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屋久島で雨が多いことのたとえで、常にこの本が引用されるが、屋久島の場面は最後のほうに少し出てくるだけである。ベトナムを描いたということで推薦とされた本ではあるが、実際のベトナムの場面はごく少ない。
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映画を観てから本を読んだ。映画ではベトナムでの出来事をはしょっていた。戦後すぐに制作されたので海外ロケをする余裕がなかったのだろう。ベトナムのダラットは坂が多い街で、尾道とよく似た街だった。
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タイトルが素晴らしい。人が生きるということは、浮雲のようなのだ。流れ流れて、どこへ行き着くでもなく、徐々に体を散らせて行く。
ゆき子は富岡という浮雲に乗ってしまったばっかりに、自らも漂う運命になってしまった。富岡の流れるところへ、ゆき子も自然と流れて行く。富岡はそんなゆき子をうっとおしく思うが、自分が乗せたゆき子だけに、離れることは出来ない。邦子やおせいは浮雲の流れる早さについていけず死んでしまい、最後までしがみついていたゆき子も力尽きて死んでしまった。
ゆき子までも失った富岡はきっと、これからも流れていくのだろう。だって浮雲なんだから。
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「一号線を北上せよ」のなかで、沢木耕太郎がダラット経由のバスか、ムイネー経由のバスかを選ばなくてはならず悩む局面がある。結局ムイネー経由となるのだが、ダラットへ行きたかった理由はそこが本作の舞台だからだという。沢木耕太郎自身が北上する途上でこの小説を再読しているのにヒントを得て丸善ジュンク堂でゲット(余談ですが久しぶりのジャパンの書店楽しかった)。林芙美子と言えば初期の「放浪記」か晩年の本作かという代表作。僕も95年にベトナムを北上したとき、サイゴンから統一鉄道で北上したので、山間部のダラットは行ってない。本作の中で描かれるダラットは主人公のふたりにとって儚い夢の地。物語の多くが展開されるネガティヴな日本の情景からある種の憧憬と共に描かれるから、確かに行って見たくはなる。
それにしてもこの主人公のふたり、富岡とゆき子のだらしなさと破滅ぶりは読んでいて心がひどく痛い。周りの全ての人を不幸にし、ふたりの先に有るものも破滅と死しかないと判っていながら別れられないふたり。本作は林芙美子が陸軍の報道班員として南方に滞在した時の経験から書き起こされたと言うことだが、戦局に逆らえなかった苛立ちのようなものが人間関係にも投影されてるように感じる。作家は登場人物に自らの一部を投影するものだと思うが、林芙美子が投影したのはゆき子ではなく、むしろ富岡の方だったんじゃなかろうか。林芙美子の死後、高峯秀子主演で映画化されていて、代表作だと言うが、観るべきかなあ…。
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色々なことが詰まっていて、とても豊富な物語だったという印象です。ダラットでの生活が美しい思い出とされていて、荒廃した日本での生活と対比されていますし、日本に帰国した後の富岡とゆき子の違いを考えてみても面白いです。着目したいところがたくさん出てきます。
全体としてはどこか戦後の現実を感じて、何とも言えない気持ちになりました。
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成瀬巳喜男監督の映画を先に見ていたので、ストーリー、台詞がほぼそのままで、読みやすかった。
これまたどうしようもない駄目男と駄目女の話。映画版では省略されていたが、ゆき子が死んだ後富岡は酒に溺れ、島の女と交わりを持つシーンで小説は終わる。なんというクズっぷり。でも、時にはこういう文学作品を読んで、「人間ってこんなものかも知れない」と感じるのも悪くない。
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林芙美子の『放浪記』を読んだ後に、『浮雲』も読んでみたいなぁと、ずっと思っていた。
どんな内容なのかしら?.....と、先ずは本を手に取りタイトルの“浮雲”に注目し、自分がはるか遠い昔に見た実際の浮雲の印象の記憶を手繰り寄せる。
大きな青い空に頼りなさそうに浮かんでいる雲。
よくもまぁ、広い空間に何の支えもなく浮かんでいられるものだと見つめていた。
見つめているうちに私はなんだか哀しくなってしまい、その儚い雲が、あっけなく終わる人の一生に重ねていたのだった。
この物語の男女は不倫している。
ほんとうに仕様がないふたりで、別れたり浮気したりと、まわりの人達をも不幸の踏み台にして罪作りだ。
結局は、愛しているのかわかんない感じで、寄り戻してと腐れ縁なんでしょう。
落ちに落ちて呆れてしまう。
けれども自分は、まっとうに生きているからって、彼らを笑ってはいけないんじゃないかと思う。
人は誰しも浮雲のようにさすらっているんだから。
あの日に見た浮雲の印象は、読んだ後も変わらない。
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仏印での燃えるような恋を経て、戦後帰国したゆき子と富岡。浮雲のように流れゆくしかない人生に希望はなく、ただ暗いストーリーに吸い込まれます。
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昨年何度かベトナムを訪れる機会があったので読んでみた。河内=ハノイ、海防=ハイフォンなど、馴染みのある地名の漢字表記を初めて知って興味深かった。戦時に仏印ベトナムで夢のような生活を送った主人公ゆき子は 戦後焦土と化した東京に戻り、恋する男を追って、絶望のうちに死んでいく。ゆき子だけではなく、元恋人富岡の人生もまさに「浮雲」的であった。
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大人になったらこんな言動を理解できるようになるのか。富岡はゲスいしゆき子はヒステリック過ぎる。ちょっと自分とは種類の違う人間のように思えるけど心情の説明が詳しいからなんとなく飲み込めないこともない。
"良い"登場人物が現れないのがリアルな感じはする
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すごく暗くて何が面白いのかよくわからない不倫の話。戦時中の日本がインドシナで逞しく生きていたことは凄いなと思った。今あのように現地化した日本人はいないだろう。フランス人はもっと現地化していたが。
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終戦後の日本を舞台にした一組の男女の物語。
代表作と呼ばれるにふさわしい、豊富で充実した内容の小説。
主人公「ゆき子」の生き方には、現代の安定した社会の常識的な立場からはいろいろ言えるのかもしれないけれども、そのことにどれほど意味があるのだろう。
このたくましさはもちろん作者自身の反映であろうし、男性作家がけっして描けない生々しさだと思う。
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1949(昭和24)年から作者48歳で死没の1951(昭和26)年まで雑誌に掲載された長編小説。
そういえば林芙美子作品は、今まで読んでなかったらしい。近代文学の有名作はだいたい読んできたのだったが、外国小説の翻訳物の方が得意分野で、日本の近代文学ではまだ読んでない有名作品がいくつもある。特に女性の手になる小説は、そう言えば何故かあまり読んで来なかった。女性の書くもの→少女マンガ→女が読むもの。という文化のジェンダー分割が子どもの頃から植え付けられていたので、無意識に、小説一般ですら、女性の小説をなんとなく積極的にはあまり読まないという習性になったのかもしれない(その割には、アガサ・クリスティーあたりはよく読んだ)。
林芙美子読もう!と思ったのは、最近お気に入りの現代作家・桐野夏生さんが『ナニカアル』という小説で林芙美子の人生をフィクション化して扱っているので、それを読む前に、ちゃんと林芙美子を読んでおかなくては。と、考えたからである。桐野夏生さんは林芙美子『浮雲』について、「女性の心理を最もよく書けた小説」と、確か発言されていた。
この『浮雲』はたぶん、林芙美子の晩年の代表作の一つと思われるが、読み始めてみると、非常に読みにくいと感じ戸惑った。読点が非常に多く、しかも妙なところに付いていて、そのリズムにどうしても乗れない。この時代の小説でこんなに読みにくいと感じたものはあまり無かった。
苦労しながら読み進め、100ページ目付近からようやく慣れ、物語の進展にやがて夢中になって、その後は円滑に読み切ることが出来た。
この小説は三人称体で書かれていて、最初の方は若い女主人公の「ゆき子」の視点でずっと進んで行くのに、40ページ目あたりで登場人物が3人になった時、突然別の男性の視点に切り替わるところがあって驚いた。しかも、切り替わったと思ったら数行でまた別の人物の視点に変わり、更にまたゆき子の視点に戻ったりして、あまりにも唐突な転調(私の作曲ではわざとよくやるのだが)のようで目眩がし、当惑した。基本的な小説作法としてはあまり推奨されない書き方で、漱石の『明暗』では確かもっとスムーズに・巧みに視点切り替えをやっていた筈だ。
そこは減点対象ではあるものの、しかし、人間心理がとてもよく書けており、素晴らしかった。
少女マンガを読むと、男性が妙に理想化されていたりして違和感を感じるが、それは男性が描くマンガに登場する少女が変に都合の良い、妄想が生んだイメージでしかなかったりするのと同様のことだろう。が、本作では男性心理が極めてリアルに・適切に捉えられている。
ゆき子の恋愛対象である富岡は、まったくしょうもない男で、バンジャマン・コンスタンの『アドルフ』と同様、エゴイスティックで、一度手に入れた女性にはすぐ冷淡になり、ワガママ・無責任で、別の女性に欲望の赴くままに手を出したりを繰り返す、単細胞な発情アニマルである。敗戦後の日本でなかなか定職に就けず経済的にも完全に失敗しており、自分の人生もロクに切り開けずに、怠惰にぼんやりと生きている。
だがそんな甲斐性の無い男の心を、とげとげしく批判的に描くのではなく、女性の心理と同等に、冷静に描写���ていることが素晴らしい。
女心と男心をリアルに描写し切れていることが本作の大きな魅力であるが、「やぶれた国」での悲惨な、混沌とした生の有様が描かれていることも実に興味深い。ただちに新たな事業を開始し、その後の急速な経済的発展の端緒についた者もあったであろう反面、どうしていいか分からずに混迷し、極貧の苦しみを生き続けたこのような男女が無数にいたのであろう。実際にとても貧しかったらしい青春を送った林芙美子の生活実感がにじみ出ていて、痛切なものを感じさせる。
ということで、これは実に優れた近代文学の名作であった。あと、『放浪記』の方も読んでから、桐野夏生さんの『ナニカアル』を読みたいと思っている。
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二葉亭四迷の浮雲と間違えて読み始めたやつ。戦後の混乱期と戦中の東南アジア駐在期を対比させながら、ダメダメになっていく男女の悲哀を描いた。男も女も徹底的にダメダメすぎて全く感情移入できなかったが、かつてはこういう人たちも多かったのだろうと思う。
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吹っ切れない女と、
自制できない男。
「逃げてゆこうといている男の心を、
こうした事で、時々見はぐれたのだとゆき子は
自分自身にもはっきりと言い聞かせるつもりで
富岡との思い出ばかりに引きづられていてはならないと思った」
いつの世にも、「惚れちまったものはどうしようもない」と
いうことはあるのだと。
しかも、戦争、戦後の混乱の中で、心は大いに揺さぶられ
時代も大きなうねりで人を呑み込み、移り変わってゆく。
大きな波にのまれて、刹那的に生きてしまう
弱い男と、どんなことがあろうと「好きだ」という
気持ちにまっすぐに男に手を差し伸べてしまう女。
こう書くと、ありがちな話にも思えるのだけれど
それをぐいぐいと引き込まれるように読ませてしまうのが
林芙美子の筆力だなぁ。と。
広い空に浮雲を見つけたら、この小説のことを
思い出すのだろう。