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紙の本
没後、イタロ・カルヴィーノが短篇名作選を編んだというイタリア奇想幻想小説家の愛らしい長篇。さらなる邦訳書の出版を強く希望。
2004/05/16 19:30
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説のご意見番とも言うべきイタロ・カルヴィーノが、80年代、自分の死の数年前にこの作家の短篇をまとめたと解説にある。カルヴィーノが人びとの注目をこの作者に集めようとした理由が、読んでいてとてもよく分かる気がした。それは「空想力の背景の強靭さ」とでも仮に呼んでおこうか。
「奇想」「幻想」のふるさとはどこにあるのか。それらは人とは違った風変わりな感性の持ち主にふらり訪れるのではなく、意外にも、いつも変わらないように見える、目になじんだ日常風景に溶け込んで暮らす人にこそ、もたらされる機会なのではないかと思える。
たとえば毎晩横になったとき、壁の片隅にぶら下がっているドライフラワーが確認できる。いつもいつもそこに同じ様子であるというのに、どうしたわけかきょうはいつもと角度が違っているようだ。花も1〜2本足りなくなっているような気がする。
実際にはそれは母親が昼間すす払いをしたから、そうじ道具が当たって角度が変わり、そのために花の見え方が変わったのだとしても、「天井裏のネズミがやったのかもしれない。婚約者が決まり、彼女にプレゼントする花をさがしていたのかもしれない」「ネズミじゃなくて妖精かもしれない」「妖精じゃなくゴブリンかもしれない」…というように、展開していく発想の出発地点には日常風景への注意深い観察がある。
家の内側だけでなく、日々見慣れているはずの人や外に広がる自然をじっくり観察するからこそ、少しの変化でも発見する能力、変わらないものの変化を期待する能力が育まれる。カルヴィーノの作品は、そのように愛着ある日常があり、それを読みかえる眼の豊穣さに支えられている。その「日常の読みかえ」は、カルヴィーノが蒐集した民話が長らく向かってきた方向でもある。
田舎の親戚を訪ねてきた主人公ジョバンカルロは、その家のもてなしの席に突如現れた若い女性に眼がくぎづけになる。きっとカルヴィーノはこの出会いしなの描写が好きだったろう。
彼女の眼から視線をそらせないまま見つめた髪、顔、そして胸の表現、見ることの興奮をつづったそれにつづく文章、席についた彼女を改めて観察するために動いていく視線の先を追う描写という流れ。腿からひざを伝ったあと、足首から足へとすべった眼に入ってきたものが、何と先の割れた山羊のひづめ——この序盤の2ページほどの文章に、カルヴィーノはきっと狂喜したことと思う。
その不思議な娘に導かれて外に出たジョヴァンカルロの周囲に広がる田園風景、とりわけ月光を帯びた山の風景の美しさや不思議さは単なる想像だけで書けるものではなく、何回も繰り返しそれを感嘆して眺めた日々に裏打ちされる。実際に見ることの豊穣あってこそもたらされる奇想、幻想なのである。
魑魅魍魎に出くわすまでのユーモアもふんだんな民話的風味は、やがてホラー的な不気味さにも転じ、神話的な神秘さにも覆われる。だが、何というエピローグ。少年の日の切ない思い出を封じ込めるものがあって、物語はまた別の豊かな味わいを私たちに見せてくれる。
紙の本
月明かりの下で
2004/05/02 11:13
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
ランドルフィの名前は白水Uブックス「ダブル/ダブル」という傑作アンソロジーに収録された「ゴーゴリの妻」で知った。生涯妻帯しなかった「ゴーゴリ」の「妻」とはこれいかに、という関心から読み進めてみると、あろうことかゴーゴリには妻がおり、その妻とは、ポンプで自在に膨らましたりしぼませたりできる「人形」なのだ、というとんでもない記述が始まる。ゴーゴリの晩年の原稿焼き払い事件の「真相」を語る評伝の一章という体裁のこの爆笑ものの短篇は非常に強烈な印象であった。
他にも、カフカの「変身」を裏返しにしたような掌編「カフカの父親」や、ゴキブリで埋まる海上でノミと人間の決闘が始まる(おそらくは何らかの民話を下敷きにしたんではないかと疑われる)「ゴキブリの海」など、奇天烈な作風が印象的な作家である(残念ながら唯一の短篇集「カフカの父親」(国書刊行会)は現在品切れ)。
というわけで長篇が初めて訳されると知って、早速読んでみた。
すると、不条理、ブラックユーモアといったこの作家について回る形容詞で語るよりは、帯に柴田元幸が書いているように、「妖しく美しい」という印象が強い。
都会の大学生ジョヴァンカルロは叔父のいる田舎村「P」を休暇を過ごしに訪れる。到着した夜、夕食の席を叔父とその親類たちと囲んでいるところに、ある女性が現れる。その女性は叔父たちの顔見知りのようで、家の中に招かれるのだが、ジョヴァンカルロには、彼女の足が山羊の足に見えてしまう。しかしどうやら親類たちには、そうは見えてないようだった。
その後、幾度かグルーという名の彼女と会ったりするのだが、その日、山羊の足をして彼の前に現れたことは、なぜかグルーの記憶にはないということがわかる。
そうしてある時、山道を歩いているところで、グルーは出会った山羊とからまり合い、もつれるように転がり、いつしか下半身は山羊のものとなり、山羊の下半身は人のようになっていた。
山羊と人とが混ざり合うグルーがそうであるように、後半になるとさまざまな状況が日常と幻想との混合によって展開されていく。ジョヴァンカルロの家に仕えていた死んだはずの使用人と、死んでいるはずの山賊たちに連れられて、グルーとともに赴く先では、月の出とともに奇妙な儀式が始まる。
その様子はとても静謐で、カーニバル的な狂騒の雰囲気はない。月の青白い光のなかで人間の姿のジョヴァンカルロと、鵺のような奇怪な生物たちと、グルーらが、同じ場所に立ち会う異様な状況が現出する。月の下ではそれが可能になる。
語り口も落ち着いていて、「ゴーゴリの妻」などのような黒い笑いに彩られているわけではない。あくまで静かに、月明かりの妖しい魅力に満ちた、民話的ともいえる世界が広がるのである。
また、本書の装画として使われているレメディオス・バロの絵がいい雰囲気を出している。「星粥」と題されたその絵は、星々を集め、挽いたものを籠のなかにいる三日月に食べさせている、というきわめて幻想的なものである。この地味な色遣いと本篇の内容とが重なり合っていて、非常に印象深い。いい装幀だと思う。
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