるので、なにかなと思っていたら、よくよくサブタイトルを見ると、坂上遼さんという探訪記者さんが、児玉隆也の38年の生涯を書いたものだった。近所の図書館にあったので借りてくる。これでも、もう10年前の本。
坂上さんは、児玉隆也の15歳下になる。『安井かずみがいた時代』を書いた島崎さんが、安井かずみの15歳下だった。それくらいの歳の差が、対象が生きた時代を共有しつつ書けるのかなと思ったりする。
▼ルポライター児玉隆也を知る人は少ない。12年間の編集者生活のあと、ルポライターになったものの、実質活動期間は3年にすぎないからだ。
この間に書き残した原稿は、7千枚をゆうに超える。晩年親しかった『文藝春秋』編集長の田中健五が、『この三十年の日本人』(新潮文庫)の解説の中で、〈三年間に三千枚〉と記しているが、署名、筆名、無署名を使い分けていた児玉の遺族の手元に残る作品のコピーや大宅文庫などの資料から、その倍以上の枚数を書き上げていたことがわかる。
人をして「地を這う取材」と称せられるほど、恐ろしく詳細なことまでも調べ上げている。最後の一年はガンと気づかぬまま、まるで死に急ぐかのような取材を続け、『ヤングレディ』『諸君!』『文藝春秋』『潮』『週刊朝日』に次々と作品を発表している。(p.1)
3年間に7千枚を書いたその取材エネルギー、坂上さんは、児玉の足跡をたどっていくなかで、それは児玉の「無念」と「上昇志向」が表裏一体となって噴出したものと思う、と書いている。
児玉の書いたものを、『一銭五厘たちの横丁』、『君は天皇を見たか』、『この三十年の日本人』…と読んだ私は、この評伝でその舞台裏をのぞいてしまったようで、ちょっとどぎまぎした。
たとえば、「児玉さんは部下には好かれないけど、取材先からの信頼は厚く、評判はいい」(p.161)という編集者時代の同僚の話。あるいは、『この三十年の日本人』に収録されている「『若き哲学徒』の死と二つの美談」(『文藝春秋』での初出タイトルは「『若き哲学徒』はなぜ救命ボートを拒んだか、1973年6月号)の末尾に、亡くなった「哲学徒」の弟さんが批判の文章を某誌に書いているという注記があって、それが気になっていたのだが、この取材の際に児玉が4つの"禁じ手"を使ったことを坂上さんは書く。
さらにまた、この初出の『文藝春秋』の原稿から、新潮社の本に収録された際に、児玉が「重要な部分を大きく二カ所割愛している」(p.290)というところに、びっくりした。この割愛された部分があったからこそ、弟さんは異議申し立てをしたのだということだったから。
坂上さんは困惑を正直に記している。
▼このトリックに気づいたとき、長い間この作品を、完成度の高いものとして評価してきただけに、驚きと困惑を覚えた。全体にまとまりがよく、読みごたえがあれば、事実と異なった内容でも許してしまうのか。遺族からの抗議を受ければ、読者に説明もなく、原本から重要な部分を割愛してしまうのか。つまり、おもしろく読ませたあの部分は、実は"フィクション"だったということなのか。あるいは遺族との争いを回避したかったのか。児玉の"ノンフィクション"に対する姿勢に疑問を持たざるを得なかった。(pp.291-292)
もうひとつ、坂上さんは、児玉がイタイイタイ病について書いたルポは、その仕事のなかで一点の曇りだと書く。
▼児玉のルポライター人生に一点の曇りがあるとすれば、それは「イタイイタイ病は幻の公害病か」にほかならない。(p.330)
このレポートの現物を私は読んでいないが、坂上さんの紹介によれば、児玉はまるで「公害企業のお先棒を担ぐ"救世主"」に変わったかのように、イタイイタイ病の原因はカドミウムではなく、真犯人は医者の過剰投薬、栄養不足、風土病らしい、という内容を書いたものだという。掲載は、『文藝春秋』の1975年2月号。
まだ読んでない児玉の著書。
『市のある町の旅』サンケイ新聞出版局、1973
『人間を生きている』いんなあとりっぷ社、1973
『テレビ見世物小屋』いんなあとりっぷ社、1975
『現代を歩く』新潮社、1976
『淋しき越山会の女王』岩波現代文庫、2001 …表題作は読んでいるが、収録作のいくつかは未読
(5/6了)
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どんなジャーナリストも人間である。
様々な力に振り回される。
しかし、自らの信念に従って書くことを貫く姿に、読み手は深い感銘を受ける。
そんなルボライターの元祖とも言える児玉隆也氏が語りかけるような、渾身の取材がなされたこの作品は、ノンフィクション読みには是非とも一読願いたい秀逸な作品である。