紙の本
いざ、頂点へ!
2002/04/21 00:23
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投稿者:ゴンス - この投稿者のレビュー一覧を見る
古井は純文学の分野において、村上春樹と共に現在の日本文学を支えている作家である。
「杳子」。時折起こる記憶の喪失と虚脱感に憑かれる主人公、それを見守る彼氏を通してその淵源を辿る物語。
現実と幻想を行き来しながらも、なお現実に留まっていようとする姿に彼氏が救いの手を求めるものの、結局、その彼女の存在によって彼氏の異常さも浮かび上がってくるという逆説的な構図をとっている。つまり、ここでは彼女の「自己回復」が強調されているのではなく、彼氏の「他者回復」が示されているのである。恐ろしいほどの精神世界の中で。
作家志望者は一読するべきだろう。ただし、一読して何も感じないのであれば今すぐにでもペンを置いた方がいい。
紙の本
不機嫌な実存
2001/08/30 09:22
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投稿者:呑如来 - この投稿者のレビュー一覧を見る
神経症の女子大生「杳子」と「彼」のいびつな愛の物語ほどに、を理解し受容することにひそむ脅威を限りない“優しさ”で描いた作品は他に例がない。村上春樹の『ノルウェイの森』も似たようなモチーフではあるが、あの作品は「僕」の自己愛で満たされてしまっているために、真の“優しさ”は存在する余地がないのだ。ラスト、杳子が呟くセリフの痛々しさに深い哀しみと共感を捧げたい。
「妻隠」は彼らの後日譚として読むことができるが、結婚後の倦怠感や生ヘの絶望感が色濃く、その憂鬱さがなぜか心地よい。
紙の本
喪失の「不在」のなかで
2000/07/21 05:41
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投稿者:安藤星彦 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この『杳子』が書かれた70年という時代のコンテクストの暴力的な要約。三島由紀夫の自殺と、学生運動の敗北(「政治の季節」の終焉)。「第一次戦後派」と「第三の新人」を分けるものが、敗戦によって崩壊した個と全体の照応関係(統覚)を再構築するか、あるいは「喪失」の感覚にとどまり続けるかにあるのだとすれば、古井由吉ら「内向の世代」とよばれる作家たちは、後者に属しながらも、もはや「喪失」の感覚すらも拠り所にできない、統覚とその不在の間で「挟み撃ち」(後藤明生)にされるほかない状況のなかで言葉を紡ごうとする人たちのことだと、とりあえず言うことができる。
本小説の物語構造そのものはいたって単純だ。山の谷底で出会った青年と神経症を病む少女杳子との恋愛小説という形態。精緻にして冷たく美しい文体。幻想性すらも感じさせる独特な比喩の用法。いつしか読者は作者の作り上げる世界観のなかに違和感なく入っていってしまう。
「病気の中へ座りこんでしまいたくないのよ。あたしはいつも境い目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいに顫えて、それで生きていることを感じているの」
杳子の病は臨床用語で言えば境界例にあたるものであり、彼女は「健康」と「病気」の間をたえずゆれうごく。「病気の中に座りこんでしま」うということは、分裂病状態に陥ることであり、そのとき他者は消滅し、社会と何ら共有するものをもたない完全な暗黒の中におかれることになる。それは理性をもつ者にとっては精神的自殺に等しい。ゆえに杳子はそれを拒絶する。一方で彼女は、社会に適応するためにこしらえた見せかけだけの自己同一性(健康)をも嫌悪し拒否する。
その杳子が主人公の「彼」に対してのみ心を開くことができるのは、彼が「健康人としても、中途半端なところがある」人物であり、杳子の内面へと「入りこんで来るわけでもなく、距離を取るでもなく」、彼女の「病気を抱きしめるでもなく(略)病気から引張り出すでも」ないような関係性を保ち続けるかぎりにおいてである。彼との関係においてのみ、彼女は不安定ながらも「境い目」にいることができる。そこには自己というものへの作者の深い洞察がうかがえる。自己が自己たりえるのは他者との不安定な関係性のなかにおいてでしかなく、ゆえに自己は同一性・連続性を保ちえず、つねにゆれ動いていなければならない。
二人にとって、安定した関係というものは持続しえない。それは杳子に自己の同一化(反復)を強いるからである。ゆえに彼女は「彼」に対してつねにアンビヴァレントな感情を抱きつづけねばならず、両者の関係は一定の距離をおいたものにならざるをえない。彼女は彼が関係の持続を求めることをおそれる。
「いまのあたしは、じつは自分の癖になりきってはいないのよ。あたしは病人だから、中途半端なの。健康になるということは、自分の癖にすっかりなりきってしまって、もう同じ事の繰返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。そうなると、癖が病人の場合よりも露わに出てくるんだわ。そんな風になったら、あなたはあたしに耐えられるかしら…」
実は杳子にとって、「そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なこと」であり、やがて彼女は関係の持続を求める「彼」を受け入れるのだが、そのとき一回一回の不安定な関係性はまさに終息する。その最後の瞬間に、「物の姿がふと一回限りの深い感情」を帯び、彼女は「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」とつぶやく。この反復しえない一回性へのすぐれて文学的な「夢想」をどう受け取るか。
■■■ HOSHIHIKO ANDO
■■□ a.k.a."BLUE"
□■■ INTER-COURSE SUITE
■■■ diaspora@cyberspace.co.jp
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「平たいところにいる時に感じるんです。ときどきなんですけど、どうして立っていられるのかわからなくなって……」誤解をおそれずに言うなら、神経症のもつある一面を、圧倒的な筆力で描ききったたぐい希なる小説。読了後はヒロインの病がわずかにこちらに伝染し、食事や電車に乗るなど、当たり前の行為がひどく慣れないものに思えてくる。文章のうまさは本気で日本最高峰、暗い小説がきらいではないという人には特に大推薦。
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「杳子」の方が好き。
面白かった。
あと、よくこれだけ「感覚」をうまく表現できるよな・・・と感心した。
でも、話自体は教科書的・・・かな(汗)
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一度読んだら脳裏に焼きつく日本文学史上最高クラスの文体。
あとは「ヤンデレ」杳子に萌えられるか否か。もし萌えるなら、一生忘れがたい作品となるでしょう。
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軽い小説ばかり読んでいたので最初は中々入り込めず。
ノッて来たらスルスルッと読めました。
風景や情景の描写が気持ち良かった。
内容は重めやけど、読後感はちっとも悪かない。
日本語を楽しめる種で良かったと思いました
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授業の関係で、図書館で借りた。図書館のはカバーついてなかったので、今初めてこれでカバー画像を見た。怖ぇ。
古井由吉は2冊目。…のはずだが、1冊目に何読んだか思い出せない。しかもここにまだ書いてない頃だったっぽい。すーごい気になるが分かんないし、とりあえずこの本ではなかったらしい。
何となく、この曖昧さが不安感を募らせる。いまいちはっきりとしないぼんやりとした輪郭が、怖い。
というか、これで「つまごみ」って読めないよなぁ…。
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「杳子」は高校時代に読んで、特異なセンセーションを覚えた記憶がある。先日、30年ぶりに読み直してみると、ストーリーをほぼ忘れていたので、初めて読む本のように読んだ。高校当時、いかに具体的な内容を理解・消化できていなかったかがわかった。同時に、それにも関わらず当時の僕はこの小説に深く感動したのだ。ここに文学の面白さがある。感受するためには、理解は必ずしも必要ない。
「妻隠」は、初めて読んだ。「杳子」とは全然違った趣のストーリーで、作者の幅の広さを感じた。
特異な感受性は、梶井基次郎や安岡章太郎と並ぶ、日本文学の宝だと思う。
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古井由吉初体験。
いや、文学の奥深さを堪能した。
「杳子」なんていうのは今ならばありきたりの設定。
病んだ女と健常な男の恋。
でも古さを感じさせない。
神聖なものに触れたって気分。
もう聖域っていうか。
多分現代の作家が同じテーマで書いたらここまでのモノは無理でしょう。
情景と心理の描写が秀逸。
それでいてサクッと読ませる。
不快な感じもない。
うーん、素晴らしい。
芥川賞も納得。
もう一つの「妻隠」も設定としては普通なんだけど、そこからの展開があるようでないというか。
言葉にできない美しさでまとめ上げてる。
小説を読んだ、っていう読後感がすごい。
こういうの好きだなー。
色々ワイワイと語り合える小説じゃない。
「うん・・・上手く言えないけど・・・良いよね」みたいな、言葉数少なめで味わいたいタイプ。
他の代表作も即チェック決定。
まだまだ引き出しは沢山あると見た。
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この人の本は何冊か読みましたが、やはりこの「杳子」という中編?だけが際立ってアウラを放っているような気がしてなりません。
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おもしろかったか、と尋ねられれば、おもしろくはなかったと答える。読んでいる間の快楽はなかった。むしろ苦痛にも近かった。
でも十年近く絶対に読みたいと思っていた作家だし、じっさいに読んでよかった。陳腐な言い方だが、この読書経験をつうじて自分について今まで気づかなかったことが見えた気もする。
いずれにせよ快とも不快ともつかぬ不思議な感触を味わった。同属嫌悪とノスタルジーとがまぜこぜになった感覚、とでも言おうか。
この小説が描き出したのは、神経が外界に対してむきだしになってしまったがゆえに、日常生活をうまく送ることのできなくなった女と、その女をなかば理解し、もっと理解したいと願い、同時になかば欲望の対象として消費する男、このふたりのあいだの閉じられた関係性である。起伏にとんだ物語性はなく、その筆致の大半は「極限まで感性が研ぎすまされ、周囲でおこる事象のすべて―自然現象から対面する他人の表情・ことば・しぐさまで―に逐一全身が刺激されてしまうようになったとき、人はどうなってしまうのか」を女をモデルとして描くことに向けられている。
考えてみれば、この小説には「セカイ系」に向けられている批判のすべてが、おそらくあてはまる。そして当時向けられた批判も、それに似たものであったとも聞く。であるならば、この小説を「世界と個とが二項対立的になってしまい、あらゆる歴史・社会意識および世界と個人とをつなぐ社会的中間項への意識が欠落した、自慰的・自足的な閉じられた世界観」として鼻で笑う気になれないのは、どうしてなのか。うっすらとしていながらも由々しい同属嫌悪とノスタルジーを、読んでいる間中感じさせられたのは、どうしてなのだろうか。
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読みは〈ヨウコ〉で、「杳として行方が知れない」などの杳、神経を病んだヤンデレ女子大生と山男の関係を描いた作品。
主題の部分的な誇張は刺画でおなじみの技法で、この精神病も同じ、もし杳子が精神病であるなら、世の女性の大半は神経病み、少なくともそう思いこんでる。一般に女は自分を異常―健常でないことに矜持があって、逆に男は自身を健常だと思ってる。翳のある女性に憧れたことってあるでしょう。
そのルーツは終盤の対話にでる二人の人生観の違いにあって、少しも変わらない自分自身の反復、もしくは外の世界に応じる部分、どちらが自分にとっての人生か。
ところで、絶版のため定価320円がama●zonで600円でした。ガッデム
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著者の小説のなかで、とても読みやすい一冊。
「読みやすい」とは「文章」のことであり、内容のことではないことに要注意。
病んだ少女と彼女に惹き付けられる青年の話。
現在でも小説のテーマと成りうる題材が、1979年にもうこんなにはっきりと描かれ、こんなにも美しく深く書かれていたことに衝撃を受ける。
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両方とも面白かったが「杳子」のほうが個人的に好き。
読みやすく幻想的で、あの白痴の女を描き出す言葉の羅列が綺麗。
生々しくも惹かれる、妖艶さがあった。
精神病に犯されたものの純粋さと狂気は読んでいて酔う。
何度でも読み返したい作品だった。