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「桶狭間の戦い」については今まで何冊かの本を読んできましたが、この本は今川義元に関する記述が多い点が、それらと比べて際立っていました。戦国時代に多くある合戦において、総大将が戦闘で亡くなるというのは、この戦いのみといっても過言ではないようです。
また多くの本では不利な状況から勝利した信長ばかりにスポットが当てられますが、義元の素晴らしさについても語られても良いと思います。今後も、今川側から見た「桶狭間本」を読んでみたいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・商業が盛んになるにつれて、東海道に面した地域を押える清洲の織田氏は、熱田と津島の二大商業地の発展により経済力で優位にたった(p10)
・岩倉と清洲の二家以外の織田家から、優れた人材が世に出たのが、信長の祖父である「織田信定」であった、彼は熱田と並ぶ商業地の「津島」を押さえてのし上がった(p12)
・天文11年(1542)8月、今川と松平の連合軍は、4万の兵力で西三河を目指し、4000の織田勢と戦った、桶狭間の戦いに匹敵する(p16)
・信秀(信長の父)の葬儀には、信長と母を同じくする弟の信行がいたが、彼らは正装して柴田勝家や佐久間信盛と一緒にいた(p25)
・永楽通貨は室町時代輸入した明朝の通貨で、1貫文=1000枚、家康の身代金は500貫文であった(p40)
・雪斎の提案により、既に同盟のあった今川と武田に加えて、北条氏康の子:氏政と信玄の娘、氏康の娘と義元の子:氏真とが結婚することで、三者同盟が完成した(p43)
・10人が10人、すべて負の情報がもたらされる人間は、天才か狂人である、と雪斎は信長評に対してコメントした(p46)
・織田信秀、中国の孫文、ロシアのレーニン等は、苦労して革命を達成しながら、まったく後継者を育てようとせずに死んでしまった(p48)
・信長は、敵軍が領土に進攻しても、敵の一挙手一投足を知ることで効果的な反撃ができると知っていた、なので生駒氏のような各地の土豪や神社の神官や寺の僧職の交流も大切にした(p62)
・梁田政綱は、当座の恩賞を与えられた上に、後日になって沓掛城の城主という抜擢を受けた(p231)