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紙の本
一期は夢よ、ただ狂え
2004/02/15 21:01
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投稿者:黒木太郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
団鬼六。鬼六を<きろく>と読む人もいるようだが、正確には<おにろく>、この本の著者である堀江教授も冒頭にきちんとルビをふっている。いかにもおどろおどろしい名前だが、昭和六年生まれの男が鬼と化してSM道をつきつめることを決意してつけたペンネームらしい。SM小説の巨匠である。誤解をおそれずにいえば、漫画界の手塚治虫に匹敵する、ビッグネームである。最近は新潮社のような大手出版社が何冊も新作を出版しているからかなり有名になっているが、私が初めて鬼六の名前を知った三〇年以上前は、名前を見ただけでドキドキしたものだ。(七〇年代の初頭は今みたいにヌード写真も氾濫していなかった頃である。『SMファン』や『SMセレクト』といったSM雑誌のグラビアは縛りとか鞭打ちの写真を掲載していたが、ヌード写真を見るにはこういった雑誌を購入する方が容易な時代だった。そして、そんな雑誌には必ずといって団鬼六の名前があったものだ。そのような事情も、貸本漫画時代の手塚に似ているような気がする。)
著者の堀江珠喜教授はれっきとした大学教授である。しかも女性なのだ。そのような方がこうしてSM界の巨匠といわれる団鬼六の作品論を書かれるのであるから、SMを変態扱いにしていた時代からすれば隔世の感がある。そもそも鬼六が活躍していたSM小説や官能小説というのは文学史の鬼っ子みたいな存在で、まじめに論じられてこなかった印象が強い。多くの読者(そしてその多くは匿名性をもっているのだが)を持ちながら、社会史としても風俗史としても論じられていない。「大衆的な材料ほど、研究対象として扱うのは難しいのであるが、このあたりで<ガクモン>としての<鬼六論>を、一度まとめておくことで、昭和文化誌の一端がうかがえると思われる」(11頁)と書く、堀江教授に拍手をおくりたい。
そもそも団鬼六のSM小説は極めて日本的な構成である。SMの世界でもっとも有名なマルキ・ド・サド(いうまでもなくサディズムは彼の名前からつけられたものだが)との比較でいっても、鬼六作品では鞭打つといった乱暴な描写は極めて少ない。「それよりも縄で縛ることによって、精神的にいたぶりながら、綺麗な身体に官能美を与えるのが、鬼六のSMなのだ」(72頁)と、教授の分析は懇切丁寧である。鬼六の作品はよく耽美小説といわれるが、この耽美という言葉には美の追求という真摯な意味が込められていることを忘れてはいけない。
SMが社会的に認められるようになったのはいつ頃だろうか。鬼六の『SMに市民権を与えたのは私です』という本が出版されたのは一九九五年であるが、さすがに公共図書館では購入してもらえなかった。(同じ図書館が二〇〇〇年に新潮社から出版された鬼六の『檸檬夫人』を貸し出したのが不思議で仕方がなかった。いずれにしてもそのあたりがSM開化の頃だろう)日本におけるSMの歴史にとって、鬼六の果たしてきた意味は大きい。それはいつまでも第一線で活躍し続けた手塚治虫と、やはりよく似ている。手塚ファンには叱られるかもしれないが、手塚の「鉄腕アトム」がいつまでもヒーローでありつづけたように、鬼六の「花と蛇」の静子は永遠のヒロインである。そして、多くの手塚漫画論が書かれたように、これからも真面目な団鬼六論が書かれることを期待する。
紙の本
和風耽美世界
2004/05/29 16:18
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ここ数年のうちで読んだ団鬼六の作品は『無残花物語』と『鬼の花嫁』で、ともに幻冬社アウトロー文庫。それ以前から『SM○○』とかでけっこう読んできたと思うが、作品名はよく覚えていない。本書巻末の「鬼六作品ベスト15読書ガイド」を見ると、『無残花物語』が第十五位の『お柳情炎』と同じジャンルのものとして紹介されていた。第一位は「不貞の季節」。この自伝的小説は『美少年』に収録されているということなので、同じ新潮文庫の『檸檬夫人』とあわせてそのうち読んでみよう。──鬼六作品といえば延々と続く執拗な言葉による羞恥責めの情景が印象に強く、時代物官能小説にもっとも濃く漂うその「和風」というべき淫靡さに魅かれてもきたので、関西人・団鬼六の魅力について、著者が「SMという用語を容易に使うのがはばかられるほど、マルキ・ド・サドやザッヘル‐マゾッホとは一線を画する鬼六の耽美的世界は、実は日本文化に置いてこそ花開けたのではないか」(序)と書いていることにいたく共感を覚えた。
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